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小説 長谷川宣以 悪の職 1745-1795  作者: 山田 誠一


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第五章:正体不明の恐怖


浅草聖天町、通称「泥長屋」。

その名の通り、夏は泥濘となり、冬は極寒の氷床と化す不毛の地である。


天明の飢饉によって奥州から流れ着いた無宿人、あるいは博打に狂って人別を外れた者たち、およそ百数十人がこの一画に蜂の巣のようにひしめき合っていた。幕府の法が及ばぬこの境界線を実質的に支配していたのが、葵小僧であった。


「頭、お戻りでございますか」


闇の中から現れた粂八が、手綱を握る宣以に駆け寄る。その肩には、すでに二寸近い雪が積もっていた。


「状況は」


「長屋の周囲、二十八人の突入組たる凶賊は、すべてそれぞれの部屋で酒を喰らって居ります。先の神田での捕り物が失敗したとも知らず、明晩の仕込みの相談をしている様子。……ですが、頭、一つ不穏な動きがございます」


粂八の視線の先、長屋の中央にある一棟から、不気味な熱気が立ち上っていた。人別帳を外れた九十余人の飢民たちが、数箇所で大きな篝火を囲み、殺気立った目で竹槍や木切れを削っている。


「葵小僧の仕込みにございます」


粂八が苦渋の表情を浮かべた。


「あの男、長屋の連中に『今夜、お上の犬どもがこの長屋を焼き払いに来る。捕まれば全員、伝馬町で首をはねられるぞ』と、嘘の恐怖を植え付けました。奴ら、自分たちが葵小僧の盾にされているとも知らず、命懸けで役人を迎え撃つ構えです」



「構造的な盾、か」


宣以は馬を降り、闇の奥を見つめた。

定信公が命じた条件は「一人の怪我人も出さずに完璧に捕らえること」。

もしここで同心たちが力ずくで踏み込めば、絶望した九十余人の民衆が暴徒と化し、死に物狂いで抵抗するだろう。そうなれば流血は避けられず、混乱に乗じた葵小僧に逃亡の隙を与える。あるいは、定信公の予言通り、この浅草の地が炎に包まれる。


「頭、いかがいたします。一度、御先手組の応援を呼びますか」


酒井祐助が剣の柄を握り締め、緊張に声を震わせる。


「愚か者。大軍を動かせば、それこそ奴らの恐怖を真実にするだけだ」


宣以の脳髄は、極限の制約の中で、むしろ驚異的な透明度を以て回転していた。


「人間が最も狂暴になるのは、正体不明の恐怖に直面したとき地。ならば、その恐怖の正体を、客観的な数字と事実によって解体してやればよい」


宣以は漆黒の羽織を脱ぎ捨て、懐からあの真鍮の時計と、一枚の大きな書き付けを取り出した。


「酒井、手勢には武器を収めさせろ。十手を懐に隠し、ただの市中見廻りの体で長屋の四方に配置せよ。合図があるまで、一歩も動くな」


「頭!? まさか、お一人で……」


「俺の顔は、この泥にまみれた奴らなら、誰もが知っている」



宣以は同田貫を帯から外し、粂八に投げ渡した。丸腰。一歩間違えれば、狂乱した群衆に八つ裂きにされる危険な賭けであった。だが、これこそが宣以の現場の人間学の真髄であった。相手と同じ泥の中に、自らの身を完全に投げ出す。


篝火が赤々と燃える長屋の広場へ、宣以の大きな足跡が、雪を踏みしめて近づいていく。


「……おい、誰か来たぞ」


「長谷川だ……! 火付盗賊改の、平蔵だ!」


緊迫した叫びが走り、九十余人の無宿人たちが一斉に竹槍を向けた。飢えと恐怖で血走った目が、宣以を包囲する。


「動くな! 貴様、この長屋を焼きに来たな!」


先頭の若い男が、震える手で竹槍を突き出してきた。

宣以はその場に立ち止まり、両手を広げて見せた。その顔には、怒りも、官僚特有の傲慢さもない。ただ、凍てつく夜の空気を楽しむような、太い笑みがあった。


「長屋を焼く? 誰がそんな無駄なことをするか」


宣以の声は、長屋の隅々にまで響き渡るほどに低く、通った。


「ここにいる百二十四人の人足たちよ、よく聞け。俺は火付盗賊改の長谷川宣以だ。今夜、俺がここに持ってきたのは、火薬でも、縛り縄でもない。……これだ」


宣以は掲げた書き付けを開いた。そこには、浅草の米問屋から今夕、宣以が私費で買い付けた「米三十俵」の預かり状が、実証的な数字と共に記されていた。


「今、お前たちの部屋にあるのは、葵小僧が盗んできた、いつお上に取り上げられるか分からぬ呪われた金だ。だが、この書き付けにある米三十俵は、明日、お前たち全員の胃袋に正当に収まる白米だ。条件は一つ。今夜、この奥の棟に隠れている葵小僧とその身内、合わせて二十八人の本物の悪党を、俺の捕り手に引き渡すことだ」


群衆の間に、明らかな動揺の地殻変動が起きた。彼らが求めていたのは、反逆という理念ではなく、ただ明日の生存であった。宣以は彼らの物欲と生存欲を冷徹に見抜き、葵小僧という偽りの救世主よりも、確実な実利を提示したのだ。


「騙されるな! 捕まれば俺たちは全員死罪だ!」


奥の窓から、葵小僧の配下が悲鳴のような声を上げる。


「死罪などにするか!」


宣以はその声を一喝した。


「俺は江戸城で、老中様と掛け合ってきたばかりだ。お前たちのために、隅田川の向こうに新しい生き場たる寄場を造る。そこでお前たちに大工や左官の腕を教え、飯を食わせ、もう一度、人別帳に名前を戻してやる。それが、俺の連れてきた幕府の法だ。……信じるか、信じぬか。今すぐここで、その竹槍で俺を突いて、確かめてみろ!」


静寂が、浅草の夜を支配した。降る雪の音さえ聞こえるほどの沈黙の中、先頭の若い男の手から、竹槍が力なく泥の中に落ちた。続いて、一人、また一人と、武器が雪の中に埋もれていく。


「……嘘じゃねえな、長谷川の旦那」


老いた無宿人が、涙を流しながら呟いた。


「二言はない」


宣以が右手を高く掲げた。それが、合図であった。

闇の中から、武器を収めた同心たちが、静かに、しかし迅速に長屋へと侵入していく。恐怖の盾を失った葵小僧の一味は、戦う術を持たず、一発の火を上げることもなく、次々と泥の中に組み伏せられていった。


夜明け前、浅草の空が、紫色の冷たい光を帯び始める。縄をかけられた葵小僧の姿を見送る宣以の耳の奥で、懐中の時計が、静かに新しい時代の刻を刻んでいた。


これこそが現場の数理だ。


泥にまみれた宣以の足跡の向こうに、やがて数万の命を救うことになる「石川島人足寄場」の、巨大な夜明けが始まろうとしていた。


(第六章に続く)

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