22 答え
十年前の冬――大好きだった母上様が亡くなったあの日。
『初めまして、ライラ。夢の世界へようこそ』
泣き疲れて眠った私の夢の中に、初めてあいつが現われたんだ。
青白い頬に尖がった耳、血を滴らせたような真っ赤な瞳。
エイプリルと名乗った美しい悪魔は、怯える私を見下ろして嗤った。
『母親との最期の時間はどうだった?』
その言葉に、私ははっと目を覚ました。
傍らには目の周りを赤くした兄上様がいて、侍女も執事も痛ましいものを見るような目をしている。
屋敷の空気は冷え切っていた。誰も彼も母上様の死を悼んで沈み込んでいたのだ。悲しみがぶり返してくる。
私が目を覚ましたと知り、父上様が部屋に飛び込んできた。
「ライラ……ああ、ライラ! 一人で悲しい思いをさせてしまったな。すまない。……彼女は、アルキュオンは最期に何と言っていた?」
「……っ?」
その問いに答えられず、私は愕然とした。
どんなに記憶を手繰り寄せても、母上様の顔そのものすら浮かんでこなかったから。
優しく美しい人だったことは覚えている。病弱で、いつもベッドの上で過ごされていたことも。
母上様が微笑むと私も兄上様も幸せな気分になって、普段は気難しい父上様でさえものすごく嬉しそうになさっていた。
母上様はシェリアーク家の中心で、私たちに惜しみない愛を与えてくれた……と思う。
だからこそ、母上様の死は雷が落ちたかのような衝撃を屋敷に与えたのだ。
その日は父上様も兄上様も不在で、家族では私だけが母上様のそばにいた。最近は体調が良いから大丈夫だろうと、ほんの少しの油断が母上様の命の灯を消した。
母親様が血を吐いて苦しみ出し、側仕えの侍女が人を呼びに行く僅かな間。
『ライラちゃん、よく聞いて。あなたは――』
耳に残っている声は、ひどく遠くて頼りなかった。
これが母上様の声? 分からない。
どんな表情をしていた? 思い出せない。白い靄が母上様の顔を隠してしまっている。
私と母は確かに最期の時間を過ごした。その後すぐに母上様は気を失い、そのまま息を引き取ったのだ。
だから、最期の言葉を聞いたのは私だけ。
なのに母上様の顔も、言葉も、想いも、何もかもが忽然と欠落していた。
「ライラ、どうした? なぜ何も言わない!」
父上様が私に詰め寄り、兄上様がそれを止める。ライラはショックで混乱しているのだと、必死に宥めていた。
違う、違うの!
最愛の妻を失っただけでも辛いのに、死に際に立ち会えなかった動揺で取り乱している父上様の前では、とても口にできなかった。
大切な母上様との最期の時間を覚えていないだなんて。
何より私自身がその事実を信じられなかった。
「十年前、私は夢に現れた悪魔に母上様に関する記憶を奪われた。顔も声も思い出も、最後に託された言葉すら」
記憶を失った原因はすぐに分かった。その夜にエイプリルが己の仕業だと明かしたからな。
「悪魔は言った。『魔王を倒せば記憶を返してやる』と。……いや、少し違った。奴は『俺を殺せば記憶を取り戻せる』と言ったんだ。そして魔王を倒さなければ、自分は殺せない。だから勇者になって魔境ガランドリネの虚無の大穴に来いと」
この世にこんなひどい呼び出しがあるだろうか。
世界最悪の称号を、私は奴に贈りたい。
「悪魔……?」
そしてこの状況である。
ルルタはきょとんとした表情でまばたきを繰り返している。いきなりこんな突拍子のない話をされたら、こんなリアクションになるのも当然だな。
悪魔なんて、それこそ魔境にでも行かないとお目にかかれないだろうし。
「よ、ようするに私は、母上様の記憶を人質にとられて悪魔に脅されているんだ。これが私が勇者を目指す理由だ」
強引にまとめ上げて誤魔化す。
いくらなんでも信じてもらえるわけがない。今度こそ呆れられただろうか。幻滅されたって仕方ない。
だけど、これが私の真実だ。
あれから十年が経った。私は毎晩、夢の世界でエイプリルから拷問のような特訓を受けさせられている。いい加減気が狂いそうだ。
それでも私は諦められない。
諦めてしまえば、私は一生母上様のことを思い出せない。最期の言葉を父上様と兄上様に伝えることもできない。そんなの嫌だ。
それに、今となっては意地もある。あのエイプリルのクソ野郎を現実世界で徹底的に抹殺するため、私は命を懸けて勇者を目指す。
勇者になって魔王を倒し、エイプリルから記憶を奪い返す。
そんな動機で勇者を目指している奴、他にいないだろうな。ちょっぴり恥ずかしいし、申し訳ない気持ちはある。
私にとってはとても大切なことでも、この世界の大多数の人間には無関係でどうでもいい理由だ。こんなことで国民感情を逆撫でし、学院に不和をもたらしているのだから、自分でもたまに呆れてしまう。
誰にも理解されないだろう。大体、信じてもらえない。
……いや、下手に信じられても困るけどな。悪魔憑きだと火炙りにされそうだ。
だから誰にも話せなかった。
子どもの頃のように、勇者の伝説や冒険譚に思いを馳せることはもうない。栄誉を欲するわけでも、自分の力を試したいわけでもない。
なんて夢のない夢。自分でも笑ってしまいそうだ。
「なんつーか、あれだな。予想の遥か上だったぜ……」
ルルタは唸るように感想を述べた。こんな戸惑っている姿は初めて見る。
私は長年吐き出せなかった秘密を口にしたせいか、開き直っていた。ヤケクソ気味ともいう。もうどうにでもなーれという気分だ。
「魔王を倒すのがゴールじゃねぇんだな。そこがまずヤバい」
「そうだな。ヤバいな」
「つーか、その夢の悪魔は何者だよ。何が目的でライラに魔王と自分を倒させようとしてるんだ」
「理由はよく知らない。だが、なんとなく想像はつく。その悪魔は……エイプリルは、ベガトリアスの子だからな」
「……マジか。どういうことだよ」
ルルタは頭を押さえて顔をしかめた。
どういうことなのかは、私も知りたいところだ。しかし奴は自分について多くを語らない。だから知る由もない。
世間一般には欠番となっているが、エイプリルは四番目の魔王子だ。
魔王と女勇者ベガトリアスの間に生まれた魔族と人間のハーフで、赤子のときに母ともども虚無の大穴に落ちて死んだことになっている。
しかし、実は生きていたということだな。
肉体が大穴の中でどうなっているのかは分からないが、精神はわりと自由に活動できるようだ。青年の姿だし、キュロンよりもずっと大人びた話し方をするし、おそらく成長はしているんだろう。どこから栄養と知識を得ているんだ。不気味すぎる。
とにかくあいつは遠く距離を隔てている私の夢に入り込み、私をいじめて楽しんでいる。何が目的でも許せない。
「それ、大丈夫なのか? 夢に入ったり記憶を奪ったり、結構ヤバい能力だろ。ライラの他にも被害に遭ってる奴がいるのか?」
「その心配はない。エイプリルは自分の血縁者の夢にしか入れない。それも、よほど魔力の波長が合う奴じゃないとダメらしい。ものすごく不愉快だが、私以外があいつにどうにかされることはない」
二百五十年待って、やっと接触できたのが私だと前に言っていた。
もっと強くなりそうな人間が良かった、オルフェウスの方が賢くて期待できた、とため息を吐かれたときは、眠っているのに頭の血管が切れるかと思った。
兄上様の安眠を邪魔したらマジで許さないからな!
「そうか……なんかまだいろいろ分かんねぇことがあるけど、もうこれ以上は頭に入らねぇ。もしかして、俺は今混乱しているのか?」
「そんなの、聞かれても困る……」
ルルタは何度か深呼吸をして、改めて口を開いた。
「とにかく、ライラは自分のために勇者を目指して頑張ってるんだな?」
「そうだ。……悪かったな。先祖のためでも世界平和のためでもなくて」
がっかりさせてしまっただろうな。ルルタは私のことを格好いいと言ってくれたのに、きっと今は悪魔に脅されてる情けない奴だと思っているに違いない。
私は息を詰めてルルタの次の言葉を待った。
「……そっか。自分のためなら仕方ねぇか。どんなに厳しくてもしんどくても、他人任せになんてできねぇよな。よっし、決めた。じゃあ俺は勇者になるのは諦める」
どこか気の抜けたような笑顔を見せ、ルルタはさらりととんでもないことを口にした。
「な、何を言って……勇者を諦めるって、お前、勇者になる気はないって言っていただろうが」
「まぁな。でも、いろいろ考えたんだ。ライラにふさわしい男になるにはどうすればいいか。一番手っ取り早いのが、勇者になって手柄を立てることだろ? 戦いなら得意分野だしな」
手っ取り早いだと? 勇者になるのがどれだけ大変か分かっているのか、この野郎。
大体、私にふさわしい男って……やっぱり入学の儀のときの言葉は本気だったのか……。
怒りと照れの相乗効果で顔が急激に熱くなる。
「それに、正直見ていられなかったんだ。痛々しくてな。もしもライラが家のために勇者になって名誉を回復しようっていうのなら、全力で邪魔するつもりだったぜ。大昔のことでライラが自分の人生を犠牲にするなんて、俺は納得できねぇから」
それで私の夢を阻むために、自分が勇者になるってことか?
本当に、なんて奴だ……。
今度は私が絶句すると、ルルタは満足げに頷いた。
「でも、ライラが自分のために頑張ってるなら、全力で応援しないとな! 奪われた大事なもんを取り戻せるなら、戦いに行くのは当然だ。俺にその手伝いをさせてくれねぇか?」
「……は?」
ルルタは太陽のように笑った。
「一人じゃ無理っつーか、絶対大変だろ? だから俺も連れていってほしい。魔王討伐の旅に」




