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箱庭と猫 第二部 ―聖霊の試練編― 上  作者: 山本陽之介
第2章 翠嵐ヲ越ユ

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第28話 千年の呪縛

 セルバン森林都市国の首都、『大樹クロプスト』。


 高台から見下ろしたその全貌も圧巻であったが、実際に足を踏み入れた都市の威容は、レオたちの想像を遥かに超えていた。


 何千年も生き続ける数百メートル級の古代大樹。


 その太い枝葉や巨大なうろを中心に、植物の蔓を精緻に編み込んで構築された立体的なツリーハウス群。


 金属や研磨された石材は一切見当たらず、大樹の鼓動と共に呼吸するかのように存在するその街並みに、道中、シルビアだけでなく技術屋であるレオでさえも、何度も感嘆の息を漏らしていた。


 だが、その美しい景観とは裏腹に、道中、彼らに向けられる森の民たちの視線は冷ややかなものだった。


 千年間、強固な結界を張り、他種族を徹底して拒絶してきたエルフたちにとって、ヒュマーノ族の侵入はそれだけで異常事態だ。ましてや彼らは、エルフが最も忌み嫌う金属の意匠――真鍮の歯車――を堂々と身につけている。


 蔓の吊り橋を渡る時も、巨大な樹の回廊を歩く時も、周囲からは怪訝なまなざしが突き刺さった。中には敵意を隠そうともせず、微細な風のマナを刃のように揺らがせ、遠回しな殺意を向けてくる者すらいた。


 しかし、実質的な混乱や直接的な妨害が起きることは、ただの一度もなかった。


 彼らの先頭を歩くのは、この森の絶対的な統括者である国王ヴァルグ。そして背後には、他種族排斥の急先鋒である国境警備総隊長、王弟ヴォルグが目を光らせて付き従っているからだ。


 王と王弟が自らヒュマーノ族をエスコートしているという理解し難い光景を前に、森の民たちは戸惑いながらも、ただ静かに道を開け、頭を垂れるしかなかった。


 そして現在。


 数百メートル級の古代樹の最上層――風が常に吹き抜ける樹冠部に位置するその空間は、王宮というよりも質素な私邸と呼ぶべき佇まいだった。


 自然に形成された巨大なうろを基部にし、生きた枝葉を一切傷つけることなく精緻に編み込んで構築されている。研磨された石材や金属は一切使われていない。床や壁面は滑らかな樹皮と強靭な蔓で構成され、窓枠にはガラスの代わりに、微細な風だけを通す半透明の膜が張られている。室内には、乾いた木の香りと、森特有の清浄な空気が満ちていた。


 一見すれば原始的な造りに見えるが、レオの目には、それが高度に計算された構造体であることが見て取れた。


 生きた木材の繊維方向を利用した強度計算、自然の気流を誘導して室温を一定に保つ空調システム。


 森の民が何千年と培ってきた「決して木を傷つけない」という執念と知恵は、アイゼン王国の魔導工学とは異なるベクトルで、一つの究極的な最適解を導き出している。


 木で編まれた長椅子に腰を下ろしたレオのすぐ隣には、機能的なベージュのハンターコートを纏った聖女シルビアが、静かに腰を下ろしていた。


 彼女は木の実の器に入った冷水を口に運びながら、落ち着いた様子で室内の空気を窺っている。


 レオはシルビアとは反対側の、自身の隣に置かれた柔らかい絹のクッションの上に、灰色の毛玉をそっと下ろした。魔力枯渇によって深い眠りに落ちている氷の聖猫シャルルは、微かな寝息を立てている。レオはその背中を一度だけ撫で、自身の居住まいを正した。


 風の聖猫がヒト化した姿であるリエリーは、窓辺に寄りかかり、外の風の流れを無言で確かめている。レオの肩の上では、闇の大聖獣の分身体であるキュートが、手足を畳んで丸くなっていた。


 部屋の最奥。背もたれの高い椅子には、セルバン国王ヴァルグが深く腰掛け、腕を組んで目を閉じている。


 そして部屋の中央には、セルバン王弟にして国境警備総隊長であるヴォルグが、彫像のように直立していた。


 彼は椅子に座ることを拒み、敵意と戸惑いが入り交じった深緑の瞳で、長椅子に並んで座るレオたちを真っ直ぐに見下ろしている。


 窓の薄膜が風に揺れる音だけが響く中、長い沈黙を破ったのは、ヴォルグの低く硬い声だった。


「……先ほどの高台での発言。貴様が、かつてのショウの記憶を継いでいるということは、認めざるを得ない」


 ヴォルグは、レオの胸元にある真鍮の歯車を嫌悪の籠もった目で見つめ、言葉を継ぐ。


「だが、納得はしていない。千年の間、我々の前から姿を消しておきながら、なぜ今になって現れた。しかも、森を穢そうとしたノーマン・クロースの血を引くヒュマーノ族の姿で」


 詰問だった。


 声のトーンは抑えられているが、その内側には抑えきれない憤りが渦巻いている。


 レオは表情を変えることなく、淡々と答えた。


「俺が意図してクロース家に生まれたわけじゃない。時空属性の継承も、記憶の定着も、すべてはベル……聖霊王が意図したのかもわからない。ただ一つ言えるのは、母であるアイゼン王家と、父であるクロース家の血筋が選ばれたのかもしれないということだけだ」


 レオは静かに言葉を継ぐ。


「それに、今のクロース家は、お前らが思っているほど〝ノーマンイズム〟に染まっちゃいないぞ。……それから、今はショウとして記憶と知識を利用しているが、本来の俺の人格の主は『レオ・クロース』だ。過去の亡霊として振る舞うつもりはない」

「ならば、あの高台での暴言はなんだ」


 ヴォルグが半歩踏み出す。樹皮の床が微かに沈み込み、重い圧迫感が室内を満たした。


 だが、レオは表情一つ変えない。隣に座るシルビアもまた、グラスを置くことすらせず、涼しい顔で冷水を口に運んでいる。


「森の木々を切り倒せなどと、エルフの王に向かってよくも言えたものだ。我々にとって、木々は命そのもの。それを単なる物質のように切り捨てろというのか。ノーマンの血に染まった貴様の言葉など、到底受け入れられるものではない」

「訊いてたのかよ」


 レオは呆れたように小さく息を吐き、視線を逸らさずに静かな声で事実のみを返した。


「俺が言ったのは、間伐を怠れば森の地盤が崩壊するという物理的な事実だ。木を切らないことが、結果として森全体を殺す原因になっている。信仰や感情論で、重力や土砂の崩落を防ぐことはできない」


 その冷徹なまでの正論が、ヴォルグの導火線に火をつけた。


 ヴォルグの全身から、周囲の空気を軋ませるほどの暴風のマナが吹き荒れる。窓の薄膜が激しく震え、室内の木製の小物が風圧で揺れた。


「御託を並べるな……!」


 ヴォルグが声を荒らげる。その表情は怒りだけでなく、深い悲痛によって歪んでいた。


「貴様らヒュマーノ族の傲慢さが、かつてこの世界を焼き尽くしかけたのだ!ショウは、その尻拭いのために命を落とした。あまつさえ、その功績を歴史の闇に葬り去られ、貴様らは彼を忘れ去った!我々だけだ。千年間、片時も忘れずに彼を想い続けてきたのは!」


 千年の間、失われた友を想い続けてきたエルフの執念。


 他種族を忌み嫌う強硬な排他主義の根底にあるのは、優生思想ではなく、友を犠牲にした世界への底知れぬ絶望だった。


「それなのに……なぜだ」


 ヴォルグの拳が白く染まる。


「なぜ、また彼らのために戦う。なぜ、ヒュマーノ族の姿で、我々の千年の悲しみを土足で踏みにじるような真似をするのだ!」


 痛切な叫びが、部屋の空気を重く沈ませる。


 シルビアが痛ましそうに目を伏せ、リエリーは目を細めて窓の外へ視線を逸らした。最奥で目を閉じているヴァルグ王も、弟の言葉を否定することはなかった。


 だが、レオの瞳に同情の色は浮かばなかった。


 彼は深く息を吸い込み、冷ややかな声で静かに宣告した。


「祈ってくれていたことには、感謝する。……だが、俺はその千年の祈りを『呪い』だと思っている」

「なんだと……?」


 空気が凍りついた。


 ヴォルグから発せられていた暴風のマナが、一瞬だけピタリと止まり、殺気を帯びた目を剥く。


 だがレオは、怯むことなく言葉を繋げる。


「ショウが死んだことを理由に、他種族を憎み、世界との対話を拒絶した。過去の悲劇を盾にして、自分たちが変わることから逃げているだけだ」


 抜刀されれば、この距離では取り返しがつかない。だが、レオは全く動じることなく、ただ真っ直ぐにヴォルグを見据え続けた。シルビアもまた、レオを完全に信頼し、微動だにせず座り続けている。


「ショウの死を理由に、思考を止めるな。千年前、俺がお前に背中を預けたのは、そんな過去に縋るだけの男だったからか?」


 その言葉に含まれた「俺」という主語が、ヴォルグの動きを完全に縫い留めた。


 剣の柄を握る手が震え、再燃しかけていた暴風のマナが嘘のように霧散していく。


「お前たちが間伐の必要性を理解できないのは、愚かだからじゃない。……経験がないからだ」


 レオは自身の懐から【マナロジカ】を取り出し、手元の小さな木製テーブルの上に置いた。


 真鍮のケースに覆われた無骨な端末。その表示窓には、先ほどの高台でスキャンしたクロロン大森林の地盤データが数値化されて点滅している。


「それは……、なんだ?」


 金属の意匠を忌み嫌うヴォルグが怪訝そうに眉を寄せる。


「あー、これか?これは【マナロジカ】。自然の事象やマナの流れを『神秘』として片付けず、すべてを数値とデータで客観的に測るための、アイゼンの技術者の仕事道具だ」

「そんな鉄臭いものを出すとは!貴様――」


 端末から漂う微かな金属の臭いと無骨な見た目に、ヴォルグが顔をしかめて抗議の声を上げる。


「まあ、訊けよ。百聞は一見に如かずだぞ」


 レオはひらひらと手を振ってヴォルグの怒気を流し、端末の数値を指先で軽く叩きながら、歴史の因果を淡々と紐解いていく。


「お前たちエルフは、億年を超える歴史を持つ。だが、これまでは自然のサイクルに合わせて世界の森から森へと渡り歩く、遊動生活を送っていたはずだ」


 レオの指摘に、ヴォルグとヴァルグが僅かに息を呑む。


「一つの森に固執せず、住処を変えていた時代は、お前たちが去った後に自然のサイクルで森が再生していた。……いや、より正確に言えば、他種族が森を再生させていたんだ」

「他種族が……だと?」


 ヴァルグ王が、堪えきれずに低く問い返した。


「ああ。お前たちが居住し、清浄なマナを帯びて育った木々は、他種族にとって極上の木材だった。だから、お前たちが去った後の森には、ヒュマーノ族などの他種族がこぞって入り込み、伐採を行っていた」


 レオは端末の数値を指先で叩きながら、歴史の因果を淡々と紐解いていく。


「つまり、エルフ自身が木を切らなくても、他種族が自然と『間伐』の役割を果たし、森の生態系サイクルが保たれていたんだ。……お前たちが忌み嫌う他種族が、知らず知らずのうちに森を助けていた」


 その事実に、ヴォルグは言葉を失い、ヴァルグ王は深く目を閉じた。


「だが、約千年前。ガルズ湖の千年封を守るという役割を担ってから、お前たちは歴史上初めて、このクロロン大森林に定住することになった。森を護るために強固な結界を張り、他種族の侵入を完全に遮断した」


 レオはテーブルに身を乗り出し、現実を突きつける。


「結果として、お前たちの歴史上初めて『誰も木を切らない森』が千年間継続した。このデータを見ろ。斜面の針葉樹が密集しすぎている。その結果、木々は日光を求めて上方へのみ成長を続け、幹が細く、根が浅くなっている」


 ヴォルグは反論せず、ただレオの言葉を聞いていた。


「浅い根では、斜面の土砂を掴み切れない。端末の演算によれば、次の中規模な暴風雨が来れば、保水力を失った土砂は関所ごと崩落する。……フェリシアさんがどうなるか、予測できないほど愚かではないはずだ」


 フェリシア。千年前から彼が想いを寄せ続ける、スカンス族の族長。その名が出た瞬間、ヴォルグの顔から完全に血の気が引いた。


 そして、彼は思い出したかのように、僅かに肩を震わせた。


 千年前、かつての友を失った時と同じ、大切な者を理不尽な災害で失うかもしれないという恐怖。思考を停止し、現状を維持し続けた結果、最も守りたかったはずの者を土砂の底へ埋もれさせてしまうという因果の残酷さが、彼の中でフラッシュバックしたのだ。


「木を切り、森に手を入れる。それは自然への冒涜ではなく、定住し続けるために必要な技術だ。……過去の悲劇を嘆きながら、今ある命を土砂に埋もれさせるつもりか?」


 感情を徹底的に排除し、歴史的背景と観測データだけを突きつける。


 それは、相手を打ち負かすための言葉ではない。問題を解決するための、技術者としての冷徹な処方箋だった。


 ヴォルグは剣の柄から手を離した。


 恐怖と後悔に震えていた彼の肩が小さく落ち、その場に立ち尽くす。窓から吹き込む風が、二人の間を静かに通り抜けていった。


「……レオの言う通りだ、ヴォルグ」


 最奥の椅子に座っていたヴァルグ王が、静かに目を開いた。


「兄者……」

「我々は億年を超える歴史の中で初めての定住を経験し、森の声に耳を傾けるあまり、目の前で崩れゆく土台から目を背けていた。他種族を拒絶した千年の停滞は、森を腐らせるには十分な時間だったということだ」


 ヴァルグはゆっくりと立ち上がり、レオの方へと歩み寄る。


「ショウの魂を継ぐ者よ。お前の指摘は、耳に痛いが、間違いなく事実だ。森を救うためには、木を間引く必要があるということだろう」

「ああ」

「だが、問題がある」


 ヴァルグが眉間におさまる皺を深くした。


「間伐が必要なのは分かった。しかし、切り倒した膨大な数の木をどうするのだ。そのまま放置すれば森が腐る。かといって、馬車で運び出すには数が多すぎるし、轍で森の地表を痛めつけることになる。効率よく、かつ森を傷つけずに搬出する手段など、我々にはない」


 王の言葉に、ヴォルグも重々しく頷いた。エルフの技術は木を加工することには長けているが、大規模な大量輸送には向いていない。


 切り倒すことはできても、それを処理できなければ二次的な災害を生むだけだ。


 レオはその懸念を予想していたかのように、静かに頷いた。


「その通り。だからこそ、俺たちアイゼン王国の技術が必要になる」

「アイゼンの技術だと?よもや、あの鉄の塊……マナトレインをこの森に通すと言うつもりか?」


 ヴァルグの顔に再び警戒の色が浮かぶ。機械の駆動音と鉄の臭いは、エルフが最も忌み嫌うものだ。


 かつて初代ノーマン・クロースがそれを提案し、決定的な決裂を招いた歴史がある。


「ああ。だが、初代ノーマンが作ろうとしたような、森を切り裂く鉄の道じゃない。森に溶け込む、森のための鉄路だよ」


 レオはテーブルの上の端末をしまいながら、はっきりと告げた。


「そのために、適任者の元へ案内する。彼なら、お前たちが抱える懸念を完全に払拭する設計図を出せるはずだ」

「適任者……?」


 レオは自身の懐から一つの鍵を取り出した。


 箱庭へと繋ぐ鍵、【ベルコネクト】。


「俺の親父だよ」

「……〝匠聖〟オスヴァルト・クロース」

「ああ。親父はずっと、この森のための解決策を考え続けていたからな」


 過去の呪縛を断ち切り、新たな道筋を森へ通すための交渉が、静かに始まろうとしていた。

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