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小説 長谷川宣以 悪の職 1745-1795  作者: 山田 誠一


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第六章:この飯を食え


浅草の捕り物から半月。江戸の街を震撼させた「葵小僧」の死罪が執行され、その首が小塚原の刑場に晒された。市井の民は「平蔵が江戸の闇を払った」と喝采したが、当の宣以の視線は、すでにその先の、さらに巨大な利害の渦へと向けられていた。


天明九年(1789年)正月。

隅田川の河口に位置する佃島のさらに先、大川の水流と江戸湾の荒波が交錯する境界の地「石川島」に、宣以は立っていた。


「頭、いよいよでございますな」


粂八が、潮風に身をすくめながら言った。

彼らの目の前には、突貫工事で建てられた木造の長屋と、それを囲む高い泥土手、そして外からの侵入を拒む強固な大門がそびえ立っている。我が国初、いや世界的に見ても類例のない、犯罪者と無宿人の自給自足型更生施設「石川島人足寄場」の誕生であった。


「今日、最初の寄場人足が、伝馬町から移送されてくる。……総勢、六十名だ」



宣以は懐から真鍮の時計を取り出し、文字盤を睨んだ。

浅草の無宿人たちとの約束は、一寸の狂いもなく果たされた。だが、真の不条理は、身内の身勝手な論理から生じる。定信公から与えられた寄場の設立予算は、わずか三千両。これだけの小金では、人足たちの衣食を数ヶ月賄えば底を突く。幕府の閣僚たちの本音は、「長谷川に一回限りの玩具を与えて黙らせる」という冷淡なものであった。


「頭、勘定所からの仕送りの米、やはり半分が砂混じりの古米にございました。あの役人ども、寄場の自給自足など端から信じておらず、ただの厄介払いと考えて居ります」


酒井祐助が、怒りに拳を震わせて報告する。


「それでいい、酒井」


宣以はむしろ、獰猛な笑みを浮かべた。


「お上の財政論など、初手から計算に入れてはいない。他人の財布をあてにする構造は、その財布の主が変われば脆くも崩壊する。この寄場を永遠に回すための燃料は、自分たちで稼ぎ出す」


宣以は、寄場人足たちをただ閉じ込めるだけの檻にするつもりは毛頭なかった。彼が長屋の中に配置したのは、巨大な作業場であった。油絞りの器具、瓦を焼くための窯、大工や左官の道具。さらに宣以は、江戸市中の米問屋や建築請負の親方たちと事前に生々しい利害交渉を重ね、寄場内の労働力を民間の市場へ直接外注する仕組みを構築していた。


「開門せよ!」



宣以の声が響くと同時に、大門が重々しく開かれた。

役人に連れられ、網編みの笠を被った男たちが、泥を踏みしめて入廷してくる。浅草の長屋で宣以に竹槍を向けた、あの若い無宿人の姿もあった。男たちの目は、新たな刑場へ連れてこられたかのような、絶望と疑心暗鬼に満ちている。


宣以は、彼らの前に一歩踏み出し、大音声をあげた。


「よく聞け、石川島に集いし人足たちよ! ここはお前たちを罪人として罰する場所ではない! 明日からの生活を、己の腕一本で掴み取るための戦場だ!」


男たちが一斉に笠を上げ、宣以を凝視する。


「ここでの労働には、すべて正当な賃金を支払う。その三分の一は日々の食費と差引くが、残りの三分の一は幕府が管理し、お前たちがここを出る日の軍資金として積み立てる! 残る三分の一は、今すぐ江戸の家族へ仕送りすることを許す!」


「……給金が、もらえるってのか?」


「俺たちみたいな無宿人に?」


ざわめきが、潮騒のように広がっていく。彼らがこれまでの人生で、お上の法から与えられたのは、常に排除と罰だけであった。初めて提示された論理的な労働の対価に、男たちの錆びついた理性が、にわかに熱を帯び始める。


「ただし!」


宣以の眼が、鬼の鋭さへと一変した。


「怠ける者は容赦なく叩き出す。技術を盗み、汗を流し、もう一度人の理の中で生きたいと願う者だけが、この飯を食え。……作業を開始しろ!」


男たちは、戸惑いながらも、割り振られた油絞りの小屋や、瓦の窯へと歩き出した。やがて、寄場の内側から、巨大な油絞り機が回転する重々しい音が響き始めた。それは、社会の底辺にいた人間の業が、国家を支える基盤へと転換された、歴史的な歯車の音であった。


宣以は、黒煙を上げ始めた瓦窯を見つめていた。


不条理の川の向こう、江戸城の天守閣が、夕日に染まって赤く輝いていた。長谷川宣以の、国家の構造そのものを組み替えるような、真の実証主義の闘いは、この石川島から本格的な火蓋を切ったのである。


(第七章に続く)

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