第一章:江戸の闇
一
天明八年(1788年)極月の夜。江戸の闇は、凍てついた泥の匂いがした。
「頭、間違いございません。今宵、三ツ半、神田の薬種問屋『大黒屋』に動くは、葵小僧の一味にございます」
漆黒の羽織に身を包んだ長谷川宣以、またの名を長谷川平蔵は、湯島天神の境内の陰で、身を屈める密偵・粂八の報告を黙って聞いていた。粂八の吐く息が白く揺れる。粂八はかつて江戸を震撼させた本格の盗賊の一人だ。宣以がその捕縛の際、単に縛り首にするのではなく、その泥にまみれた人間の眼と闇の地勢を組織の刃として配置し直した、いわば宣以の私的な情報網の結節点であった。
「手勢の配置は」
宣以の声は低い。講釈師が語るような「平蔵」の華々しさは微塵もない。そこにあるのは、現場の計数と地形を冷徹に計算する、一人の実務官僚の響きであった。
「表通りに市中見廻りを五人、裏のどぶ川沿いに捕り手を三人伏せました。大黒屋の裏口は泥が深く、足を取られます。奴らが逃げるとすれば、必ずあのどぶ川を渡り、神田川の舟付き場へと向かうはず」
「いや、裏のどぶ川は三人に変え、さらに二人を十間先の辻に配せ」
宣以は懐から、細密に描かれた神田界隈の切り絵図を取り出し、指でなぞった。
二
「葵小僧の仕込みは生半可ではない。あの男は、飢饉の折に奥州から流れ着いた無宿人を、金と飯で兵卒に変えた男だ。単なる物欲で動く盗賊とはわけが違う。食い詰めた人間の生きるための狂気は、退路を断たれたときに最も爆発する。包囲網が狭いと、捕り手の肉を切らせて突破してくる。空間は広く取り、奴らの逃亡の心理を誘導せよ」
「……御意。すぐに」
粂八は息を呑み、闇に消えた。
宣以は切り絵図を畳み、ふと己の手のひらを見つめた。かつて「本所の銕」と呼ばれ、放蕩無頼の限りを尽くし、博徒や無宿人たちと泥水をすすり合っていた頃の傷跡が、今も親指の付け根に残っている。
奴らを殺すのは容易い。だが、首をいくらはねたところで、江戸の闇は薄くならぬ。
今年、御先手弓頭から火付盗賊改方に就任して以来、宣以が直面しているのは、幕府の法が機能不全に陥っているという絶対的な不条理であった。
前年、江戸を襲った「天明の打ちこわし」。米価の高騰に耐えかねた数万の民衆が街を破壊しつくしたあの暴動の本質を、平城京以来の頑迷な道徳観のままに「不逞の輩の反逆」と断じた老中・松平定信らの眼は盲目だ。
地方で生活基盤を失い、人別帳を失って江戸に流入した無宿人は、今や数万に達する。彼らは存在するだけで犯罪の温床となり、葵小僧のような凶賊の格好の供給源となっていた。現行の法が命じるのは、捕縛、刺青、遠島、さもなくば死罪。だが、飢えに追われた人間にとって、明日の死罪よりも今日の白米であった。
三
「論理が通らぬ国難だ」
宣以は呟き、腰の同田貫の柄に手をかけた。
老中・松平定信公の進める寛政の改革は、徹底的な倹約と旧秩序への回帰を謳う。
宣以とて、定信公の国家を憂う至誠の心と、その高潔な人格については深く尊敬の念を抱いている。あれほど厳格に己を律し、幕政の腐敗を正そうとするお方は他におられぬ。
だが――と宣以は闇を見つめた。定信公の目指す美しい道徳の世は、あまりに清廉すぎて、この泥の底で這い回る人間の泥臭い現実を救うことができぬのだ。現場を見ぬ理想主義は、かえって民の息の根を止め、闇を深くするだけだ。宣以の脳裏には、すでに一つの巨大な構造改革の青写真があった。犯罪者をただ屠るのではなく、彼らに過酷な労働と引き換えに技術を授け、社会へ還流させるための巨大な囲い――。
だが、それを定信公に認めさせるためには、まずはこの江戸の夜を支配する「葵小僧」という具体的な病巣を、完璧な数字と実証の前に解体してみせねばなかった。
遠くで、夜回りの拍子木が、三ツ半の訪れを告げた。
「行くぞ」
宣以は闇に紛れ、泥の足跡が残る神田の辻へと、音もなく歩みを進めた。彼の眼は、不条理な夜の奥にある、確かな人間の理を見据えていた。
(第二章に続く)
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