第6話 『不孵化』
『鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない』
―ヘルマン・ヘッセ『デミアン』より
―だがもし、世界を破壊することを拒む者がいたとしたら?
胎の内側が、あまりにも心地よく思えてしまったなら?
外界は苛烈で、生の始まりがすなわち死への一歩だと悟っていたなら?
その者は殻を破ることを拒み、理想郷の胎内で永遠の安寧を選ぶだろう。
谷の最奥、誰も近づかぬ沈黙の空間。
そこにひとつの異形が、時を忘れたように漂っている。
それは未完成の神のようだった。
青白く濁った羊水のような液体に浮かび、全身を薄膜で包まれたその存在は、まだ個と呼ぶには曖昧で。
その外側を覆うのは、木とも肉ともつかぬ有機の装飾。絡まり合い、祈るように、護るように。
空中に浮かび続けるそれは、まるで母胎に隠された禁忌のようだった。
まるで時が止まったかのように、内側から伝わるのは微かな振動だけ。
だが、その震えに命の兆しはない。羊水のような液体は動かず、空間全体が重く、息をひそめたように沈黙している。
『ジャガモース』――それは、生を否定する、絶望の胎。
卵はただの閉じ込められた世界ではない。それは意志を持ち、固く閉ざされた『不孵化』の世界だ。
生まれようとしない者。その存在が示すものは否定と抑圧。
卵の中で育ち続けることで、何もかもを拒絶し、外の世界との接触を断絶する。
その強固な意志は、周囲のものすべてを敵とし、無視し、そして消し去る。
「この膜を破ることは、地獄への片道切符だ。ならば私は――この静寂の中で永遠を生きる」
まだ、全てを拒む彼を――いつか殺す者が現れるのだろうか。




