第23話 ヴァルグ・セルバンは見定める
吹き荒れる風の壁が、前方の視界を薄緑色に染め上げていた。
風の聖域『五重輪』の内部、第3層。全方位から迫る狂風が、我々の歩みを物理的に阻もうとしている。幾重にも重なる風の刃が、空間そのものを切り刻む分厚い壁となって立ちはだかっていた。
私は歩みを止めず、背から大弓を外し、構えた。
弦を引き絞り、大気中のマナを矢の先端に収束させる。風の動きを目で追うのではない。肌で、耳で、森の民としての感覚で、乱気流の中心にある『結節点』を探り当てる。風は力任せに吹いているように見えて、必ずその起点となるマナの循環ノードが存在する。そこを突けば、いかなる暴風も均衡を崩す。
指先を離す。
放たれた矢が、空気を切り裂く音すら残さずに直進した。
薄緑色の暴風壁の中心を射抜いた瞬間、空間の気圧バランスが崩壊する。悲鳴のような風鳴りが響き、強固だった壁が霧散して無害なそよ風へと変わった。
「流石ですね、ヴァルグ王」
隣を歩いていたレオ・クロースが、首にかけていたゴーグルをずらし、涼しい顔で私を見た。
「私が【マナロジカ】で風の周波数を計算し、干渉波を割り出すよりも早く、起点を突いた。エルフの感覚というものは、恐ろしい精度ですね」
彼は自身の持つ無骨な端末を軽く叩き、素直な称賛を口にする。その眼差しには、他種族への偏見も、己の技術への過信もない。ただ純粋に、私の技術に対する敬意があった。
「機械の数値に頼るから遅れるのだ。風は読むものではない。感じるものだ」
私は大弓を背に戻し、前方を顎でしゃくった。
「それに、お前たちの歩調に合わせているだけだ。監視役として同行した私が、遅れを取るわけにはいかんからな」
「それは頼もしい。この調子で第4層も抜けましょう」
レオは軽口で返し、再び歩き出す。
私はその背中を見つめながら、内心で彼らに対する評価を修正していた。
ノーマン・クロースの血族。忌むべき機械と鉄の臭いを森に持ち込む者。最初はそう決めつけていた。かつてのノーマンは、自然の理を無視し、己の設計した効率のみを森に押し付けようとした傲慢な男だった。その末裔もまた、力任せに森を蹂躙するのだろうと警戒していたのだ。
だが、彼らの戦いは、私の偏見を覆すほどに洗練されている。
第4層へ足を踏み入れた時も、彼らの動きには一切の無駄がなかった。
音すらも奪い去る真空の刃が、不規則に飛び交う無機質な空間。一歩間違えれば、見えない刃に四肢を両断される死地。そこに生息する防衛機構は、姿を隠して死角から襲い掛かる純粋な殺意の塊だった。
「――右前方、氷壁展開」
「了解」
レオの冷徹で短い指示。シャリーナが白銀の長槍を振るい、瞬時に分厚い氷の壁を展開する。真空の刃が氷壁を削り取るが、その軌道は僅かに逸れ、我々の横を無害に通り過ぎる。
「シルビアさん、左の発生機構を物理で」
「はい」
シルビアがベージュのコートを翻し、音もなく踏み込む。彼女の拳には、癒やしのマナによる過剰な身体強化が施されていた。防壁ごと、壁面に埋め込まれた風の発生機構を粉砕する重い一撃。マナの振動を利用して物理的な構造を破壊するその技は、聖女という肩書きからは想像もつかないほど暴力的でありながら、極めて合理的だった。
そして、陣形を抜け出た敵の防衛機構を、レオ自身が銀色の剣で淡々と両断していく。
交わされる言葉は必要最低限。戦局の分析と、最適解の提示。そしてそれを忠実に実行する個の武力。
一国の軍を長年率いてきた私から見ても、この若者たちの連携は異常だった。
互いの能力を完全に把握し、自らの役割を作業のようにこなす。そこに感情の昂りや、無駄な力の誇示はない。ヒュマーノ族にありがちな、己の技名を叫ぶような愚行も一切ない。ただ、眼前の障害を排除するための最短経路を歩いている。
各層の知を試される間を攻略しては、あの【クロノ・ヴィラ】という無機質な外観の箱の中で完璧な休息をとる。
極限の環境下にあって、彼らは決して精神をすり減らさない。常に万全の状態で、次の扉を開けるための準備を整えている。
自然に寄り添うエルフの流儀とは異なるが、理を解き明かし、それを最適化して環境に適応するその姿勢は、ノーマンの無軌道な破壊とは明確に一線を画していた。
認めるのは癪だが、この男はただのノーマンの末裔ではない。かつてこの世界を救い、私が友と呼んだ男――ショウの記憶だけでなく、確かな実力と理への深い理解を持っている。
第4層を抜け、最奥へと続く重厚な石扉が見えてきた時、私は歩みを緩め、先頭を歩く若者に声をかけた。
「そういえば、レオよ。其方の母の名は?」
唐突な問いに、レオは少し驚いたように振り返った。
「母……ですか?エリーザですよ。元アイゼン王国第一王女エリーザ・アイゼンです」
「『氷姫』。そうか……。あの〝レンツ〟の末裔か」
私の口から自然とこぼれ落ちたその名に、レオは目を丸くした後、どこか遠くを懐かしむように目を細めた。
「……レンツ。ふふっ、懐かしい響きですね。ええ、アイゼン王国初代国王ローレンツの直系です」
その自然な反応で、私は確信した。この若者の中に、確かにあの時を共に生きた友の記憶が息づいていると。
ローレンツ・クライノート・アイゼン。
彼は我々のように前線で強大な敵と戦う「英雄」ではなかった。
だが、戦場に立つ我々のために物資を調達し、国をまとめ、誰よりも献身的に後方から支え続けた男だ。
ノーマンの無軌道な技術を実用レベルに落とし込み、人々のために役立てたのも彼だった。
「ノーマンの才覚と、レンツの献身。そして、あの馬鹿の魂、か……」
私はふっと息を吐き、微かに口端を緩めた。
「とんでもないものを掛け合わせたものだ」
「褒め言葉として受け取っておきますよ、ヴァルグ王」
レオが照れ隠しのように肩をすくめ、目の前の石扉を見据えた。
「――波長が完全に変わりました。おそらく、この先が最奥です」
シルビアが拳を握りしめ、シャリーナが長槍の石突きを床に打ち鳴らす。
「準備はいいな、お前たち」
私が問うと、レオは小さく頷いた。
「ええ。光の回廊での経験から推測するなら、大聖霊様の悪趣味な真似事――模倣された聖獣との戦いになるはずです」
「セレーノの模倣か」
私は大弓を手に、レオと共に扉へ手をかけた。
重い摩擦音を立てて扉が開かれる。
吹き込んできたのは、全てを薙ぎ払うような圧倒的な暴風。
視界に広がったのは、天井のない、どこまでも続く鉛色の空と、荒涼とした大地だった。
『疾風の心奥』。
穏やかな森の風ではない。全てを削り取り、生命の存在を許さない始原の暴風が吹き荒れる空間。
その空間の中央に、無数の竜巻を従えながら浮かび上がる巨大な影があった。
四枚の翼と強靭な四肢を持つ、巨大な猛禽類。その体は生物の肉体ではなく、半透明の薄緑色のマナで構成されている。
風の眷属、セレーノを模したエネルギー体。
「〝セレーノ・ファントム〟といったところか」
鼓膜を破るような甲高い鳴き声が空間を震わせる。それと同時に、我々の周囲の空気が急速に圧縮され始めた。
「――やばっ。散開しろ!」
レオの短く冷徹な指示。言葉の余韻が消えるより早く、四人がそれぞれの方角へ跳んだ。
直後、我々が立っていた場所に極大の真空波が叩き込まれ、大地が深く抉り取られた。
空気が破裂するような重低音が響き、岩盤が粉々に砕け散る。
空を舞う模倣体は、羽ばたくことなく滑るように空間を移動し、無数の風の刃を雨のように降らせてくる。
「風の理を乱す偽物め」
私は大弓を構え、三本のマナ矢を同時に番えた。
風属性のマナを極限まで込め、模倣体の翼の付け根――マナの循環ノードを狙う。偽物であろうと、マナで構成されている以上、構造的な弱点は存在する。
放たれた三筋の矢が、空を切り裂いて敵へと迫る。
だが。
矢が模倣体の数メートル手前に到達した瞬間、見えない断層に弾かれたように軌道を大きく逸らされ、明後日の方向へと飛んでいった。
「私の矢が、風圧で弾かれただと……?」
私は目を見開いた。単なる強風ではない。模倣体の周囲だけ、異常なまでの高気圧の壁が形成されている。物理的な質量を持つ矢であっても、あの絶対的な気圧差の壁を貫通することはできない。
模倣体は、私の攻撃など意に介していないかのように、その鋭い嘴をこちらへ向けた。
敵の周囲に、これまでとは比較にならない密度のマナが収束していく。
放たれたのは、単なる風の刃ではない。空間そのものを圧縮し、対象を圧壊させる極大の乱気流の塊。
「――ヴァルグ王、直撃しますよ!」
レオの声が響く。
「わかっている!」
回避しようと足に力を込める。だが、周囲の気圧が操作され、体が泥に浸かったように重い。風の王である私の支配を、敵の理が完全に上回っている。
直撃する。
そう覚悟した瞬間だった。
銀色の閃光が、私の目の前に割り込んだ。
レオだ。
彼は私と敵の間に立ち塞がり、時空を歪める防御魔法を展開した。空間の屈折率を強制的に書き換え、迫り来る暴風の軌道を逸らすための術式。かつてのわが友が見せた時空属性魔法≪クロノ・リフラクト≫だったか。
圧縮された暴風が、その魔法に激突する。
空間が軋むような甲高い音が響き、レオの体が後方へ押し込まれる。
時空魔法の屈折をもってしても、敵の放つ暴力的な質量を完全に相殺することはできない。
レオの纏う分厚い防御装甲。そのコートが、風の暴力に耐えきれず微かに裂ける音がした。
結界をすり抜けた微細な真空刃が、彼の腕や頬を容赦なく切り裂く。
鮮血が風に舞う。
だが、彼は一歩も退かなかった。
靴底で大地を削りながら、私を守る盾として、その場に立ち続けた。
「……なぜ、身を挺した」
私の思わず漏れた声に、彼は血を流しながらも、振り返ることなく答えた。
「友達だから――だろっ」
強がりを言うその背中は、約千年前の記憶の中にある友の姿と、完全に重なっていた。




