37 取引
「――失礼」
空間が裂けて、白い手が伸びた。私の振り下ろした剣はその手が纏う魔力に払われ、オクトの首には届かなかった。
ぞっとするほどどす黒い魔力だった。私は本能的に退避を選んでしまった。
「ふふ、逃しません」
私の動きを軽々と超える速さで、視界が真っ暗になった。
「ライラ……――!」
ルルタの声が途中で途切れた。
気づけば、私は闇の中に立ち尽くしていた。自分の周りだけがぼんやりと明るいが、他には何も見えない。
「ここは私の領域。少々人に聞かれては困るお話がしたかったので、こうして皆様と切り離させてもらいました」
空間の裂け目から、一人の少女が軽やかに現れた。長い黒髪が揺れる。
人間で言えば、十二歳くらいか。幼さの残る顔立ちで背も低い。ただ、唇には見た目の年齢に不釣り合いな真っ赤な紅が引かれていた。
それでも違和感がないのは、少女が妖気のようなものを放っていたからだろうか。あるいは、その唇が真っ赤な瞳と同色だったからかもしれない。
角も牙もないのに、少女が人間ではないことは一目で分かった。異質すぎる。
魔王子、いや、魔王女か。
くそ、最後の最後で邪魔が入った。オクトの“呪”で誰も決闘には介入できないはずなのに……どうなってるんだ、エイプリル!
にこりと、少女は無邪気な笑みを浮かべた。
「初めまして、アウリオンの勇ましいお嬢様。わたくしは魔王の娘、十一番目のノーヴェラルと申します。愚兄がお世話になりました」
黒いドレスの裾を摘まみ、淑女の礼をするノーヴェラル。
これは、この展開はまずい。
私は間合いを保ち、剣を構えたまま、小さく震えた。
体力と魔力がもう底をつきそうだった。こうして立っているのも辛い。そんな中、新しい敵が現れた。周りには味方の姿はない。
冷や汗がだらだらと背中を伝っている。
しかし焦りを気取られるわけにはいかない。私は内心の動揺を抑え、毅然とした態度で魔王の娘を睨みつけた。
「……決闘を邪魔するとは、無粋な奴だ」
「ふふふ、その点に関しては申し訳ありません。でも、大切なお兄様が人間に殺されそうになっているのですもの。助けないわけには参りません。あなただって家族の危機にじっとしていられないでしょう?」
ノーヴェラルは涼やかな声で歌うように述べた。
驚いた。
魔王子たちは仲が悪いんじゃなかったのか?
奴らが結託していないからこそ、この数百年の間、人類は命を繋いできたというのに。
「……ご安心を。家族のことが愛しくて愛しくて、時に殺したくなるほどの愛を持っているのは、魔王一族の中でもわたくしだけでしょう。愛に見返りを求めていないとはいえ、寂しいことですけれど」
私の疑問に答え、ノーヴェラルは肩をすくめた。
よく見れば、瀕死のオクトが忌々しげに妹を睨んでいた。兄が妹を見る目じゃないな。
というか、いたのか、お前。
「というかお前……どうやって決闘に割って入った? オクトの“呪”は敵味方問わず、一対一を強制するんじゃないのか?」
ノーヴェラルは唇に人差す指を当て、恥らうような表情を見せた。
「詳しい手段は内緒ですけれど、わたくし、ルールを歪めるのが得意なのです。全てを台無しにするのは、すっごく気持ち良いです……っ」
くっそウザい女だな。
思わず舌打ちしてしまう。
「そもそも、隙があるのが悪いのです。決闘のルールが穴だらけだったからこそ、簡単に干渉できたのですよ? 例えば、降参による敗北の場合、敗者がどうなるのか決めていなかったでしょう?」
……あ。
しまった。忘れていた。
負けたら死ぬものだと思っていたから、降参した場合のことなんて考えてなかった。
オクトも「やっべ」みたいな顔で遠い目をしている。いや、あれは血を流しすぎて意識が朦朧としているのかもしれないが。
お前な、自分の“呪”のことなんだから、もう少しちゃんと管理してくれよ。
うぅ、悔しい。
こんな魔王子と同じレベルなのか、私は。
「もちろん決闘に関しては、我が兄オクトの負けで結構ですわ。わたくしが今の一撃を止めなければ、決着がついていたのは間違いありませんもの。けれど、オクトお兄様の命を奪うのはご容赦くださいませ」
私は自分の体に神経を巡らせる。
あと一回ならば、なんとか全力でノーヴェラルを攻撃できるかもしれない。だが、もし失敗すれば、なすすべなく死ぬ。
大体、ノーヴェラルの能力に関しては全く情報がない。この空間だって現実世界ではないだろう。目の前にいるこの女が実体とは限らないわけだ。攻撃しても無駄になる。
となれば、私は何もできず、オクトを逃がす羽目になる。というか、このままノーヴェラルに八つ裂きにされるんじゃないか。
こんなことになるのなら、と私の脳内は後悔で埋め尽くされた。
真っ先に浮かんできた顔は、自分でも驚きなのだが、兄上様ではなくルルタだった。
私も好きだって伝えたかった。どうしてあのとき、手を重ねるだけではなく、ちゃんと言葉を返さなかったのだろう。勢いに任せて言っておけば良かった。
私は泣きそうになるのをこらえ、吠えた。
「く……納得できるか。命懸けで戦ったのに、こんな結末!」
せっかくあんなに頑張ったのに、ここまで追い詰めたのに、仕留め損なうなんて!
「何も敗北の代償を支払わないとは言っておりません。お望みとあらば、命と同等の価値のある命令を科してくださっても構いませんわ。連帯責任で、わたくしもその命令に従いましょう」
「……なん、だと?」
「ですから、わたくしたち二人があなたの要求を聞いてあげます。死ねという要求以外ならば、大抵のことは叶えてさしあげますわ」
私はきょとんとして固まった。
怪しい。怪しすぎる。
こんな美味い話があるものか。
長年夢の悪魔に苦しまされている、私は疑惑の眼でノーヴェラルを見た。オクトも「何言ってやがる」という視線を妹に向けている。
「ふふふ、仕方のないことなのです。わたくしにも、オクトお兄様の“呪”を完全に無効化することはできませんもの。死と降参、どちらも拒むことはできないのです。このまま決闘の決着についてうやむやにしてしまえば、決闘の当事者であるお二人と、妨害者のわたくし、全員の存在そのものが消えてしまうかもしれません」
「はぁ?」
ふざけるなと言いたい。どうして私までそんな壮大な罰ゲームに巻き込まれるんだ。納得いかないぞ。
「それを回避するためにも、どうぞ敗者へ命令を科してくださいませ。効力はお兄様の“呪”が保証してくださいますわ。一度受けた命令には逆らえず、破れば今度こそ死を以てあなたへの敗北を示しましょう。最も、命令が効果を発揮するのはあなたの存命中の間だけですけれど」
……マジか。
よくよく考えてみれば、ただ殺すよりもお得かもしれない。私が生きている間だけとはいえ、魔王子二人を意のままにできるんだから。
命も助かるし、ここは不本意でも、ノーヴェラルの提案をのむしかない。
「ノーヴェ……てめぇ、さっきから何を勝手に」
「お兄様は、死ぬことよりも降参する方がお嫌でしょう? ならば、死の代わりに命令に従うしかありません。さぁ、お嬢さん。要求をどうぞ」
「くそ……誰が――」
「お黙りなさい。これも全て、お兄様のためなのですから」
妹に足蹴にされ、オクトは黙った。物理的に。もう虫の息だ。
私も静かに考え込む。最も人類にとって利益のあることは何か。
「じゃあお前ら二人とも、人間の味方をしろ。魔王軍に関する情報を洗いざらい話せ」
「それは無理ですわ。お父様を裏切るくらいならば、死んだ方がマシですもの」
「ああ?」
ソッコーで断りやがった。こいつ、私のことをおちょくっているのか。
「だから、最初に言ったでしょう? 命と同等の価値のある命令のみです。死んでも聞きたくない命令は受け入れられませんの」
残念な子を見るような目をしながらため息を吐くノーヴェラル。
マジでうぜぇ。
しかし、まぁ、理論は分かる。
死ぬよりはマシな命令じゃないといけないんだな。
私はこの二人が受け入れそうなことをしばし考え、指を二本立てた。
「私の望みは二つ。まず聖剣エルナトの返還を求める」
「お安いご用ですわ。お兄様」
オクトは無言を貫いたが、どこからともなく剣が降ってきて、私の足元に刺さった。びっくりするだろうが。この野郎。
私は息をのんだ。
これが、聖剣……。
剣の精は無事だろうか。触れてみたい。もしかしたら私のことを勇者にしてくれるかもしれない。
だが、今は試している場合ではないな。
「もう一つの命令は……私が生きている間、魔族以外の知的生命体を害するな。配下に攻撃を命ずるのも禁止する」
人類はもちろん、龍もエルフも亜人も精霊も天使も、攻撃するなということだ。
この要求は通るか微妙だ。
魔族は破壊衝動を持つという噂だから、難しいか?
ノーヴェラルは微笑んだまま首を傾げた。
「せめて、アウリオンの王国民だけに限定いたしません?」
「ダメだ。魔族以外の全てだ」
アウリオンだけこの二人に殺されない、なんてことになったら、他の国の人間のヘイトが溜まるだろうが。嫌がらせされる。
「まぁ、わたくしは構いませんわ。たかだか数十年のことですもの。生き急いでいるあなたならば、あるいはもっと早く死ぬかもしれませんし。ねぇ、お兄様」
オクトは泣いてるんじゃないかと思うほど悔しげに私を睨みつけ、低い声で言った。
「ひとまず、命令には従ってやる……だが、オレ様は、絶対にてめぇ殺すからな。命に代えても、だ……」
人類である私を攻撃すれば死ぬ。それでも再戦を挑むつもりらしい。本当に馬鹿な奴だ。根性がある奴は嫌いじゃないが、いい迷惑だ。
多分オクトが動き出したら、またエイプリルが教えてくれるだろう。それに期待して、また対策を立てればいい。
「じゃあ、決まりだな。聖剣エルナトは確かに人類に返してもらった。後は、オクトとノーヴェラル、私が生きている間は大人しく暮らせよ」
魔族同士での殺し合いなら、好きにしろ。むしろ大いに内輪揉めしてくれ。
そんな下衆なことを願っていると、私の手の甲の天秤の紋章がピカリと光り、消失した。
しかし、魂に契約を刻み込まれるような感覚があった。魔王子二人も一瞬顔をしかめた。半信半疑だったが、ノーヴェラルの言葉は真実のようだな。
これで、向こう数年はこの二人が魔境から攻め込んでくることはない。
……私は油断していた。
この瞬間、ここ数日の間張り詰めていたものが切れてしまったのだ。今にも座り込みそうな脱力感に襲われ、頭が働いていなかった。
「用は済んだだろ。さっさと撤収しろ」
この訳の分からない空間から出せ。言外にそう告げると、ノーヴェラルは笑った。
「ふふ、何を言っているのです? ここからが本題ですのに」
「は?」
オクトもげんなりしていた。
こいつとしては、早く帰って治療したいだろうからな。そろそろ血を止めないと、いい加減本当に死ぬぞ。
「勇者でもないただの人類の小娘に、オクトお兄様が負けるはずがありません。何か秘密があるはずです。決闘を拝見していて思ったのですが、あなた……お兄様の戦い方をご存じだったのではなくて?」
どきりとして、そのまま顔に出してしまった。
「まぁ、分かりやすい方……もしもお兄様の“呪”のことまで知っていたとすれば、大体の事情は推測できますわ。思い返せば、勇者のいないこの国をお兄様が狙うことが、そもそもおかしかったのです。もしや、思考の誘導までされていたのでしょうか。そんなこと、できる者は限られますわ」
なんて奴だ、ノーヴェラル。
私の間抜けさを差し引いても、こいつは賢い。情報を与えるのはまずい。
「どういう、ことだ……ノーヴェ」
ノーヴェラルは己の唇をぺろりと舌で舐めた。
幼い見た目に似合わぬ色っぽい仕草に、私は戦慄を覚えた。気分は捕食される草食動物のそれだ。
「残念なことに、我らが一族に裏切り者がいるということですわ、お兄様。このお嬢さんは魔王子の誰かと通じているに違いありません」




