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小説 長谷川宣以 悪の職 1745-1795  作者: 山田 誠一


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第二章:空間の罠


神田川から吹き付ける夜風が、大黒屋の瓦を白く凍らせていく。


宣以は、大黒屋から半町ほど離れた米問屋の軒下に身を潜め、懐中時計の歯車が刻む音を耳の奥で聞いていた。寛政の世にあって、西欧の論理が詰まったこの真鍮の塊を愛用しているのは、執務室に座る老中たちへの密かなあてつけでもあった。彼らが格式や先例という曖昧な時の中に生きている間、現場の命は一分一秒の因果で消滅する。


三ツ半から一刻半、奴らの動線に乱れはない。

大黒屋の周囲には、すでに宣以の意を受けた同心と密偵、合わせて十二人が配置されており、突入の合図を待っていた。



「頭、なぜ踏み込まねえのです」


背後から、息を殺した同心の酒井祐助が焦れた声を出す。若く、正義感に燃える男だが、それゆえに戦場を善悪の二元論で捉えすぎる。


「中にいるのは、葵小僧の息がかかった突入組の五人のみだ。大黒屋の番頭を脅し、大金蔵の鍵を開けさせるまでに、あと一刻はかかる」


「しかし、時間をかければそれだけ、中の人質の命が……」


「逆だ、酒井」


宣以は視線を大黒屋の二階の格子窓に固定したまま、冷徹に言い放った。


「凶賊が最も狂暴になるのは、作業の途中で計画の破綻を悟ったときだ。今踏み込めば、奴らは人質を盾にして立て籠もるか、あるいは主人の喉を掻き切る。奴らが最も油断するのは、目的の金を袋に詰め、安全な退路へ向けて足を一歩踏み出したその瞬間だ」


宣以の捜査は、徹底的な心理の実証に基づいていた。人間という生き物は、どれほど凶悪な意志を持とうとも、肉体の疲労と、目的を達した瞬間の弛緩からは逃れられない。


「それよりも、粂八が変えたどぶ川の配置だ。葵小僧本人は、おそらくこの神田には来ていない」


「えっ……首領が、来ない?」


酒井が目を見開く。


「あの男は無宿人を操る泥の将軍だ。自らが現場で手を汚すような真似はせん。本陣はここから半里離れた浅草の旅籠、あるいは本所の長屋だ。今夜の襲撃は、己の私兵たる無宿人がどれほど機能するかを試す、いわば実験に過ぎん」


宣以の地政学的な眼は、大黒屋という一軒の店舗を超え、江戸全体の無宿人の動線を俯瞰していた。天明の飢饉以降、浅草や本所の盛り場には、人別帳から零れ落ちた数千の若者が屯している。彼らにとって、葵小僧は不条理な幕府の法に牙を剥く救世主にさえ見えていた。


そのとき、大黒屋の裏口の木戸が、かすかに軋んだ。



「……出た。大きな葛籠を背負って居ります。五人、間違いございません」


物陰から這い出た密偵の五郎蔵が、囁くような声で告げる。


「よし」


宣以の眼が、にわかに鬼の鋭さを帯びた。


「酒井、お前は表から突入し、店内の安全を確保せよ。五郎蔵、裏口の奴らをどぶ川沿いへ追い込め。決してそこで仕留めようとするな。走らせろ」


「走らせる、ので?」


「飢えた犬を路地に追い詰めれば、反転して噛み付いてくる。だが、目の前に逃げ道が見えていれば、脇目も振らずにそこへ飛び込む」


宣以が指定した逃げ道――それは、神田川の舟付き場へ続く、狭く泥深い一本の路地であった。

五人の賊は、背後の追っ手の気配に怯え、息を切らせてその路地へ転がり込んだ。彼らの足元は、宣以の予測通り、凍った泥に滑って劇的に鈍る。さらに、寒さと恐怖で肺が縮み、自慢の体力は急速に奪われていった。


「ここだ」


路地の出口、神田川の闇から、宣以がぬっと姿を現した。その手には、抜身の同田貫が鈍い光を放っている。


「火付盗賊改方、長谷川宣以である。武器を捨て、縛に付け」


「お、平蔵か……! 構うな、殺せ!」


先頭の巨漢が、懐から匕首を抜いて躍りかかってきた。食い詰めた人間の、理性を無くした捨て身の突撃。

だが、宣以の動きには、無駄な感情が一切なかった。相手の出足の速度と刃の軌道を冷徹に見切り、半身をかわすと同時に、同田貫の峰で巨漢の右腕を正確に叩き折った。鈍い骨折音が響き、匕首が泥に落ちる。


「ひいっ!」


二番手の男が恐怖に足を止めた瞬間、宣以はすでにその懐に踏み込んでいた。柄頭で男の水月みぞおちを強く突き上げる。男は白目を剥いて泥の中に悶絶した。

わずか数呼吸の間。凄まじい武芸の威圧感と、逃げ道を完璧に塞がれたという空間の絶望が、残る三人の戦意を完全に瓦解させた。彼らは泥の中に膝を突き、ガタガタと震えながら両手を挙げた。


「……頭、お見事でございます」


酒井たちが息を切らせて駆けつけてくる。

宣以は同田貫を懐紙で拭い、鞘に収めた。視線は、泥にまみれて縄をかけられていく三人の若い賊に向けられている。彼らの顔は、凶悪な犯罪者のそれというよりも、ただ明日の米に困り果てた、地方の農民のあどけなさを残していた。


「酒井、この者たちを伝馬町の牢へ運べ。ただし、拷問はするな。温かい粥を与え、人別がどこにあるかを徹底的に調べ上げろ」


「粥、でございますか? 賊に?」


酒井が信じられないという顔をする。


「この者たちは、葵小僧の手足に過ぎん。頭を叩かねば、同じような手足は浅草の泥からいくらでも生えてくる」


宣以は神田川の濁った水面を見つめた。葵小僧の居場所を吐かせることは、そう難しくはない。取り調べと、人間の欲と情を揺さぶる交渉があれば、数日のうちに首領の首に手が届くだろう。


だが、宣以の闘いは、そこからが本番であった。この五人を捕らえたことで、伝馬町の牢はさらに過密になる。ただでさえ不衛生な牢内では、毎年多くの無宿人が刑を待たずに病死していく。国家の予算を使い、人間を捕らえ、狭い箱に閉じ込めて病死させる――これほどの非効率と不条理が他にあるだろうか。


定信公……あなた様のご清廉な理想の道徳では、この泥の底に沈む人間たちは救えぬのです。人足寄場の策、何としてでも認めさせてみせる。


江戸の夜空に、かすかに雪が混じり始めた。宣以は懐の時計を一度だけ確認すると、自らも泥を跳ね上げながら、役宅へと歩き出した。彼の脳裏には、すでに次なる巨大な構造の罠が仕掛けられつつあった。


(第三章に続く)

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