完結まで秘密
パソコンのキーを打ちこむ音と本を開く音。それが、我が家の書斎では当たり前の生活音となっていた。
夫は名が通った推理小説家だ。第一線で活躍し続ける夫は、直木賞候補作に選ばれてもおかしくない作品を生み出し続けている。
私はアマチュア作家で実績は選考通過のみ。現在は新人賞の大賞を目標に活動中だ。
執筆に懸ける熱意と努力に感銘を受けて、私は夫の背中を追い続けてきた。
文芸部にいた時から、その想いはずっと途切れることはなかった。
学生時代に、選考通過してもニコリともしなかった彼。
「素直に喜べばいいのに」と、私が言うと、「選考通過は、大賞への通過点のだけだろ」と、学生らしからぬ冷静な口調で返された。
その頃から、常に上を見ている人だった。妥協しない。自惚れない。
そんな彼に惹かれて、私から告白した。
「同じ道を志しているから、気が合うのかもな。なによりも俺は、俺の生き方を認めてくれている君と一緒にいると楽しい」
そんな気持ちが奥底にあることなど微塵も見せていなかった彼。その返事があまりにも意外で、次の日、投稿前の作品を読ませてもらった時には有頂天状態だった。
自分もこんな作品を生み出したい。いつかは追いつけるはず。そう考えて頑張ってきたけれど、何年費やしても追いつけないほど、彼の背中は遠くにあった。
本当にうまくなった時、優れた者との差を痛感すると聞いたことがある。皮肉にも、彼との関係が夫となり、更に近づき過ぎたことで、私は頂点を知ってしまったのだ。
それでも私は諦めるつもりはなかった。小説が好きだから。夫に認めてほしいから。
けれど脱稿した時には、夫に添削してもらうのが習慣になっていた。
これではプロを目指す小説家としては失格だ。半人前ではなく、一人前にならなければ自力で入賞したと胸を張ることができない。なによりも、頂点を目指す夫の創作の邪魔をするわけにはいかない。
それに今回の作品は自信作であり、夫の力を借りたくない理由もあった。
脱稿した日、書斎で煙草を吸わない夫は外で一服した後、私に話しかけてきた。
「もう、俺の助けは必要ないんだろうな」
庇護下から離れた子を見る親のような、嬉しそうでもあり寂しそうな表情だった。
「読んでもらわない理由はそうじゃないの。もちろん、作家として独り立ちはしたいけど。あなたの評論は勉強になるし、尊敬もしているから」
「尊敬か。もっと凄い作家もいるよ」
夫は何度も挫折を味わってきたはずだ。次こそは候補作に。そう言って、狂ったようにキーを叩く姿も見てきている。
私が添削を断ったために、自信を損失させてしまったのかもしれない。
煙草の紫煙と残り香を追って近づくと、使い古した万年筆を持った夫の肩に手を置いた。
「ねえ、作品が入賞したら読んでほしいの」
「入賞したらって、すごい自信だな。言われなくても読むよ」
脱稿した作品をプリントアウトする。いつもは印刷した原稿を夫に添削してもらっていたのだが、そのまま応募封筒の中に入れた。封を閉じる前に願掛け代わりに声を入れる。
「入賞決定」と。封を閉じると夫が笑った。
「それ、いつもやっているのか?」
「変かな。はじめてやった時に最終選考まで残ったから」
「いや、君らしいよ。気持ちを封入するところがさ」
吉凶方位を調べてどの方角の郵便局にいくか決めたら、それも夫に笑われた。
ギリギリまで推敲したので速達郵便だ。
結果は二か月後。最後の願掛けとして帰りに神社に寄った。
私の作品は一次、二次と順調に残り続けた。夫は途中経過を知りたがったが隠した。タイトル名も見せたくなかったのだ。
落選したら筆を折ってしまうかもしれない。自信作だけにそう感じる。
今日の夕食はなんにしよう。まな板を前にした時、電話がなった。見たこともない番号だった。
「おめでとうございます。作品名『筆と魂』大賞です」
作品の主人公は新人作家、夫はプロ作家。お互い支えながら夢をつかむ作品だ。夫が受賞してこの物語は終わる。
私の夫なら、読んで笑ってくれるはず。
「自伝か? 直木賞受賞だって? 随分と俺のハードルをあげたな」と。
臨時収入となった賞金で、夫の執筆の助けになるものを考えた。
そういえば、あの万年筆、文芸部の頃から使っていたっけ。同じ種類の新品の万年筆がいいかもなと思った。




