私の教え子へ
ある日の昼下がり。凛はアルに連れられて魔王城を出た。
「リンに見せたいものがあるんだ」
今日のために準備したんだよ、とほくほくの笑顔で言うアル。凛はやけに楽しそうなアルを見上げ、首を傾げた。
「準備?」
「そう……ほら、見えてきた!」
アルの隣に立って、石ばかりが目立つ小さな丘を登る。丘の頂上に立った凛は思わず、足を止めた。
五百年前は荒涼とした荒れ地のみが延々と広がり、灰色の石が露出した物寂しい風景だったこの高原。人間との抗争が続いていた頃は連日、魔族の死体が転がっていたという血にまみれた大地。
そこが、一面の花で埋め尽くされていた。
丘を越える前から何となく鼻をくすぐっていた、甘い香りは花の香だったのだ。赤や白、薄い青や紫色。本来の魔界には存在しない鮮やかな花で埋め尽くされた大地を、凛は言葉もなく呆然と見つめていた。
「……アル、これは……」
「……うん。リンがいなくなってから頑張ってきたんだ」
アルの手が凛の手を取る。魔族の鋭い爪で凛の柔肌を傷つけないよう、そっと包み込むように手を握る。そのまま手を引かれ、凛はまろぶように丘を下っていった。
「……この大地は花を育てるには向かなかったみたいだね。でも、何百年も耕して、時にはニンゲン界からヒリョウってものをもらって、ちょっとずつ広げていったんだよ」
ほら、とアルは誇らしげに大地いっぱいの花畑を両腕で示す。
「さすがにサクラは無理だけど……ねぇ、リンのいるチキュウもこんな感じだった?」
言われて凛はようやく気付いた。アルは、アルたちは凛が語った地球の野原を再現しようと、大地を耕し、花を植え、枯れた魔界に花園を作り上げたのだ。
微かな風を受けてそよそよと揺れる小さな花。魔族の血も、人間の憎しみも、全て奪い去ってしまうような優しい、愛らしい花たち。魔界を懸命に生きる、小さな命たち。
「ほらこれ、最近発見された新種の花なんだ」
そう言ってその場にしゃがむアル。すぐに彼は立ちあがり、今し方手折ったばかりの小さな薄紫色の花を凛に見せた。すみれに似ているが、花びらは細長く、外向きに反り返っている。葉はタンポポのようにギザギザしているので、確かに地球でも見られない新種のようだ。
「へぇ……やっぱり地球でも見ない種類の花もあるんだね」
「うん。それでね」
アルは摘んだ花を凛の黒髪にかざし、満足げに微笑んだ。
「この花、まだ名前がないから……僕が代表して付けたんだよ」
「へえ、何て……」
「リン」
言葉途中で凛の声が吐息に変わり、アルはいたずらっ子のように無邪気に微笑む。
「びっくりした? これ、リンって名前にしたんだ」
「それって……私の名前から?」
「他に何なんだよ。もちろん、リンの名前から取ったんだよ」
アルはしばらく、手の中で手折ったリンの花をくるくると回していたがやがて照れたように笑い、頭を掻きながら凛に花を差し出した。
「……僕、思ってたんだ。魔界が平和になって、もし、もしリンが戻ってきたら……必ずこの花畑を見せてあげようって。僕は何百年だって生きるんだ。だから、いつでもリンが戻ってきたら……この魔界を見てもらいたかったんだ。もし、僕が死んでしまっても……この花畑はずっと、絶やさない。もっともっと時が経ったら……魔界中をこの花畑で埋め尽くすよ」
だから、とアルは腕を伸ばしてリンの花を凛に向ける。
「……これ、あげる。リンの花だから、ね」
リンの花を、凛に。魔界に生まれた命を、魔界を救った者の手に。
「……うん、ありがとう」
凛は微笑み、右手を差し出した。アルはその手の平にリンの花を乗せ……。
ぽとり、と花が落下した。
「……え?」
「……あ、ごめん」
驚愕の眼差しを浮かべるアル。凛はけろっとした顔で謝り、腰をかがめて今し方取り落としたリンの花を手に取った。
そう、今のは凛が花を掴み損ねたのだ。
決して、落ちたのではない。
凛の手を花がすり抜けたように見えたのは……見間違いに、違いない。
凛は目線をさまよわせるアルを見上げ、何ごともなかったかのようにリンの茎を摘んでくるくると回した。
「どうしたの、アル。青い顔しちゃって」
「え? あ……いや……」
何か言いたげにアルの口がもごもご動き、だが結局は何も言えず、未練たらたらで口は閉ざされる。
確かめるのが怖かった。
口にするとそれが現実になりそうで。
「……ねえ、リン」
凛はリンの花をくるくる回すのを止め、きょとっとした眼差しで魔王様を見上げる。夕日を背にした魔王の顔は暗い影になってうまく見えないが、なぜか泣きそうな顔をしているように思われた。
「なぁに、アル」
「あの、さ。リンは……」
頭を掻き、夕日以外の理由で頬を染めてアルは出だしの言葉を模索するのだが。
再び、リンの花が落下した。
しっかり両手で握っているはずなのに、リンはするりと凛の手から滑り落ち、重力に逆らうことなく再び、短い芝生の上にほとりと落ちる。
凛はまっすぐな眼差しのまま、自分の手をすり抜けていったリンの花を見つめ、アルは口を開いたまま、信じられないものを見た目で花を見、凛へと視線を戻し……。
そして思わず、開きっぱなしの口から悲鳴を上げた。
「リン、リン! どういうことだ!?」
「え?」
ぽかんとして自分を見上げてくる凛。なぜか彼女の輪郭が夕日を浴びて歪み、そして背後のリンの花畑がうっすらと透けて見えたのだ。だが、それは幻でも見間違いでもない。
凛は驚きおののくアルを見、そして足元の芝生が半分透けている自分の脚を見、「ああ」と掠れた声を上げる。
「そういうこと……だったのね」
「な、に……どういう、ことだ……!」
思わず凛に掴みかかろうと両腕を前に突き出したアル。だが。
彼女の肩に置かれたはずの両手はすうっと空を掻き、その拍子で前につんのめったアルの上半身も凛の体を通り抜けた。
自分の体が凛に突き刺さる形になり、ぎょっとして身を起こしたアルだが、一方の凛はどこか達観した表情でしげしげと自分の体を見つめ、足元に横たわるリンの花を見下ろし、ふっと頬を緩めた。
「そっか……そろそろ、帰る時間なんだ」
「な、なんで……?」
揺らぐ凛の輪郭。目の前で起こることが信じられず、悲鳴に近い声を上げながら凛の体を掴もうとするアル。だがアルの腕は温かい人間の体を抱きしめることも、白いシャツのごわごわした感触を肌に感じることもできず、虚しく何度も、何度も宙を掻いた。
「どうして、なん、で……」
「アル……」
「違う! そんなはずは……!」
「もういいよ、アル……」
「俺がよくない!」
アルの怒声が大地を震わせる。だが、いつもならびりびりと声を肌に感じる凛も、今は何も感じない。何も、感じない。
「なんで……リンを召喚したのは俺だ! 俺は、まだリンに……」
「言ったじゃない、アル。私はすべきことがあるからここに戻って来れたんだって」
アルとは対照的に落ち着き払って諭す凛。まるで「明日の天気は晴れね」と言わんばかりの口調で。まあまあ、と両手を怒るアルの肩にかざしながら。
「私がこの世界ですべきことは、もう終わったのよ。現に、私はアルに召喚されなくても、自力でこっちに戻って来れた。用が済んだら帰るってのは常識じゃない?」
セバスの持論が正しいのなら、きっと今、どこぞで精神の帰りを待っている凛の肉体が帰宅を促しているのだろう。もうおまえの用は済んだだろう、早く帰れ、地球に帰る時間だ、と。
「……ねえ、アル」
既に陽炎のように頼りなくなった自分の腕を伸ばし、目の前で跪いて涙に暮れる魔王の肩にそっと、手をかざす。
「先生はね、生徒が無事に旅立つのが一番の喜びなの。私の力がなくても自分の力でどこまでも飛んでいく……その姿を見て、ああ、先生やってよかったって思えるのよ、きっと」
「リン……? 何を……」
ふわっと風が舞い、魔王の髪を靡かせる。魔王の髪だけを、靡かせる。
「アル、私を安心させて。もう自分の足で歩けるんだから……安心して、私を帰らせて。笑って、私を見送ってほしいの」
もう、凛が手を引かなくても。早く行けと、叱咤しなくても。アルはきちんと歩いていける。大切な仲間を率いる王になれる。
アルはぱちくり瞬きし、ぐしっと目元を擦ると涙にまみれた顔を引きつらせ、精一杯の笑顔を取り繕った。
「ぼ、僕が笑って、リンを見送ると……リン、嬉しい?」
「ええ、嬉しいわ」
「わ、分かった……じゃあ、泣かないよ。ちゃんと、リンを見送るよ」
アルは振動の収まらない腹部に手をかざし、輪郭の不明瞭になってきた凛にほほえみかけた。
「ありが、とう……リン、先生……」
オレンジ色の夕日が力を増す。凛のおぼろげな体が光を浴びて霞のように歪み、その口元が笑顔を浮かべた。
「さようなら……私の大切な生徒……」
一陣の風が、舞う。太陽が斜行し、アルはまぶしさに一瞬、目を細めた。
次に目を開けると、そこには夕焼け色に染まるリンの花畑が広がっていた。花畑のみが、広がっていた。
膝ががくんと折れ、魔王は再びその場に崩れ落ちる。もう、笑顔を取り繕うことはできない。取り繕う必要も、ない。泣くな、と叱咤してくる声も、ない。
柔らかい土を握りしめ、長い爪痕を大地に食い込ませる。柔らかい土が爪の間に入り込むのも厭わず、大地をかきむしり、掘り返した土を拳で殴り、泥の中に頭を突っ込む。持ち主の手に渡ることのなかったリンの花が微かに揺れ、アルは何度も、何度も咆哮する。
オレンジ色の空を、魔王の咆哮が響き渡った。
獣のように吠える美貌の魔王を、リンの花畑が静かに見守っていた。
都会の喧噪。それぞれの職場へと急ぐ車の群れ。
凛はひとつ瞬きし、自分の足元に横たわる愛車を見下ろし、ボタンを押されるのを待っている点滅信号を見、そして交差点を駆け抜ける車を見やった。
いつの間にか交差点は大渋滞で、信号連鎖のスパイラルに引っかかった車たちはサラリーマンを乗せ、いらいらと青信号が灯るのを待っている。
腕時計を見下ろすと、既に時刻は通勤ラッシュアワー。ついさっきまで、人気のない交差点に一人、信号待ちしていたはずだ。そして、何となく電光掲示板を見、頭が痛くなって……。
「……あれ? 凛ちゃんじゃない」
ちりんちりんと鳴らされる自転車のベル。ぼうっとする凛の隣で停車し、凛の代わりに押しボタンを押すのは教育実習生の仲間の女子。
「おは。どうしたのよ、明日は早く行くんだ! って昨夜言ってたじゃない」
「おはよ……うん、そのつもりだったんだけど」
この体育実習生の女子より三十分ほど早めに学校に着く予定だったのだが、学校前の信号で足並み揃ってしまった。おまけに自分の自転車は横倒しに投げ出され、荷物も半分前カゴから飛び出ている。
女子は自転車を起こすことなくぼけっと自分の腕時計を見つめる凛をしげしげと眺め、ボブヘアーを揺らして首を傾げる。
「……どうしたの? 自転車起こさないの?」
「……あ、そうだね」
ようやく愛車の存在を思い出し、凛は腰をかがめて自転車のハンドルを握って引き起こした。少しボディが曲がった気がするが、走れなくはないだろう。引き上げた拍子にアスファルトに落下したトートバッグも拾い、前カゴに放り入れる。
「……少し、疲れてるかも」
「大丈夫? 今週で実習終わるんだから、気張っていかないと! というか、時間間に合うの?」
「えと……多分」
「なら、ほら! 信号変わったよ!」
今回は「あたり」だった。向かって左側の車用信号が青から黄色に移り、そして赤色を点す。
凛は彼女に促されるまま自転車に跨り……少し変形した前カゴを膝で蹴って直し……前方の信号が緑色に変わったのを確かめてペダルを踏んだ。
隣を走る女子実習生は意味なく自転車の変速をカチカチ鳴らせながら、意気揚々を声を張り上げた。
「さあ、残り三日! 頑張るよ、凛先生!」
「うん」
凛は素直に頷き、彼女と並んで交差点を越えた先の十字路を右折した。
凛先生、なんて少し恥ずかしい呼び名だな、と思いながら。




