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茜色の空の下で

 薄闇が覆い始めた中学校のグラウンド。校門前の先生に追い立てられるようにして部活帰りの中学生たちは校門をくぐっていく。校門前で仲間を待とうとする女子生徒たちは「邪魔だ」と生徒指導の教師から叱咤を受け、恨み辛みを吐き出しながら渋々帰路につく。


 花の芽息吹く春。今年は気候も平年並みで、四月頭に控えている入学式を待って桜の花が咲いてくれるだろう。例年暖かすぎるため桜の花はあっという間に咲いてあっという間に散るため、新一年生の入学式の頃にはすっかり花が落ちて葉桜状態になるのがオチだったのだが。


「凛ちゃーん!」

 職員室の窓から校庭の桜を眺めていた凛の背後から声が掛かる。そして、彼女が振り向くより早く背中に飛び付いてくる柔らかい物体。


「ねえねえ、もう一年生の名簿チェックした? した? まだ?」

「まだだから……ちょっと離れてくれないかな、真希さんや」

「えー」


 凛ちゃんの背中、くっつくと気持ちいいのにー、と愚痴りつつ彼女は大人しく引き下がり、凛の隣の空いた椅子にどっかり腰を下ろした。凛と違って豊満な体を持つ彼女は脚もムチムチで、椅子の上で足を組めば男子生徒が興奮しかねない見事な脚肉を披露してくれるのだ。


「……真希さん、脚は閉じること。二年男子が真希さんの脚に釘付けになっちゃうって、何度も言ってるでしょう」

「えー、でもー」

「返事ははい、かイエス」

「……いえーす」


 凛ちゃんが冷たいよー、と人に机に突っ伏してわんわん嘘泣きする若い教師はほっといて、凛は先ほど配られた新一年生の名簿を手に取る。うっかりその上に教科書を載せたため、危うく見落とすところだった。心の中で真希に感謝しつつ、凛は名簿を繰った。


「……また、珍しい名前がいっぱいね。あ、これ読み仮名振ってないじゃない」

「そうなのよー、だからあたしも困っちゃって」

「……怠惰な校長だな」


 チッと今はここにいない校長に向かって舌打ちし、机の引き出しから使い古したオレンジ色のシャープペンシルを出して生徒たちの名前に読み仮名を振る。


「真希さん、先に名簿チェックしたんでしょう。いくつか分からないのがあるから教えてよ」

「イエス。教師歴十二年の凛ちゃんに分からない字もあるのかしらぁ?」

「それとこれとは話は別……真希さん、これは?」

「んん? ……ああ、これは『けいと』ちゃんに『りおん』君に『まいり』ちゃんね」

「ふむふむ……で、これは?」

「……それは『かい』君としか読めないんじゃない?」

「いや、前の学校では同じ字で『ぶるう』君がいたから。念のため聞いてみたのよ」

「そうかそうか……で、次は?」

「そうね……これは?」

「んー?」


 真希は(他人の)机の一番下の引き出しから菓子袋を出し、海苔巻きせんべいをぼりぼりむさぼりつつ身を乗り出す。凛は海苔巻きせんべいは海苔を剥がして別々に食べる派だが、真希は小さな口いっぱいに銜えて凛の示す名前を覗き込んだ。


「あー、それは『ある』君ね」

「アル君?」

「そ。最近多いよね」

「……ふーん」


 凛はその漢字をじっと見つめ、そしてその上部空白に「ある」と書き入れた。

「じゃ、次ね。よろしく、真希さん。それと、人の物は勝手に食べないこと。また伊藤先生にしばかれたいの?」

「えー」

「返事はいいえ、かノーよ」

「……ノー……」



 名簿チェックも終わり、日直の凛は鍵束片手に職員室を出た。本当なら今週の鍵閉め当番は凛ともう一人、凛より一回り年上の女性教諭がいるのだが、あいにく彼女は小学生の娘が発熱のため早めに帰宅した。そういうこともあるだろう、と凛は気にすることなく一人、いつもより多い鍵を掴んで学校中を歩き回ることになった。


 一応、最後に教室を出る生徒が鍵を閉め、職員室に鍵を返しに来ることになっているのだが意外と抜け目は多い。教室の窓が全開だったり、後ろのドアが解錠していたり、ドアに鍵がぶっ刺さったままだったり。何しろセキュリティが厳しい今日この頃、何度確認しても足りないくらいなのだ。


 じゃらじゃら鳴る鍵を順に繰りながら教室の鍵を開け、中を点検し、そしてまた施錠する。その際に廊下の窓の施錠も確認するのだが。


「……ん?」

 南校舎の東端の窓、掃除が疎かで蜘蛛の巣張り放題の鍵を閉めた凛は何気なく窓からグラウンドを見下ろし、施錠した形のまま右手を止めた。


 校庭に等間隔に立ち並ぶ桜の木。校門からグラウンドまで花道のように植えられた、まだ硬いつぼみの成る木の間にちらと覗いた、白い服。窓の鍵を開けて首を伸ばしてみれば、やはり、小柄な人間の姿が。他の窓からでは桜の木の影になって見えず、さらに職員室からも死角になる位置。不良生徒の溜まり場にもなっているそこに立つ子ども。


 まさか最終下校を過ぎても校内に残っている輩がいたのか、と凛は再び鍵を閉め、鍵束をスラックスのポケットに突っ込んで階段に向かった。


 二段飛ばしで階段を駆け下り、先ほど施錠したばかりの一階渡り廊下の鍵を開ける。

 件の人影は三階から見たときに思ったよりずっと小さく、しかも服装が中学校指定の制服ではない。その人物は桜の木に夢中になっているのか、派手な音を立てて凛が戸を開けても反応を返さなかった。


 凛はすうっと息を吸い、この十二年で鍛えた声で。

「そこの君!」


 さすがに凛の声が届いたのか、桜の下の子どもはぴくっと身を震わせ、背後から歩み寄ってくる凛を振り返り見た。


 暗く濁りかけた夕日を浴びて、子どもの黒髪が明るい茶色に染まる。子どもはきょとんと目を丸くし、自分の胸を指さす。


「君って……僕のこと?」

 まだ声変わりしていない、少年の声。少々癖の入った硬質な髪に、剥き卵のようにつるっとした顔。まだまだ幼いが、将来有望な美少年だ。


 凛は少年に歩み寄り、明らかに中学生の制服でない彼の衣服をじっくり、上から下まで眺める。

「……君、中学生じゃないね? どうしてここに?」

「うん。僕、小学六年……あ、じゃなかった。卒業したから、今は無職ね。もしくはニートかな?」


 にこっと愛想よく微笑んで、その容姿からかけ離れたことを言ってのける少年。凛の頬がぴくっと引きつるが、少年は気にしたそぶりもなく、凛の顔をしげしげと見つめる。


「お姉さん、ここの先生?」

「は、はあ……もうお姉さんって歳じゃないけれど、そうよ。今、君みたいな不審者がいないか見回っているところだったの」

「あは、不審者だなんて酷いな、先生。僕泣いちゃうよ」


 口では言いつつ全く困ったそぶりすら見せない少年。

「僕、木を見ていたんだよ」

「木? 桜の木のこと?」

「そう」


 少年は一歩後退して凛に並び、小さな背を伸ばして頭上の桜の木を見上げた。ついつられて、凛も木を見上げる。


「きれいだよね、桜の木って。ほら、空の色と混じって、赤っぽい色しているよ」

 今の空の色は夕暮れ時の濁ったオレンジ色。そろそろ東の空から星瞬く夜の空が迫りつつある。流れる雲もくすんだ灰色で、それらの光を浴びて桜の木も彩度を落とした暗い色に染まっている。


「……桜の木は昼間見た方がきれいだと思うけれど」

「そう? だって僕はこの空の色が好きだから」

「そうなの? 変わってるわね」

「うん、よく言われてるよ」


 これまた全く気にしたそぶりもなく、少年はじっと、どこか寂しげな眼差しで桜の木々を見つめた。十二歳の少年らしくもない、哀愁に満ちた悲しい瞳。凛はちらちら腕時計を見ながら少年を見守り、時計の長針が「十二」の文字盤を示したところで顔を上げた。


「さあ、桜の木も見たことだし、帰りなさい。お家の人はどこ?」

「え? いないよ、僕一人で来たんだ」

「一人でって……どうやって校門をくぐったの? 最終下校から門は閉めているんだけど……」

「えっとね、その最終下校よりずっと前からいたんだよ。この場所にいたら誰も気付かないし、暗くなるまでぼーっとしてたんだ」


 学校のセキュリティ、穴だらけ。近いうちに校長に進言しておこう、と凛は心の中で決め、少年の手を取った。

「なら、すぐに帰るわよ」

「えー、もっと見ていたいんだけど」

「君、もうすぐここに入学するんでしょう? そうしたらちゃんと花が咲いたのをいくらでも見れるんだから」

「先生も一緒に見てくれる?」


 少年の声に、凛は彼の手を引いたまま振り返る。じっと、凛の心の奥まで覗き込むような少年の目。なぜか懐かしいと思える、その眼差し。


「……そうね。時間と周りが許せば付き合ってもいいわ」

「周り? 周りって誰? 先生のカレシ?」

「……校長先生その他のことです。さあ、帰る帰る! ほら、駆け足!」

「え、え……もー、急がないでよー」



 きっちり閉められた校門のかんぬきを外し、人一人通れるだけ重い鉄の門を開く。

「もう暗くなっちゃったわ。小学生はお家に帰る時間よ」

「だから僕はニートですぅ」

「じゃあ訂正。十二歳未成年の少年はすぐさま帰宅すること」

「……イエス」


 凛の眉が微かに跳ね上がる。だが少年はあっさり門をくぐって校門前できょろきょろと道路を見回したので、すぐ声を張り上げた。


「車には気を付けること! それと、今日のことをきちんとお家の人に伝えておくこと! いいわね!」

「はいはーい!」

「はいは一回でいいの!」

「はーい!」


 小生意気に返す少年だが、不思議と悪い気はしない。それどころか、無邪気に微笑む少年を見つめていると胸の奥がぽっと暖かく染まっていった。


 ふと、少年が振り返る。さっさと帰れ、と声を張り上げようとした凛だが、突如投げかけられた言葉に思わず閉口する。


「お姉さん、何て名前?」

「……は?」

「あ、名前ってのは名字の方。何て言うの?」


 何言っているんだこいつ、と思ったのは一瞬のこと。もうすぐ入学してくる小学生が中学校の先生の名前を気にするのは当然……なのだろう、多分。


「平河。あと、お姉さんはやめてよ。これでも一応、旦那持ちの主婦だから」

 最後の一言はついでで付け加えておいた。少年は目を丸くし、ほんの数秒驚いたように言葉を失い、そしてすぐに元の柔らかい笑顔に戻った。


「……分かった。ありがとう、平河先生。入学式で会おうね!」

「はーい、了解」


 少年はブンブンと大きく手を振り、惜しみなく笑顔を振りまいてくる。凛も苦笑して片手を上る。


 あの子、どこのクラスになるんだろう。そうぼんやり考えながら、凛は少年に背を向けた。



 少年は校舎へ入っていく女性の背中をじっと目で追い、その長いポニーテールが廊下の角へ消えてから、そっと寂しげに微笑んだ。


「……また会えたね……凛、先生……」


 くすんだオレンジ色の空だけが、少年を静かに見下ろしていた。

これにて完結です。

約二ヶ月間、ありがとうございました。

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