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小説 長谷川宣以 悪の職 1745-1795  作者: 山田 誠一


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第三章:葵小僧


神田の捕り物から三日後。役宅の奥にある火付盗賊改方の執務室で、宣以は大量の書き付けを検分していた。


部屋には、筆の走る音と、外の寒風が障子を震わせる音だけが響いている。机の上に整然と並べられたのは、捕らえた五人の生い立ち、出身地、そして江戸に流入してからの足取りを記録した、極めて実証的な計数群であった。


「頭、葵小僧の潜伏先、やはり浅草の裏長屋と判明いたしました。捕らえた男の一人が、妹の病の薬代と引き換えに、すべてを吐きました」


同心の酒井祐助が、興奮を抑えきれない様子で入室してくる。だが、宣以は調書から目を離さない。


「その長屋の周囲にいる無宿人の数は」


「は? ええと……およそ数十人、あるいは百人近くが屯しているとのことで……」


「曖昧な数字で現場を語るな、酒井」


宣以は冷徹に声を落とし、一枚の書き付けを突きつけた。


「浅草聖天町の周辺、人別帳を外れた無宿人の実数、およそ百二十四人。そのうち、葵小僧の直接の配下と目されるのが二十八人。残りの九十余人は、凶賊ではない。ただ、その日の生計がなく、葵小僧がばら撒く盗金のおこぼれを待っているだけの飢民だ」


酒井は言葉を失った。宣以が、単に葵小僧という一個人を追っているのではなく、その背後にある社会の構造を完全に数値化しようとしていることに、ようやく気づいたからだ。


「いいか。百二十四人のうち、二十八人の凶賊を捕らえるのは容易い。だが、残りの九十人をそのままにすれば、彼らは第二、第三の葵小僧を自ら作り出す。なぜなら、そうしなければ彼らは明日、餓死するからだ。犯罪とは、人間の邪悪な意志からのみ生まれるのではない。生存のための空間の不条理から生まれる」


宣以の言葉は、当代の儒学者たちが語る道徳論とは対極にあった。徹底的な現実主義。人間は環境の生き物であり、その環境を変えない限り、厳罰は何の抑止力にもならない。


「これを見ろ」


宣以が示したのは、幕府の財政出納と、伝馬町牢屋敷の維持費、そして処刑にかかる費用の対比表であった。



「現行の法は、人間を不浄の物として処理している。捕らえ、金をかけて閉じ込め、金をかけて殺す。これほどの不経済があるか。俺が定信公に提案するのは、この無宿人という余剰の力を、江戸の基礎を整えるための労働力へと転換する構造改革だ」


「それが……人足寄場、でございますか」


「そうだ。石川島の隅田川河口に、巨大な囲いを造る。そこに無宿人を集め、大工、左官、あるいは油絞りなどの技術を叩き込む。彼らが働いた賃金の一部は積み立て、寄場を出るときの創業の元手として与える。罪人を社会の敵から、社会の担い手へと変えるのだ」


これこそが、長谷川宣以という男の人間学の極致であった。人間の生きたいという執着を否定せず、その力の方向を、論理的な制度によって百八十度反転させる。


そのとき、役宅の門前がにわかに騒がしくなった。


「長谷川様! 勘定奉行所からの使者にございます! 老中・松平定信様より、即刻の登城を命じるとのこと!」


酒井が緊張に身をこわばらせる。宣以の不穏な数理が、ついに江戸城の最高権力者の耳に達したのだ。

宣以は静かに立ち上がり、漆黒の羽織を肩にかけた。その懐には、あの秒針を刻む真鍮の時計と、独自の財政計算書が収められている。


「葵小僧の捕縛は、今夜三ツに決行する。俺が登城している間、網の目を一寸も緩めるな」


「は、はい!」


「お上の綺麗な理想論を、現場の数字でねじ伏せてくる」


平蔵の眼に、獰猛な実務家の光が宿った。彼は雪の降り積もる江戸の街へと、その大きな足跡を刻みながら、巨大な権力の城へと向かった。


(第四章に続く)

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