第25話 シャルルの献身
新たな〝旦那様〟と出会い、前の主と重ねたが、纏う雰囲気以外は似たところはなかった。
この二ヶ月弱、次元の狭間にある『箱庭』で時折やり取りを交わす中で、研究や魔道具の製作に没頭する姿がたまに前の主に重なることがあったが、まあ、その程度だった。
アイゼン王国でのクーデター騒動の際も、ワタシはメイドとしてアイゼン王宮に潜伏していたため、旦那様が前線でどのように判断し、どう動いていたのかを直接目で見る機会は少なかったのだ。
だから、真に理解してはいなかった。
先ほど、身を挺してエルフの王を庇った旦那様と、王との短い遣り取り。
合理的な判断を装いながら、自らを削ってでも必要なものを守り抜く、その不器用なほどの誠実さ。
それを見た瞬間、ワタシの中で、目の前の青年とかつての〝主〟の姿が、寸分の狂いもなく完全に重なった。
約千年前。次元の狭間に存在する『箱庭』。
その箱庭に存在する、ショウが暮らしていた屋敷の裏庭には、常に柔らかな春の日差しが降り注いでいた。
手入れの行き届いた花壇の傍らで、ヒト化の魔法≪ヒュマジオン≫によってアイスブルーのロングヘアを持つ女性の姿となったワタシは、一柱の大聖霊と対峙していた。
純白の生地に赤いラインのドレスを纏い、ヒトには持ち得ない超越的な気配を漂わせる女性。
聖霊たちを統べる王、ベル・ラシルである。
「シャルルちゃん。あなたには、影から他の七匹の猫ちゃんを守ってほしいの」
ベルが穏やかな微笑みを浮かべて告げた。
「なんでよ。あのコたちだって、ワタシなんかに守られるほど軟ではないでしょ」
ワタシは腕を組み、冷ややかな声でそっぽを向く。他の聖猫たちはいずれも強力な大聖霊の加護を受けており、一人ひとりが国家を揺るがすほどの力を持っている。わざわざ誰かが護衛に回る必要などない。
「ふふっ」
「なによ」
ベルが口元を押さえて小さく笑ったことに、ワタシは不機嫌そうに眉を寄せる。
「相変わらず、冷たい物言いね。でも知っているわよ」
「なにをよ」
「あなたが、優しいコだっていうことを」
「は?なにを云っているの?そんなわけないじゃない」
ワタシは心外だと言わんばかりに肩をすくめた。自身が司るのは氷の理。不要な感情は凍てつかせ、常に合理と冷徹さを以て主の敵を排除する。それが氷の聖猫の役割であるはずだ。
「ショウから訊いたのよ」
ベルの言葉に、ワタシは息を呑むように目を丸くした。
「あなたの名前の由来知っているかしら?」
「名前の由来?そんなのショウが適当に――」
「違うわよ」
ベルは静かに首を横に振る。
「え?」
「あなたの名前には意味がある。氷属性の加護に、冷たい態度。一見あなたはクールで冷酷なタイプに見えるわ」
ベルは、ワタシの目を見て優しく微笑みながら続ける。
「わたしね、ショウからあなたたち猫のことを何度も訊かされていたの。訊いてもいないのにね」
苦笑を浮かべながらベルは尚も続ける。
「ショウは云っていたわ。あなたは誰よりも優しい猫なんだ、って」
ワタシは言葉を返すことができず、ただベルの顔を見つめ返した。
「あの人は、魔法を神秘ではなく理で見る人だった。彼が研究していた魔導科学の中に、〝シャルル効果〟と呼ばれる特殊なマナの膨張現象があるそうよ」
「マナの……現象?」
「ええ。極低温で形成された氷の結晶は、普通なら冷たく硬く閉ざされているわ。けれど、そこにほんの僅かな『温かな波長(熱)』が加わると、溶けるのではなく、周囲のマナを巻き込んでより大きく、美しい華のように一気に膨張するの。そういう絶対的な魔導物理の法則。……彼は、あなたのその振る舞いを見て、その現象を名前に選んだの」
「どういうことよ」
「あなたは猫の頃から一見すると冷たい態度をとっていたわ。けれど、仲間が危険に晒された時は、どの猫よりも先頭に立って助けようとしていた。……少しでも温かな感情に触れると、溶けて無くなるのではなく、誰よりも素直に、大きく心を膨らませて華開くの。嬉しいことがあると、猫の姿の時はしっぽが止まらなくなるくらいにね」
図星を突かれ、ワタシは言葉を失った。
「冷たいふりをしていても、その内側は誰よりも周囲の温もりに敏感で、優しい」
ベルは慈愛に満ちた瞳で、真っ直ぐにワタシを見つめる。
「だから、〝シャルル〟。……ショウは、誰よりも温かいあなたに、温かいという意味を持つ名を贈った、と」
かつての主から与えられた名前の真実を告げられ、ワタシは大きく息を呑んだ。図星を突かれたように顔を逸らし、少しだけ目を伏せる。
「……馬鹿じゃないの」
震える声でそう呟くのが、その時のワタシにできる精一杯の強がりだった。
「シャルル!」
旦那様の鋭い呼称によって、ワタシは千年の回想から現実の戦場へと引き戻された。
上空のセレーノ・ファントムが、侵入者たちを完全に排除すべく四枚の翼を大きく広げている。空間の気圧が急激に操作され、肺から空気が強制的に搾り出されるような窒息の苦痛。
だが、その絶対的な停滞空間の只中で、森の王の意志を乗せた三筋の矢が、圧倒的な高気圧の反発に遭いながらも強引に気圧の境目へとねじ込まれていた。
完璧なバランスで構成されていた風の装甲――左翼の付け根にある結節点に、ほんの僅かな「乱れ」が生じている。
ワタシは地を蹴り、体内のマナ器官を限界まで駆動させ、長槍の先端に極限の冷気を収束させた。
自身の魂に刻まれた起動キーを心の中で静かに唱え、マナの出力を限界のさらに先へと引き上げる。
――≪コールド・コフィン≫。
長槍の切っ先から放たれた絶対零度の冷気が、矢が穿った僅かな隙間へと吸い込まれる。
気圧差とは、すなわち空気分子の運動である。ワタシの放った冷気が、その一点における分子の運動を根源から強制的に静止させた。
乱気流によって構成されていた分厚い防壁が、白く凍てつき、物理的な氷の壁へと変質する。
「シルビアさん!」
旦那様の声に呼応し、聖女シルビアが飛翔する。
シルビアは躊躇なくその右拳を振り抜き、分厚い氷の壁を粉砕した。氷の破片が乱反射しながら宙を舞い、絶対防壁に巨大な風穴が開く。
その穴を縫うように、銀色の閃光が走った。旦那様だ。
旦那様は空中で時空属性の結界を足場にし、鋭角に軌道を変えながら模倣体の懐へと潜り込む。その手にする剣身には、時空属性魔法≪アトリオス≫によって雷属性へと変換されたマナが青白い火花を散らしている。
狙うは、敵の左翼奥胸部にある核のみ。
だが、風の大聖霊の眷属の真の恐ろしさは、単なる防壁の堅牢さなどではなかった。
敵の理の本質は、純粋な暴風の質量ではない。「空気の制御」そのものにある。
青白い稲妻を纏った旦那様の刃が核に届く直前。模倣体は、開けられた風穴の周囲の空気を瞬時に完全な真空状態へと変質させた。
空気が存在しない空間。音すらも伝わらない絶対の無。
旦那様の剣に纏わせていた雷のマナが、空気を失ったことで伝導経路を絶たれ、虚しく火花を散らして霧散する。推進力すらも奪われ、旦那様の身体が空中に縫い留められた。
同時に、模倣体は四枚の翼を内側へと折り畳んだ。
真空領域の外側――すなわち、旦那様だけでなく、地上にいるワタシやシルビア、ヴァルグをも巻き込む広大な領域の気圧が、数千倍の密度へと圧縮される。
空間全域を対象とした、超高気圧の檻による圧殺。
肺に僅かに残っていた空気が強制的に搾り出され、眼球が破裂しそうになる極限の圧力。
旦那様は顔を歪めながらも、声を発することはしない。自身とワタシたちの周囲に時空属性の防御結界≪クロノ・リフラクト≫を多重に展開し、空間の位相をずらすことで強引に圧力を相殺しにかかる。
だが、敵のエネルギー総量が結界の処理能力を完全に上回っている。結界が軋みを上げ、旦那様の纏う闇の聖獣の糸で編まれたコートが、物理的な圧力に耐えかねて微かに裂けた。
地上にいるワタシたちの状況も絶望的だった。
立つことすら許されない重圧。ヴァルグが膝をつき、口から鮮血を吐き出す。
シルビアが両手を翳し、全員に極大の癒やしのマナを供給し続けている。だが、異常な気圧による細胞の破壊速度が、再生速度を上回り始めていた。
このままでは、あと数秒で全員が肉塊へと変えられる。
ワタシは、長槍を握り直した。
敵の「空気の制御」を破るには、空気を構成する分子そのものを完全に静止させるしかない。だが、対象は絶対真空と、それを囲む超高気圧の壁。大気中の水分など存在しない。
ワタシは体内のマナ器官の限界リミッターを外した。
大聖霊の加護による安全装置を無視し、自身の生命力すらも冷気へと変換して強引に抽出する。
氷の理を持つワタシの身体が、過剰なマナの放出によって内側から凍りつき、同時に焼き切れそうになる。
毛細血管が破裂し、白く滑らかな肌に無数の亀裂が走る。
その背中に、温かな金色の光が触れた。
シルビアだ。
彼女は自身の眼や鼻から血を流しながらも、ワタシの背中に両手を押し当て、限界を超えて損傷していくワタシの細胞をリアルタイムで強制的に再生させている。
激痛と癒やしが同時に身体を駆け巡る。
だが、ワタシは表情一つ変えない。
ワタシはこの千年近く、かつての主〝英雄ショウ〟の話を何度も訊いてきた。
その足跡も、武勇も、そして……気高き最期も。
かつての主がそうしたように、ここで守り抜く。
仲間を喪いたくない。
氷の身には余るほどに熱く、温かな感情。
ワタシは自身の魂の根源に触れ、自身の存在証明たる術式の起動キーを静かに宣言した。
「固有魔法――」
極低温に凍てつくワタシのマナが、内奥から生じた『温かな想い』を触媒として取り込み、限界を超えた白銀のマナが爆発的に溢れ出す。
「――≪恩咲の晶路≫」
『シャルル効果』――極低温の氷が、温かな波長を受けて一気に膨張し、華開く魔導物理の理。
冷たいふりをしてきたワタシの奥底にある温かな感情が、極低温の冷気と結びつき、爆発的な結晶化を引き起こす。
それは上空で拘束されている旦那様の足元――絶対真空の空間へと直接伸びていく。
無から有を生み出すような、理への反逆。
氷の結晶が連なり、空気を失っていた空間に、擬似的な大気と伝導体が創り出された。
氷の道が旦那様の足裏に触れた瞬間、消失していた雷のマナが再び剣へと纏い、青白い閃光が復活する。同時に、ワタシの背後で強大なマナが収束した。
膝をついていたエルフの王、ヴァルグだ。
彼は自身が持つ出来得る限りのマナを一本の矢に込め、血まみれの指で大弓を引き絞っていた。
言葉による合図はない。だが、二人の戦士の呼吸は、千年の時を超えて完全に同期していた。
弦が弾ける硬質な音。
放たれたヴァルグの矢が、空気を切り裂くのではなく、旦那様の背中を押す強烈な追い風となって飛翔する。
旦那様が動いた。
全身の骨が軋む音を響かせながら、ワタシの創り出した氷の結晶を足場にして虚空を蹴る。
王の矢が作り出した風の軌道に乗り、雷光を纏った銀閃が、限界まで収縮しようとする気圧の檻を突き破る。
王の矢と、若き英雄の剣。
二つの理が完全に重なり合った一撃が、敵の左翼奥胸部にある核を同時に、そして正確に穿った。
金属が軋むような絶叫が鳴り響く。
模倣体の動きが完全に停止した。
次の瞬間、四肢を持つ巨大な猛禽類の姿を保っていたマナの集合体が、内部から爆発的に崩壊していく。光の粒子と緑色のマナが、暴風の余波と共に散っていく。
敵の消滅を確認した直後、ワタシの体から力が完全に抜け落ちた。
自身の生命力すらもマナに変換して固有魔法を行使した代償。
ヒト化の魔法を維持するための最低限の魔力すらも枯渇し、ワタシの視界が急速に縮んでいく。
白く滑らかだった肌が灰色の毛並みへと変わり、ワタシは本来の猫の姿に戻って、冷たい地面の上へと崩れ落ちた。
立ち上がる力はない。小さな肺が酸素を求めて激しく上下し、肩で荒い息を繰り返す。
着地の音が聞こえた。
旦那様だ。
剣の残心もそこそこに鞘へ放り込むと、血まみれのコートを翻し、真っ直ぐにワタシの元へ駆け寄ってくる。
冷たい地面の上に片膝をつくと、震える両手で、倒れ伏すワタシの小さな身体をそっと抱き上げた。
キュートの糸で編まれたコートの感触と、過酷な戦闘を終えたばかりの青年の、体温。
それはかつて、裏庭で日向ぼっこをしていた時に感じた主の温もりと、同じ匂いがした。
「……シャルル」
旦那様の涼やかで、どこまでも優しい声が、耳元に落ちる。その声の奥にある不器用なほどの誠実さに触れ、ワタシの胸の奥で、小さく熱いものが膨らんだ。
だが、ここで素直に喜ぶのは、ワタシの性に合わない。
「……死んだ、みたいな雰囲気になっているけれど、生きているわよ?」
ワタシは猫の姿のまま、精一杯の憎まれ口を叩く。すると旦那様は、目を丸くした後、肩の力を抜いて笑った。
「ははっ。ありがとう、シャルル。お前のおかげで、みんなも生きているよ」
……ほんと、どこまでもお人好しなんだから。少しは自分の身も案じなさいよ。
ワタシはそのまま、旦那様の腕の中で心地よい疲労感に身を委ねた。
気力はないはずなのに、不思議なことに、ワタシの灰色のしっぽだけが、微かに、しかし確かに左右へ揺れていた。




