25 悪夢
今夜の悪夢はいつになく過酷だった。
積み重なる屍を踏みつけ、私は血と涙に濡れた顔を拭い、ただただ前に進んだ。
違う、正確には逃げていた。後ろから迫る巨大な象の魔物から。
「くっ」
腹に響くような足音と風を切る音が迫ってくる。あの重量だ。踏み潰されれば終わる。絶対に追いつかれてはいけない。
長い鼻の先端は鋭く尖っており、貫かれれば体に空洞が空くだろう。それくらいの速さと力強さで振り回しているのが、音だけで分かる。
もうどれくらい逃げ回っているだろう。全身が悲鳴を上げている。
夢の世界だと侮ることなかれ。エイプリルが創り出す空間は現実と変わりない質感を持ち、五感も鮮明に働く。魔力を使う感覚も現実と同じなので魔法も使えるし、疑似精霊が配置されていれば精霊術もイケる。
……もちろん痛みも疲れもバッチリ再現してくれるし、この象ように人間の領土ではお目にかかれない激強な魔物もバンバン出てくる。悪魔か! ……悪魔だった!
皮下脂肪が厚いのか、剣がまったく通らない。
魔法で攻撃してみても効いている様子は全くない。
鼻先の刃物が左腕を掠めた。血がどばどばと流れ、熱が零れていく。血を失いすぎて朦朧としてきた。くそ、リアルすぎるだろ!
先ほどまでは雑魚敵相手に無双できていただけに、こうも一方的に蹂躙されると心が折れそうになる。
「ヘイヘイ! なんだ、ライラ! その様は! 顔真っ青だぜ! トイレでも探してんのか?」
頭上でコウモリが腹を抱えるようにして笑っている。
あれはエイプリルの使い魔のコバト。いつも私の手が届かない高さから、汚い言葉で煽ってくる。超音波混じりのきーきーと耳が痛くなるような声で喚くので、かなりいらっとする。
ただ、こいつが出て来ると怒りで恐怖が薄れるんだ。
「エイプリル様もがっかりだろうぜ! 十年経っても蟻んこ並みにしか成長しないお前には! 短足チビが! ちっとはこの象さんを見習えってーの! 一歩をデカくしやがれ!」
「うるさい! 空を飛んで移動する奴が足の長さを語るな!」
このままでは死ぬ。
死の痛みは壮絶で、次の夜に眠るのが怖くなるほどだ。夢の中でも何度も味わいたくない。
私は覚悟を決め、屍の山を利用した三角飛びで強引に進路を変え、反撃に出る。真横から象の大きな耳に剣先を突きつける。
どうだ!
「バーカ! 遅せぇんだよ!」
動きを予測したかのように象の鼻が追尾してきて、私の腹にめり込んだ。肋骨が砕けて内臓がねじ切れた。視界に火花が散る。
だらりと腕が垂れ、剣が滑り落ちていった。剣が跡形もなく消滅する。
私の負けが決定した。
「ダッセ! 男にちやほやされて浮かれてるからこうなるんだよ。これだからモテない女は――」
コバトの声が遠ざかって聞こえなくなり、私も声を出せなくなった。
ここからは地獄の時間だ。悪魔が課す敗者への罰はグロい。
私は悲鳴一つ上げることもできないまま、朝まで延々と魔物たちに体をミンチにされた。
バッドエンドの翌朝。
いつも以上にむすっとしている私の頬に、ミミィが懸命にオイルマッサージを施す。血行が良くないそうだ。
そうだな。血の気が引くようなグロ映像を至近距離で見てしまったからな。今朝は何も食べられそうにない……。
「さ! 今日はどのような髪型にしましょう。動きやすい方が良いですわよね……ですが、せっかくの虹の日ですもの! 可愛らしくしても!?」
可愛く、か……。
「……べ、別に好きにすればいい。ミミィに任せる」
「お任せください!」
ミミィが興奮しつつも丁寧に私の髪を梳く。
今日は学院の授業は休みだが、特別演習の約束がある。つまり、学院の外でルルタに会えるんだ。
『俺は、ライラが好きだ』
あの図書室での出来事を思い出すだけで、顔がふにゃふにゃに溶けてしまいそうになる。
この十年の中でも一番幸せな出来事だった。
あの日から学院で話す機会はなかった。私が恥ずかしがって逃げてしまったせいもあるが、頭の中がルルタのことでいっぱいで他の人間にまで気持ちがバレてしまうのではないかと不安だったのだ。
しかし今日は人目も少ない。何か言葉を交わせるはずだ。
デートではないし、ましてや二人きりでもない。
それでも楽しみで仕方がなかった。
「あらお嬢様、ちょっと強く揉み過ぎてしまいました? やだ、どうしましょう」
鏡には頬を赤くした私が映っていた。
ダメだ、しっかりするんだ、私。
遊びに行くわけじゃないんだぞ!
こんな有り様だから夢で死ぬ羽目になるんだ。
エイプリルは現実の私を監視している。当然ルルタとの会話も盗み聞きされたはず。勝手にエイプリルのことを話したので、何か文句の一つでも言いに来るかと思ったのだが、一向に姿を表さない。不気味だ。
しかし心なしか夢に出てくる魔物が強くなっている気がする。
実はおこなの? と聞いてみたい。聞いたら問答無用で殺される気がするが。
「……まだか?」
いつもはテキパキと身だしなみを整えてくれるミミィが、今朝はやけに仕上げに時間をかけている。編み込んでシニョンにされた髪はもうほとんど完成しているのに、なかなか解放されない。
「もう少し、ですわね。少々お待ちを……」
「…………」
怪しい。私と目を合わせようとしない。
耳を立てれば気のせいか屋敷中が慌ただしいようだ。これは、前にもあったアレだな。
「父上様が来ているのか?」
ミミィが手元を狂わせたのを見てとって、私は確信する。
私と父上様が顔を合わせないよう、時間を稼いでくれているのだ。兄上様の命令かもしれない。
「いらっしゃっているのなら、挨拶をしなくては。急げ」
ミミィは渋々頷いた。
父上様、ネアラドファ・シェリアーク大公は、普段は王都郊外の別邸に閉じ籠り、絵を描き散らして過ごしている。大病院の経営や大公としての務めは兄上様や従者に任せきりでたまに指示を出す程度。
十年前、最愛の妻を亡くしてから心を病んでしまったのだ。
こうして本邸に訪れるのは年に数回だけ。たとえ不幸な一時になると分かっていても、できれば会いたい。
「おはようございます。父上様、兄上様」
私が食堂に足を踏み入れると、父上様が一瞥を寄越した。しかしそれだけだ。黙々と食事を続けている。
兄上様が苦々しい表情をしつつも、自分の隣に座るよう招いてくださった。
使用人たちは張りつめた空気に息苦しそうにしている。私も苦しい。やはり食欲は皆無だが、弱っているとは思われたくなくて無理矢理口に含む。
「オルフェウス。先の件はお前に一任する。私の名代として務めを果たせ」
「はい」
朝食を食べ終わり、兄上様にそう告げると父上様は立ち上がった。
今日も私のことはガン無視ですか、と抗議の意味も込めて父上様をじっと見つめる。
一言でいい。名前を呼んでほしい。
酷なことだと分かっている。
私は日に日に母上様に似ていっているらしい。しかし瞳の色だけが違う紛い物。
父上様にとって視界に入れるのも苦痛な存在だ。
立ち去る間際、父上様は感情の乏しい声を漏らした。
「学院に入学したそうだな」
「……っはい!」
私は話しかけられたことに一拍遅れて気づき、思わず立ち上がった。視線はこちらを向かないが、これは快挙だ。食堂にいる全ての者が驚愕している。
「これ以上、恥を重ねる前に辞めろ。通い続けるのならもうシェリアークを名乗るな」
数年ぶりに向こうから話しかけてきたかと思えば……まぁ、予想の範囲内だ。しかし私がいろいろやらかしたことは、父上様の耳にも入っていたんだな。
こんな言葉でもちょっぴり嬉しいと思ってしまう私は、歪んでいるかもしれないな。
「学院は辞めませんし、名も変えません。私はライラ・シェリアークとして、勇者になります」
緊張で声が震えたがはっきり言った。言ってやった。
「…………」
父上様はそれ以上は言葉もなく、去っていった。
私と喧嘩をする気力はないらしい。残念だ。もっと喋りたかったのに。
足音が聞こえなくなると、私と兄上様は同時にため息を吐いた。




