第四章:今夜の飢えの恐怖
一
江戸城本丸、御用部屋。
外の豪雪を遮る厚い障子の向こうから、炭取りの爆ぜる音だけが聞こえる。
長谷川宣以が平伏するその数歩先、上座に座る老中・松平定信公の姿があった。弱冠三十代前半にして幕政の頂点に立ち、崩壊寸前の徳川の権威を至誠と倹約によって建て直さんとする、当代随一の理想主義者。その鋭い眼光は、青白い炎のようであった。
「長谷川、面を上げよ」
定信公の声は清廉だが、同時に冷徹な拒絶の響きを帯びていた。
「お前が勘定所に提出した『人足寄場』の建言書、読んだ。……奇怪な論理だな」
「恐れ入ります」
宣以は面を上げ、定信公の視線を真っ向から受け止めた。
「法とは、天の理であり、人の道を示すものだ」
定信公は机の上の建言書を指先で叩いた。
「人別を外れ、凶賊の手足となる無宿人は、国家の秩序を乱す悪に他ならぬ。悪には厳格な罰を以て臨み、民に不義の恐ろしさを知らしめることこそが統治の王道。しかるに、お前の策は、その悪人を集めて衣食を保証し、技術まで授けるという。これでは、真面目に働く困窮の民への不条理ではないか。悪人を甘やかせば、江戸の道徳はさらに退廃する」
定信公の主張は、儒教的な正義論としては完璧であった。非の打ち所がない。
定信公、あなた様のその無瑕の正義、国を想う至誠の心には、この宣以、深く平伏するほかございませぬ。なれど――と宣以は心の内で刃を研いだ。あなた様の清らかな書物の外側には、泥と血にまみれた冷酷な現実が広がっている。
二
「定信公、あえてお尋ねいたします」
宣以は懐から、一冊の小さな帳面を取り出した。登城前に纏め上げた、江戸の数理である。
「現在、伝馬町の牢屋敷に収容されている無宿人の食い扶持、ならびに遠島にかかる船の手配、刑を執行する役人の人件費――これらすべてを合わせ、幕府が毎年どれほどの金銀を消費しているか、ご存知でしょうか」
「……」
「年間、およそ三千両にございます。そして、それだけの巨費を投じて悪人を処理しながら、江戸の凶悪犯罪の件数は、天明の飢饉以降、一割たりとも減って居りませぬ。なぜか。罰の恐ろしさよりも、今夜の飢えの恐怖が勝るからにございます。定信公の仰る天の理では、人間の胃袋を満たすことはできぬのでございます」
「無礼な」
背後に控える側用人が色めき立ったが、定信公は手を挙げてそれを制した。定信公の眼が、不気味なものを見るかのように細められる。
「では、お前の言う『寄場』とやらは、その三千両を削れるというのか」
「削るどころか、数年のうちに、この寄場そのものが幕府に富を生み出す構造に変えてみせます」
宣以は算盤を弾くような早口で、論理を展開した。
「寄場を造る初期費用として、油絞りの道具や建材に千両ほどを拝借したい。だが、彼らが寄場内で製造する油や瓦は、すべて江戸の市場で売却し、幕府の財源へと還流させます。さらに、彼らの労働によって隅田川河口の埋め立てを進めれば、そこに新たな宅地が生まれる。それは将来、莫大な運賃と運上金を幕府にもたらす空間地政学的な資産となります。悪人をただ殺すのではなく、国家の資本に変える。これが此度の献上案にございます」
部屋の空気が、張り詰めた弦のように鳴った。
道徳で国家を縛ろうとする定信公に対し、宣以は純然たる経済の論理で切り返したのだ。人間の業や欲を否定せず、むしろそれを燃料として国家の仕組みを駆動させる。その獰猛な思考に、定信公は激しい嫌悪を覚えつつも、一言も反論できない。数字が、あまりにも正確だったからだ。
三
「……面白い」
定信公は低く笑った。だが、その目は笑っていない。
「そこまで豪語するならば、長谷川、条件がある。今夜、お前が追っている凶賊『葵小僧』を、一人の怪我人も出さずに完璧に捕らえてみせよ。もし市中に一筋の火でも上がれば、お前の現場の人間学とやらは、ただの法螺話として退ける。寄場の件も、二度と口にすることは許さん」
「御意」
宣以は深く平伏した。自らの退路が完全に断たれたことを、彼の脳髄は冷徹に認識していた。
城を出たとき、夜の四ツ(よつ・午後十時)を過ぎていた。雪はさらに激しさを増し、江戸の街を白く覆い尽くそうとしている。宣以は役宅へ戻ることなく、そのまま浅草の闇へと馬を走らせた。
懐中の時計が、三ツの訪れを告げようとしていた。葵小僧の本陣、浅草聖天町の裏長屋の屋根が、雪の向こうに黒く浮き上がってくる。大捕り物の幕が、極限の暗闇の中で静かに開かれた。
(第五章に続く)
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