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箱庭と猫 第二部 ―聖霊の試練編― 上  作者: 山本陽之介
第2章 翠嵐ヲ越ユ

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第26話 風の友

 模倣体が消滅した空間の中央に、微かなマナの収束が起きる。


 空間が歪み、そこから現れたのは、緑色に輝く風の宝球。


 【風の聖宝球セインツ・オーブ・ヴァン】。


 シルビアが安堵の息を吐き、ヴァルグが大弓を下げて静かにその宝球を見つめる。


 レオがそれを手に取った直後、背後から優雅な羽ばたきの音が聞こえた。


「――見事な風の読みであった。森の王よ」


 低く、威厳に満ちた声。


 空中に浮かんでいたのは、先ほどの模倣体とは比べ物にならないほど神々しい気配を纏う、四枚の翼と獅子のような力強い四肢、そして猛禽の頭部を持つ巨大な獣だった。


「セレーノ……」


 片膝を突いているヴァルグが、血を拭いながら、静かにその名を呼ぶ。


 風の大聖霊ウィンリーフの眷属、大聖獣ヴァン・アギーラのセレーノだ。


「そして、時空のことわりを継ぐ者よ。……約千年の時を超え、再び我らのもとに訪れたこと、我が主ウィンリーフ様に代わり歓迎しよう」


 本物の大聖獣は、厳粛な態度でレオたちを見下ろしていた。


 レオは片腕に灰色の猫を抱いたまま、静かに姿勢を正して一礼した。


「……お出迎え、感謝いたします。セレーノ様」


 恭しい態度をとるレオに対し、セレーノは鋭い二つの眼差しを細め、静かな風を伴う声を響かせた。


「堅苦しい挨拶は不要だ。……その魂、その魔力の波長。間違いなく、かつて我らと共に死線を潜り抜けた〝友〟の気配だ」


 セレーノの威厳に満ちた声には、千年の時を越えた再会を深く喜ぶような、微かな温もりが混じっていた。


「よくぞ戻ってきた。ショウの魂を引き継ぐ、若き友よ」

「……恐縮です。千年前と変わらぬ、清浄で心地よい風でした」

「ククッ。嫌味か?レオ」

「命の危険を感じましたからね、これぐらいは許してほしい」

「ハッハッハッ!違いない、許そう。というより、気にしていないがな」


 レオの内に息づく英雄の記憶が、目の前の大聖獣に確かな親愛を感じ取っていた。


 レオがかつての友に向けるように微笑むと、セレーノもまた愉しげに喉を鳴らした。


「我が回廊の理を解き明かし、力と知恵、そして何より互いを信じ抜く意志によって偽物を砕いた。見事な連携であった」


 大聖獣は、ゆっくりと空中でその巨体を旋回させる。


「特に、そこの氷の聖猫よ。大聖霊の加護による安全装置リミッターを外し、己の生命力すらもマナに変換して道を作ったその献身。……千年前から変わらぬ、気高き魂だ」


 レオの腕の中で丸くなっている灰色の猫――シャルルは、魔力枯渇による疲労で深い眠りに落ちているが、褒め言葉に反応するように、そのしっぽの先だけが微かに揺れた。


 セレーノの視線は、次に王衣を纏うエルフの王へと向けられる。


「そしてヴァルグよ。もう少し〝外の者〟に耳を傾けてはどうだ」


 セレーノの言葉には、大聖獣としての威厳の中に、長き時を共に生きた友に対する気安さが混じっていた。


「……わかっている」


 ヴァルグもまた、旧友の小言を受け入れるように短く応じた。


 さらに、セレーノの眼差しが、疲労を滲ませながらも凜と立つシルビアに向けられた。


「アウローラの愛し子よ。そなたの絶え間なき癒やしと、限界を超えて他者を支え抜いた不屈の精神。……そなたが影から支えなければ、この者たちは早々に風に散っていただろう。見事であった」

「……勿体なきお言葉、痛み入ります。ですが、わたくしはただお手伝いをしただけですわ」

「フッ、謙遜を」


 シルビアが恐縮して頭を下げると、セレーノは静かに首を縦に振った。


 セレーノは最後に再びレオを見下ろした。


「ショウの魂を継ぐ友よ。その宝球は、お前たちが勝ち取ったものだ。……光の猿のように軽薄な祝福はできんが、我ら風の眷属は、お前たちの行く末に追い風が吹くことを祈っている」

「感謝します」


 レオが言葉を返すと同時に、セレーノの巨体が徐々に半透明になり始めた。


「行くがいい。森の木々が、お前たちを待っている」


 大聖獣の身体が完全に薄緑色のマナの粒子へと変わり、上空に吹き荒れていた乱気流と共に霧散していく。


 回廊の最奥を満たしていた重圧が完全に消え去り、静寂が訪れた。


 レオは手の中に収まる【風の聖宝球】を見つめ、空間に水面のような波紋を作り出す。


 時空属性の収納魔法≪クロノ・ボックス≫。


 宝球を丁寧にその中へ納めると、レオは小さく息を吐いた。


「これで、二つ目ですね」


 そう呟き、レオは自らの左腕に抱かれたまま、すうすうと静かな寝息を立てている灰色の猫へと視線を落とす。


 マナだけでなく、生命力すらも削ってあの絶対零度の道を作ったシャルル。


「……よく頑張ってくれたな、シャルル。お前が道を作ってくれなかったら、俺たちはあの場で死んでたよ。本当にありがとう」


 レオが愛おしげにその小さな頭を撫でると、眠っているはずのシャルルのしっぽが、嬉しそうにパタパタと揺れた。


 シルビアが微笑みながら歩み寄る。彼女のベージュのハンターコートは所々が破れ、戦闘の激しさを物語っていたが、彼女自身の身体は癒やしのマナによって完全に無傷の状態を保っていた。


「ええ。シャルルさんのあの気高き献身には、わたくしも胸を打たれましたわ。……本当にお疲れ様でした」

「……ですが、限界を超えたシャルルが命を繋ぎ止め、俺たちが戦い抜けたのは、間違いなく貴女の支援があったからです、シルビアさん」


 レオは居住まいを正し、聖女に向かって深く頭を下げた。


「第一層の果てしない行軍も、先ほどの氷の壁の粉砕も、シルビアさんが自身を削って再生し続けてくれたからこそです」

「い、いいえ、わたくしなんて……!」

「謙遜するな、癒の聖霊の愛し子よ」


 静かな、しかし力強い声が響いた。


 膝をついていたヴァルグが、大弓を杖代わりにしてゆっくりと立ち上がる。彼は深緑の瞳で、シルビアを真っ直ぐに見据えた。


「氷の聖猫の命懸けの道作りと、それを支え抜いた其方の不屈の精神。……この試練突破の影の立役者は、間違いなく其方だ、聖女シルビア」


 エルフの王からの最大級の賛辞。


「ヴァルグ陛下……。勿体なきお言葉、痛み入ります」


 シルビアは少し驚いたように目を丸くし、それから頬を染めて俯いた。


 シルビアはそのままヴァルグの前に立つと、静かに両手を翳した。


「ヴァルグ陛下。失礼いたします」


 彼女の掌から淡い金色のマナが溢れ出し、ヴァルグの身体を包み込む。超高気圧の檻によって受けた内臓の損傷や、破裂しかけていた毛細血管が、細胞の強制的な活性化によって瞬時に修復されていく。


 エルフ族は本来、他種族の文明や干渉を極端に嫌う。だが、ヴァルグは抵抗することなく、静かに目を閉じてその治癒を受け入れた。


「……痛みが引いていく。これがアウローラ様の愛し子の力か」

「はい。お怪我が治って何よりですわ」


 シルビアが手を下ろすと、ヴァルグはゆっくりと目を開き、彼女に向かって小さく頷いた。


「改めて礼を言う。……森の民はヒュマーノ族の魔法を敬遠するが、今日だけは例外としよう」


 ヴァルグの態度の軟化に、シルビアは嬉しそうに微笑んだ。


「さて、長居は無用ですね。先程≪念話≫も入れておきました。もしかしたら、外でリゼたちが待っているかもしれません」


 レオは片腕でシャルルを抱えたまま、空いた右手で空間を波立たせ、≪クロノ・ボックス≫の中から一本の鍵――【ベルコネクト】を取り出した。


 何もない空間に鍵を突き立て、マナを流し込む。


 虹色の光が空間に魔法陣を描き出し、質素なドアが顕現する。


「行きましょう。……まずは、我が家の『地下倉庫』を経由します。ヴァルグ王、最終的な出口はここへ入った場所――第零門の前でよろしいですか?」

「ああ。構わん」


 ヴァルグの了承を得て、レオはドアノブを回した。


 扉が開かれると、回廊の冷たく乾いた空気とは異なる、古いが手入れの行き届いた木の香りが漂ってくる。


 そこは、次元の狭間に存在する屋敷――「箱庭」の地下倉庫だった。


 一行が次々と扉をくぐり、最後にレオが中へ入ってドアを閉める。


「ここが、箱庭……随分と狭いな」


 初めて箱庭へ足を踏み入れたヴァルグが、周囲に積まれた遺産の木箱を見回し、微かに目を細める。


「ははっ、ここは箱庭にある私の屋敷の地下室ですよ。ドアの行き先がこんな場所で申し訳ありません」

「いや、構わん。……確かに、時空の狭間の気配を感じる空間だ」


 ヴァルグはそう応じると、興味深そうに周囲の木箱へ視線を向けた。


 だが、レオは休むことなく、内側から再びドアノブに手をかけた。


 レオは目を閉じ、出口の座標を『風の五重輪オクト・クインタの第零門前』に固定するべく、先ほどまでいた場所のイメージを強く念じながらマナを流し込む。


 再びノブを回し、扉を開け放つ。


 今度は、生命の息吹に満ちた森の空気が流れ込んできた。


 扉の向こう側は、ヴァン・コリドーへ通ずる『第零門』の前の広場だった。


 一行が次々と扉をくぐり抜け、最後にレオが外へ出てドアを閉める。空間の歪みが修正され、ドアは幻のように消え去った。


「――お帰りなさいませ、レオ様!」

「リゼ。ホントにいるとは……。早いな」

「もちろんですわ!」


 待ち構えていたかのように声をかけてきたのは、エメラルドグリーンの髪を揺らす風の聖猫、リエリーだった。彼女の横には、手のひらサイズの黒い蜘蛛――キュートが控えている。


「お疲れだッチュ!ボクの糸のコート、大活躍だったみたいだッチュね!」


 キュートがレオの肩へと飛び乗り、得意げに胸を張る。レオのコートの表面には無数の細かい裂け目があったが、キュートの糸が完全に断ち切られることはなく、致命傷を防いでいた。


「ああ。お前の糸がなかったら、風圧で三回は死んでたよ。ありがとうな、キュート」


 レオが指先でキュートの頭を撫でると、リエリーが心配そうな眼差しでレオの腕の中を覗き込んだ。


「シャルルさん……。随分とマナを消耗しているようですわね。猫の姿に戻るまで限界を超えるなんて、クールな彼女らしくもありませんわ」

「俺たちを護るために、無茶をしてくれたんだ。……起きたら、一番美味い飯をご馳走してやらなきゃな」


 レオが灰色の毛並みを優しく撫でると、リエリーはふふっと微笑んだ。


「ええ。彼女も、すっかりレオ様のかわいい〝猫〟ですわね」


 リエリーは安堵したように頷き、それからヴァルグへと向き直った。


「ヴァルグ様も、ご無事で何よりですわ」

「……監視役が先に倒れるわけにはいかんからな」


 ヴァルグは短く答え、視線を周囲の森へと巡らせた。


 風の王の帰還に呼応するように、木々が葉を揺らし、歓迎のざわめきを立てる。


「それから、レオよ。戦いの最中で私に発した言葉遣いはどうした」


 ふと、ヴァルグが思い出したように静かな声で切り出した。


「え?なんのことですか?」


 レオが心底不思議そうに首を傾げると、ヴァルグは呆れたように鼻を鳴らした。


「なんだ、覚えておらぬのか。お前は私に『ヴァルグ。あいつの左翼の付け根、あの気流の結節点が見えるか』と、随分と気安く指示を出したではないか」


 エルフの王からの指摘に、レオは僅かに目を見開いた。


「……わ、私が、ですか?よもや、一国の王である陛下に向かって、そのような無礼を」


 レオは言葉に詰まり、深く頭を下げる体勢に入ろうとした。だが、ヴァルグはそれを片手で静かに制した。


「謝罪は不要だ。咎めているわけではない」


 ヴァルグは深緑の瞳を細め、視線を空へと向けた。


「あの声、あの間合い。そして、私への絶対的な信頼を前提とした戦術の構築。……まさしく私が知る『奴』のものであったからな。少しばかり、昔を思い出しただけだ」


 エルフの王の口元には、微かな笑みが浮かんでいた。


 千年以上の時を生きる王にとって、かつての戦友の気配を感じた瞬間は、不快なものではなかったらしい。


 ヴァルグは視線を戻し、レオを真っ直ぐに見据えた。


「レオ・クロース。……いや、〝友〟の魂を継ぐ者よ。私とお前の間に、もはや堅苦しい敬語は不要だ。千年前のように、気安く呼ぶがいい」


 エルフの王からの、異例の申し出。それは、ヒュマーノ族の機械文明を忌み嫌う彼が、レオという青年を完全に「友」として認めた瞬間だった。


 レオは少し驚いたように瞬きをしたが、やがてふっと肩の力を抜き、いつもの飄々とした、しかし温かな笑みを浮かべた。


「……分かった。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうよ、ヴァルグ」

「ああ。それでいい」


 ヴァルグもまた、千年の重圧が少しだけ晴れたような、穏やかな笑みを返した。


「さて、と」


 ヴァルグは一つ息を吐き、周囲の森を見渡した。風の王の帰還に呼応するように、木々が葉を揺らし、歓迎のざわめきを立てる。


「ヒュマーノ族の機械文明を認めたわけではないが……お前たちをただの侵入者として扱うのは、森の理に反する」


 ヴァルグは厳かに宣言する。


「お前たちを、正式に我が国への客人として迎え入れよう。首都である『クロプスト』の立ち入りも許可する」


 その言葉に、リエリーが表情を輝かせた。排他的なエルフの王が、機械の意匠を身につけたヒュマーノ族を首都へ招き入れるなど、歴史的な特例である。


「ありがとう。それは光栄だ」


 レオが素直に感謝を述べると、ヴァルグは少しだけ影のある表情で、森の奥へと続く獣道を示した。


「だが、都へ向かう前に、お前たちを案内したい場所がある。……我が国の首都を一望できる高台だ」

「高台?」

「ああ。……ショウ、いや、レオよ。そこで少し、お前と話しておきたいことがある」


 ヴァルグの深緑の瞳には、かつての友にだけ見せるような、微かな「苦悩」の色が滲んでいた。


 その只ならぬ気配を察し、レオは飄々とした態度を引き締め、小さく頷いた。


「分かった。行こうか」


 ヴァルグが踵を返し、静かに歩き出す。レオは仲間たちと顔を見合わせ、無言でその後を追った。


 吹き抜ける風に背中を押されるように、一行はエルフの王が導く森の高台へと歩みを進めた。

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