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小説 長谷川宣以 悪の職 1745-1795  作者: 山田 誠一


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第七章:黒い算盤


石川島人足寄場が稼働を始めて半年。隅田川の河口からは、日々、職人顔負けの精巧な瓦や、濁りのない極上の絞り油が江戸の市場へと出荷されていた。人足たちの目は死んだ罪人のそれから、己の腕で稼ぐ職人の輝きへと変貌を遂げつつあった。


しかし、現場の成功が大きくなればなるほど、古い秩序に生きる者たちの反発もまた、その影を濃くしていく。


寛政二年(1790年)初夏。

宣以は、役宅の執室で一枚の通達を睨みつけていた。勘政所から下された、寄場への予算執行を凍結するという非情な文面であった。


「頭、お上の仕打ち、あまりに不条理にございます!」


酒井祐助が、怒りのあまり畳を拳で叩いた。


「定信様の進める倹約令の煽りを受け、寄場の維持費はおろか、人足たちへの給金の積み立て分までが『無用の出費』として差し押さえられました。このままでは、来月の飯米すら買えませぬ!」



「慌てるな、酒井。想定の内だ」


宣以は懐から真鍮の時計を取り出し、その精緻な歯車の噛み合いを見つめた。


「お上にとっては、制度の美しさや建前がすべて。現場の人間がどれほど汗を流そうとも、帳簿の帳尻が合わねば無駄と断じる。彼らの頭にあるのは、出費を削るという引き算の論理だけだ」


「しかし、このままでは人足たちの不満が爆発いたします。ようやく掴みかけた人の理が、また泥に逆戻りしてしまいます!」


「だから言ったろう。お上の財布をあてにする構造は脆い、とな」


宣以は立ち上がり、壁に掛けられた江戸全体の縮尺図へと歩み寄った。


「予算が来ないならば、こちらの仕組みをさらに一段、進化させるまでだ」


宣以が考えていたのは、お上からの一方的な配給に頼るのではなく、民間経済の活力を直接寄場の燃料として取り込む自主経営の拡大であった。


「粂八、江戸中の大店の荷受問屋や、土木を請け負う町代たちを集めろ。彼らに、寄場の人足たちの労働力を実質的な傭兵として貸し出す交渉を行う」


「……労働力の、貸し出しにございますか?」


粂八が目を見開く。



「そうだ。今、江戸の街は定信公の倹約令で冷え込んでいるが、大火のあとの復興や、隅田川の浚渫しゅんせつといった都市の基盤整備は、片時も止めることはできん。だが、町場の人足は人手不足で手間賃が高騰している。そこに、我が寄場の人足たちを割安な価格で、かつ組織的に投入する。民間にとっては安価で確実な労働力の確保となり、寄場にとっては予算に代わる巨大な独自財源となる」


これこそが、宣以の描く実証主義的な経済循環であった。お上の許可を待つのではなく、社会が必要としている需要と、寄場が抱える供給を、生々しい利害の論理で直結させる。


その夜、浅草の密かな料亭で、宣以は江戸の経済を裏で動かす大商人たちと対峙した。部屋の中心には、宣以が自ら弾く黒い算盤が置かれていた。


「長谷川様、お上の目を盗んでそのような大掛かりな商い、勘定所が黙っておりますまい」


米問屋の主人が、探るような目で宣以を見る。


「黙らせるのではない。文句の付けようのない利益の数字を突きつけるのだ」


宣以は黒い算盤の珠を、パチパチと冷徹な音を立てて弾いた。


「この計画が回れば、幕府は一文の予算も使わずに、江戸の主要な河川の土手改修を完了できる。勘定所の役人どもは、机の上で数字が減らないどころか、勝手に基盤が整っていく様を見て、泣いて喜ぶ。お前たち民間も、役所を通さぬ迅速な人手によって、工期を半分に短縮できる。……三者すべてに実利がある。断る理由がどこにある」


商人たちは、宣以の淀みのない論理と、目の前に提示された緻密な収支計算書に、ただ圧倒されるしかなかった。この男は火付盗賊改という武官でありながら、江戸で最も優れた理財の天才でもあった。


「……承知いたしました。長谷川様のその算盤、乗りましょう」


交渉は妥結した。お上が仕掛けた予算凍結という絶対的な制約は、宣以の現場の知恵によって、むしろ寄場の独立を促す新たな構造転換の契機へと変貌したのだ。

翌朝、石川島の大門から、隊列を組んだ人足たちが、誇らしげに江戸の町へと働きに出ていく姿があった。それを見送る宣以の懐中の時計が確かな時を刻み続けていた。


(第八章に続く)

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