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箱庭と猫 第二部 ―聖霊の試練編― 上  作者: 山本陽之介
第2章 翠嵐ヲ越ユ

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第21話 絶対零度の蹂躙

 厚い岩壁で構成された重厚な扉が背後で閉ざされると、外界の光は完全に遮断された。


 風の聖域を守護する結界砦『五重輪オクト・クインタ』の内部、第一層。彼らが足を踏み入れたのは、要塞の内部というよりも、自然に穿たれた狭く険しい峡谷のような空間だった。


 両脇にはゴツゴツとした岩肌がそびえ立ち、頭上からは微かなマナの光が降り注いでいる。そして何より、この空間を支配しているのは、絶え間なく吹き荒れる強風だった。


 ただの風ではない。岩肌を削り、空気を切り裂くような高周波の音を伴った、殺意を孕んだ乱気流だ。


 レオ・クロースは首にかけていたゴーグルを装着し、マナの視認モードを起動させた。視界に映し出されたのは、幾重にも渦を巻き、不規則に衝突し合う緑色のマナの奔流だった。


「……乱気流の迷宮かあ。マナの流れが複雑すぎて、探知がまともに機能しないや」


 レオが油断なく周囲を見渡し、冷静に状況を分析する。その隣で、シルビア・スワンもまた、身を低くして強風に耐えていた。彼女のベージュのハンターコートが激しく煽られている。


「息をするのも一苦労ですわ。それに、この風……肌に当たると少し痛いです」

「防御力に優れたキュートの糸でなければ、全身にダメージを受けそうですね」


 レオの言葉を裏付けるように、風がコートの生地に当たるたび、火花のようなマナの摩擦光が散っている。鉄壁の防御を誇るキュートの糸だが、顔や手の一部など、装備に覆われていない露出部までは守りきれない。不規則に渦巻く微細な真空刃が、レオの頬を浅く掠め、赤い線を引いた。


 ツッと血が滲む。だが、その血滴が顎を伝うよりも早く、隣を歩いていたシルビアがスッと右手を翳した。


  彼女の指先から淡い金色のマナが溢れ、触れるか触れないかの距離で傷口を撫でる。癒やしのマナが細胞の分裂を強制的に活性化させ、レオの頬の傷は痛みを感じる間もなく完全に塞がった。


「助かります、シルビアさん」

「当然の仕事ですわ。……それに、わたくしの傷もすぐに治りますから」


 シルビアは涼しい顔で、自身の白く滑らかな手の甲を裏返して見せる。そこにも先ほどまで裂傷があったはずだが、癒やしの聖霊アウローラの加護による「超速再生」が働き、すでに無傷の白肌を取り戻していた。それは神秘の奇跡というよりも、パーティの損耗を未然に防ぐための、完全に最適化された「作業」であった。


 最後尾を歩くセルバン森林都市国の国王、ヴァルグ・セルバンは、吹き荒れる風の中にあってただ一人、涼しい顔で佇んでいた。植物の繊維と絹で織られた王衣は風に靡いているが、彼自身は全く影響を受けていない。風のマナによって自身に結界を張り、影響を相殺しているのである。


 ヴァルグは腕を組みながら、前を歩く若者たちの行動を鋭く観察していた。


(……聖女の治癒魔法。傷の発生とほぼ同時に修復を完了させ、瞬時に連携を果たす。随分と実戦に手慣れているな)


 ヴァルグは内心でわずかに感心しつつも、監視役としての冷ややかな視線をレオたちに向ける。


「風は我ら森の民の友であり、同時に最も厳しい試練でもある。……この程度の気流で音を上げるようでは、先へは進めぬぞ」


 ヴァルグが腕を組み、監視役としての冷ややかな視線をレオたちに向ける。


 だが、レオがそれに答えるよりも早く、不自然な風の音が鳴った。


 前方で渦巻いていた気流の一部が、突如として鋭利な刃の形を成し、レオの首元を狙って飛来する。 不可視の真空刃。


 レオが剣の柄に手をかけた、その瞬間だった。


「――鬱陶しい風ね。私の髪が乱れるじゃない」


 アイスブルーの髪を指で優しく流しながら、不機嫌極まりない声が響いた。


 氷の聖猫がヒト化した姿、シャリーナ。


 彼女は無言のまま、手にしていた白銀の長槍の石突きを、足元の岩床に軽く打ち付けた。キン、と澄んだ音が峡谷に響く。直後、物理法則が凍りついた。


 発動したのは、第六位階氷属性魔法≪コールド・コフィン≫。 聖霊の加護を持たぬ者には到達不可能な、広域環境凍結の術式である。


 直後、物理法則が凍りついた。


 シャリーナの足元を中心として、爆発的な冷気が全方位へと拡散する。 風という現象は、気圧差によって生じる空気分子の移動だ。


 シャリーナが放った絶対零度のマナは、その分子運動を根源から強制的に静止させた。


 空間そのものが軋むような音を立て、荒れ狂っていた乱気流が瞬時に凍結する。空気中の水分がダイヤモンドダストへと変わり、空中で鋭利な刃の形を成していた真空刃が、物理的な氷の刃となって実体化し、推進力を失って地面に落下し砕け散った。


 そして、シャリーナの冷気は背後から迫っていたエアロ・ガーディアンの群れをも飲み込み、彼らを風の装甲ごと完全に凍結させ、無機質な氷像へと変えさせた。


 最後尾で腕を組んでいたヴァルグは、無言のまま目を細めた。その表情は変わらないが、組まれた腕の指先が微かに力んでいる。大聖霊の加護を持つ聖猫。その力がいかに規格外であろうと、ここまでの出力を一瞬で展開するとは予測していなかったのだ。


「……前方のゴミは片付けたわ。進みましょう、旦那様」


 シャリーナが長槍を優雅に振るい、前方を指し示す。


「ありがとう、シャルル。……だが、少し数が多すぎるな」


 レオがゴーグル越しに前方を見据える。


 シャリーナの冷気が届かなかったさらに奥の空間から、数百体を下らないエアロ・ガーディアンの群れが、渓谷を埋め尽くすように押し寄せてきていた。第一層の防衛機構が、侵入者の脅威度を再計算し、最大出力で排除に乗り出したのだ。


「シャルル一人に任せるのも、アレだな。俺も手伝うよ」

「あら、ワタシ一人でも十分よ?でも、旦那様との共同作業というなら歓迎するわ」


 シャリーナが楽しげに微笑む。


 レオは小さく息を吐き、目を閉じて体内のマナ器官を稼働させた。


 脳内で、虹色に輝く時空属性のマナ配列を分解し、再構築する。それは時空属性だけが持つ、マナの波長そのものを書き換えて他属性を模倣する特異な魔法体系。


 第五位階時空属性魔法≪アトリオス≫。


 変換先は、この風の理を最も効率よく殺すための「氷」。目を開けたレオの瞳には、淡いアイスブルーのマナが灯っていた。


 彼が右手を静かに前方へかざす。 起動キーとなる魔法名が、心の中で静かに唱えられる。


 第五位階氷属性魔法≪フロスト・ドメイン≫。


 レオの掌から、淡くも研ぎ澄まされた冷気が放たれる。


 純粋な出力や絶対温度で言えば、大聖霊の加護を持つシャリーナの第六位階には遠く及ばない。それは加護なきヒト属の限界点であり、越えられない壁だ。


 だが、レオが放ったその冷気は、シャリーナが展開したマナの領域と一切の反発を起こすことなく、まるで元から一つの術式であったかのように完全に波長を同調させた。


 シャリーナの構築した絶対的な氷の領域を、レオの第五位階魔法が補助線となり、効率的に、かつ劇的に前方の峡谷奥深くへと拡張していく。


 最後尾を歩くヴァルグは、無言のまま歩みを止め、その深緑の瞳を見開いた。


 加護を持たぬヒト属が単独で行使できる魔法の限界は、第五位階までだ。


 それは魔法を極めたエルフであっても周知の事実である。だが、それはあくまで「自身の適性属性」における限界点に過ぎない。


 氷の大聖霊グラエイスの加護を持たない、ただのヒュマーノ族の青年。


 彼が今、目の前で、自身の適性外である氷属性を、無詠唱で、しかも最高位である第五位階として展開している。


 マナの波長、温度制御、空間への定着。どれをとっても、グラエイスの直系と見紛うほどの純度と規模だった。


 レオの放った冷気が、前方を埋め尽くしていたエアロ・ガーディアンの群れを呑み込む。パリパリと空間が凍てつく音が連鎖し、疾風の如く迫っていた数百の敵が、その足取りを止めた。


 次々と完全な氷像へと変えられていく防衛機構たち。そこへ、シャリーナが追撃の冷気を重ねる。


 レオの構築した氷の領域を、シャリーナのマナが増幅し、さらに強固なものへと昇華させる。二つの強大な氷属性のマナが共鳴し、峡谷全体を完全に支配した。


 地鳴りのような音と共に、彼らの前方に広がる峡谷の数百メートル先までが、一瞬にして完全なる氷河へと変貌した。


 吹き荒れていた風が死に絶え、岩肌は分厚い霜に覆われ、氷漬けにされたガーディアンたちが、自らの内部マナの膨張に耐えきれず、次々と硝子細工のように粉砕されていく。


 静寂。


 荒れ狂っていた風の聖域が、無音の氷の回廊へと姿を変えた。


「見事な共鳴ね、旦那様。ワタシのマナとこれほど綺麗に噛み合うなんて、少し感動したわ」

「そうか?まあ、こう見えてもシャルルの主だからな」

「なによそれ」


 シャリーナは満足げに氷の粒子を払い、レオに向かって微笑んだ。


 シルビアもまた、自身の拳に纏わせていた癒やしのマナをそっと霧散させた。出番が完全に失われたからだ。


「コートの温調でなんとかなっていますが、レオさん、シャルルさん。少し寒いです」


 シルビアが息を白くしながら、自身の腕をさする。三人は顔を見合わせ、苦笑しつつ、氷で舗装されたようにツルツルになった峡谷の道を、何事もなかったかのように歩き出した。


 その後方で、ヴァルグ王は完全に足を止めていた。


 エルフの王としての威厳を保ち、涼しい顔を装ってはいるが、その心中では激しい動揺が渦巻いていた。


 異常な光景だ。


 ヴァルグは自身の目を疑い、震えそうになる指先を強く握りしめた。聖猫であるシャリーナの出力は、理解できる。だが、あの青年はなんだというのか。


 時空の属性が他属性を模倣できるというのは知っている。だが、あれは模倣の域を超えている。


 エルフの魔法は、森の理に寄り添い、自然の力を借りることで発動する。だが、目の前の二人がやったことは、理への寄り添いなどではない。己の持つ暴力的なまでのマナの奔流と、緻密な演算能力によって、回廊の環境そのものを氷の理へと強制的に上書きしたのだ。


 ヴァルグの視線の先で、レオが先頭を歩いている。


 無骨な金属の装飾を身につけた、いけすかないノーマン・クロースの血族。そう思っていたはずの背中が、不意に別の誰かの姿と重なって見えた。


〝だから云ったろ、ヴァルグ。理屈がわかれば、ただの現象に過ぎないんだって〟


 千年前。この世界が災厄の炎に焼かれそうになった時、誰よりも前線で、誰よりも冷静に物理と魔導の計算を繰り返し、そして誰よりも優しく笑っていた男。


 英雄、〝ショウ〟。


 単なる科学至上主義のノーマンとは僅かに違う。


 自身の内に世界の理を取り込み、最適解として世界に出力するその背中。それは紛れもなく、ヴァルグがかつて友と呼び、気高く優しいと評したあの男の面影そのものだった。


「ショウ……」


 ヴァルグの口から、無意識のうちにその名がこぼれ落ちる。


「王様?置いていくわよ」


 シャリーナが振り返り、わざとらしく小首を傾げた。その声で、ヴァルグは我に返った。


「大味な魔法だ。森の木々がこの場になくて幸いだったな」


 ヴァルグは震えそうになる声を必死に抑え込み、努めて冷ややかに皮肉を口にする。それが、今の彼にできる唯一の抵抗だった。


 彼はそれ以上は語らず、無言のまま氷の道を踏みしめ、三人の後を追った。だが、その深緑の瞳に映るレオへの敵意は、確実になりを潜めていた。


 それから数時間が経過した。風の回廊(ヴァン・コリドー)の第一層。この防衛機構は、不可視の刃と、風と同化するガーディアンの全方位攻撃によって、侵入者の体力と精神を半日以上かけて削り取る、過酷な試練のはずだった。


 だが、レオたちの歩みは止まらない。


 景色は一切変わらないが、レオとシャリーナが交互に氷属性の魔法を展開し、進行方向の環境を自動的に絶対零度で凍らせていく。


 出現した敵は瞬時に氷像となり、彼らがその横を通り過ぎる風圧だけで砕け散っていく。


 数時間に及ぶ高位魔法の連続行使。本来であれば、どれほど強大なマナを持っていようと、マナ器官が焼き切れ、肉体が疲労で崩壊してもおかしくはない。


 しかし、彼らの歩みが鈍ることはなかった。その二人の間を歩くシルビアが、涼しい顔で両手を翳し、淡い金色のマナを絶え間なく流し込み続けていたからだ。


 聖女が放つ高純度の癒やしが、レオとシャリーナの細胞に蓄積する疲労物質を瞬時に浄化し、限界まで駆動するマナ器官をリアルタイムで修復し、活性化していく。


 それはもはや戦闘ではなく、三人の完全な分業によって構築された、歩く「永久機関」であった。


 試練の攻略ではなく、氷河を歩く散歩のような光景。


 半日以上もの間、絶え間なく続く乱気流の峡谷を歩き続けるという過酷な行軍。本来であれば、肉体も精神も極限まで摩耗しているはずの時間が過ぎた。


 だが、レオたちは全く疲労していなかった。なぜなら、風は吹いておらず、敵は一歩も近づけず、疲労すらも自動的に消去されながら、ただ氷の上を歩いていただけだからだ。


「見えましたよ」


 先頭を歩いていたレオが、足を止めて前方を指差した。


 氷河と化した岩壁の回廊の突き当たり。岩肌が途切れ、開けた空間が現れる。そして、その最奥には、蔦と苔に覆われた巨大な石の扉が鎮座していた。


 半日以上に及ぶ第一層の終点。光の試練を潜り抜けたレオだから分かる、次なる試練への入り口。


「やっと着いたのね。退屈な道だったわ」


 シャリーナが長槍の石突きで地面を叩くと、周囲に充満していた絶対零度の冷気が、嘘のように静かに霧散した。


 空間を支配していた氷の理が解除され、再び岩壁にも似た回廊の奥から、微かな風が吹き込んでくる。


「お疲れ、シャルル。おかげで随分と楽ができたよ」

「当然よ。それに、旦那様、それとシルビアの魔法サポートも完璧だったわ。それにしても、風の聖域なんて大層な名前の割には、大したことなかったわね」


 シャリーナが、わざとらしく最後尾のヴァルグへと視線を向ける。


 ヴァルグは無言だった。彼の表情は、相変わらず冷徹だ。だが、その内心には、静かな絶望に似た呆れがあった。


 半日の行程を、文字通りただ歩いて踏破したという事実。 ノーマン・クロースの血族であり、千年の時を生きた友の魂。彼らがこれから、この森の聖域で何をしでかすのか。王の予測演算は、完全に機能不全に陥っていた。


 レオは石の扉の前まで歩み寄り、表面に刻まれたエルフの古代文字を指でなぞった。


光の回廊(ルクス・コリドー)での法則から推測するに、この扉の向こうは、ただの安全地帯ではないはずです」


 レオは慎重に言葉を選ぶ。これまでの経験から導き出される論理的な予測である。


「第一層の前半が、見えない敵に対処する戦闘の試練だった。ってことは、この扉の奥に待っているのは、頭を使う仕掛け……パズルのような知を問うギミックである可能性が高いなあ」


 レオの推測に、シルビアが真剣な顔で頷く。


「ええ。光の時も、反射や屈折を利用した仕掛けがありましたものね。油断はできませんわ」

「風の試練はおそらく、肉体よりも精神を問うものが多いだろう。中に入って気を抜くなよ」


 背後から、ヴァルグが静かに忠告する。半日以上もの間、一度も乱れることなく氷の理を敷き続けた青年に対し、その声には先ほどまでの棘はなくなっていた。


「ええ、わかっています。行きましょう」


 レオが石の扉に手をかけ、力を込める。重厚な摩擦音と共に扉がゆっくりと開かれ、一行は未知なる次なる試練へと足を踏み入れた。

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