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箱庭と猫 第二部 ―聖霊の試練編― 上  作者: 山本陽之介
第2章 翠嵐ヲ越ユ

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第24話 風の理と千年の戦友

疾風の心奥(ヴァン・コル)』。


 風の聖域の結界防壁『五重輪オクト・クインタ』の最奥に位置するその空間には、天井を覆う岩壁も、迷宮を形成するクリスタルも存在しなかった。見渡す限りに広がるのは、荒涼とした岩肌の大地と、分厚い鉛色の雲が垂れ込める空。


 この領域を支配しているのは、全てを薙ぎ払おうとする暴力的な暴風の質量であった。


 空間の中央、上空数百メートルの位置に、巨大な影が旋回している。四枚の翼を持つ猛禽類の姿。しかし、その身体は生物の肉や羽毛ではなく、半透明の薄緑色に発光する高密度のマナで構成されていた。


 風の大聖霊ウィンリーフの眷属たる大聖獣ヴァン・アギーラのセレーノ。


 その姿と力を模倣して創り出された防衛機構、ヴァルグが仮称した【模倣聖獣ミミック・ビースト セレーノ・ファントム】である。


 上空の模倣体が、鋭い嘴を大きく開く。直後、周囲の大気が異常な速度で圧縮され、目視できるほどの歪みとなって地上へ射出された。


 極大の真空波。


 レオ・クロースは前衛に立ち、自身の前方に時空属性のマナを集中させた。空間の屈折率を強制的に書き換え、迫り来る物理的質量の軌道を逸らす防御結界、第五位階時空属性魔法≪クロノ・リフラクト≫。


 不可視の暴風が結界表面に激突する。空間が激しく軋むような高周波が鳴り響き、レオの足元にある岩盤が、逃げ場を失った風圧によってすり鉢状に抉り取られていく。


 屈折の術式をもってしても、敵の放つ純粋なエネルギーの総量を完全に受け流すことはできない。結界の端をすり抜けた微細な真空刃が、レオの頬を浅く切り裂いた。闇の大聖獣カドリーの分身体、キュートの糸で編まれた絶対の防御を誇るコートでさえ、限界を超えた風の摩擦によって微かに繊維を断ち切られる。


 レオは靴底で岩盤を削りながら後退を強いられるが、決して背後の仲間たち――特に、監視役として同行しているセルバン森林都市国の国王、ヴァルグ・セルバンへ攻撃を逸らすことはしなかった。


 短くマナを操作し、圧縮された暴風の塊を完全に軌道から逸らす。暴風は彼らの後方の荒野へと直撃し、大地が爆発的に弾け飛び、土砂が天高く舞い上がった。


 レオは魔法を解除し、腰に帯びた愛剣の柄を握り直す。頬から流れる血は、隣に立つ聖女シルビア・スワンが右手を翳した瞬間に、淡い金色のマナによって細胞分裂を促され、跡形もなく塞がった。


「感謝します、シルビアさん。……厄介ですね。ただの風の塊ではなく、極限まで高められた気圧の壁そのものをぶつけてきている」


 レオは首に掛けたゴーグルの倍率を上げ、上空を舞う敵のマナの循環を視覚化する。模倣体の周囲には、本体を守るように幾重にも重なる高気圧の断層が渦巻いていた。それは不可視の装甲であり、いかなる物理的質量も、魔法的エネルギーも、近づく前に弾き飛ばす絶対防壁として機能している。


「私の冷気も、あの風速の前では対象を凍らせる前に霧散させられるわ。……鬱陶しい鳥ね」


 シャリーナが白銀の長槍を振るい、自身の周囲に漂う氷の粒子を操作する。彼女の放つ絶対零度のマナは、風のことわりに対しては有効な手段となるはずだった。だが、対象の規模と速度が、彼女の冷気が定着するまでの時間を上回っている。


「私の矢も同じだ」


 最後尾に立つヴァルグが、背負っていた大弓を下ろす。


「先程から幾度か結節点を狙っているが、矢が到達する直前に気圧の壁に弾かれる。風の理を乱す偽物とはいえ、あのマナの密度は本物のセレーノに匹敵する」


 ヴァルグの深緑の瞳には、一切の油断がなくなっている。エルフの王としての研ぎ澄まされた感覚が、あの防壁の強固さを正確に推し量っていた。


 上空の模倣体が、四枚の翼を不規則に羽ばたかせる。次の瞬間、上空の空気が無数の鋭利な刃の形を成し、雨のように降り注いできた。


 四人は即座に方角を違えて地を蹴る。彼らが先程まで立っていた岩盤に、無数の真空刃が突き刺さり、深い裂け目を幾つも刻み込んだ。


 回避行動をとりながら、レオは思考の速度を限界まで引き上げる。


 敵の装甲は、風速と気圧差による物理的障壁。中途半端な質量や魔法では届かない。だが、無敵ではない。風という現象が気圧の差から生まれる以上、その循環を生み出している結節点ノードが必ず存在する。


 レオの脳内で、現在の戦力と敵の能力を係数化した演算が猛烈な勢いで回転し始める。時空属性の魔法による空間干渉、シルビアの異常な身体強化と物理破壊力、シャリーナの絶対零度、そしてヴァルグの風を読む目。


 最適解を導き出すための処理が、レオの脳の限界領域へと足を踏み入れる。


 極限の演算処理の最中、レオの意識の深層に沈んでいた記憶が、演算の補助線として浮上した。


 かつて、同じように絶望的な質量を持つ災厄と対峙し、世界の理を計算し尽くした男の記憶。英雄ショウの戦術回路が、レオの思考と完全に同化する。


 視界の彩度が僅かに落ち、世界が情報の羅列となって認識される感覚。


 無意識のうちに、レオの口から静かな言葉が紡ぎ出される。


「……ヴァルグ。あいつの左翼の付け根、あの気流の結節点が見えるか?おそらく、あの奥にコアがある」


 これまでの礼節を弁えた青年のトーンではない。対等の、そして絶対的な信頼を置く戦友に向ける、穏やかな響き。


 レオ自身、自らの口調が変化していることに全く気づいていなかった。


 脳内の演算が導き出した最適解を、最も効率よく、最も自然な形で出力したに過ぎない。


 その声を聞いた瞬間、回避行動をとっていたヴァルグは、不快感を抱くことも、疑問を差し挟むこともなかった。


「……ああ、先程から狙っているが、あの壁は厚いぞ」


 ヴァルグの口から、無意識のうちに肯定の言葉がこぼれ落ちていた。


 目の前にいるのは、忌むべきノーマンの血を引く若者のはずだ。だが、その背中から発せられる気配、声のトーン、そして何より自分に向ける純粋な信頼の眼差し。それは、千年前の戦場で背中を預け合った友そのものだった。


 あまりにも自然なその振る舞いに、ヴァルグの魂に刻まれた記憶が、現在の状況を上書きする。エルフの王としての警戒心は霧散し、ただ一人の戦士として、友の言葉に耳を傾けていた。


「貫通させる必要はないんだ。お前の矢で、あの循環に僅かな『乱れ』を作ってくれないか。お前の目なら、捉えられるはずだ」


 レオは剣で真空刃の雨を弾き落としながら、静かに頼んだ。


 命令ではない。互いの技術を完全に理解しているからこそ成り立つ、命を預ける提案。


 ヴァルグの胸の奥で、長年凍りついていた何かが、熱を帯びて溶け出していく。彼は大弓を強く握りしめ、口端を微かに吊り上げた。


「……任せておけ。起点は私が作る」


 ヴァルグの力強い返答に、レオは振り返ることなく微かに頷いた。


「ありがとう。それから……シャルル」

「はいはい、分かっているわ。旦那様」


 シャリーナもまた、主の気配の変化を敏感に察知していた。彼女の瞳に、かつての主への郷愁と、現在の主への絶対的な忠誠が入り交じる。


「ヴァルグの矢が壁に衝突した瞬間、気流が乱れる。その一点に、お前の最大出力の冷気を叩き込んでくれ。絶対零度で分子の運動を強制停止させれば、あの壁はただの脆い硝子に変わる」

「了解よ。一瞬で凍らせてあげる」


 レオは次に、シルビアへと視線を向けた。


「シルビアさん。氷結して脆くなったその一点を、貴女のマナを乗せた物理で完全に粉砕してください。……壁に孔が空いた瞬間、俺が奥の核コアを抜きます」

「はい!お任せください!」


 シルビアはベージュのコートを翻し、両拳に淡い金色のマナを極限まで圧縮させていく。


 四人の役割が、完全に固定された。


 交わされたのはわずか数秒の会話。しかし、それは何十回と戦場を共にしたかのような、理にかなった完璧な攻略ロジック。千年の時を超え、かつての英雄の優しき戦術が、現代の戦力と完全に噛み合った瞬間であった。


 上空のセレーノ・ファントムが、侵入者たちを完全に排除すべく、再び大きく四枚の翼を広げた。周囲の空気が、これまでとは比較にならない密度で圧縮され、緑色の発光を伴い始める。


「来るぞ」


 レオの穏やかな声と共に、四人が同時に動いた。


 荒れ狂う風の回廊の最奥で、四人による反撃が始まる。

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