第9話 断頭台の夢と朝風呂
水滴が、一つ落ちた。
そして、もう一つ。
ろくに断熱もされていない石灰岩の天井。その亀裂から、水がぽたぽたと滴り落ちていた。
俺は、すぐそばにできた水たまりへ目を向けた。
乾ききった唇を嘲笑うかのように、今の俺が何より必要としているものが、目の前へ落ち続けている。
……水だ。
少しでも口に含めないものかと、身体の位置を変えようとした。
鎖が、じゃらりと鳴る。
だが、努力は無駄に終わった。
それどころか、手首にはめられた枷が、傷だらけの肉へさらに深く食い込んだ。
右の眉の上には、大きな裂傷がある。
そこから滲み出した血が、顔の横を伝い、シャツの襟へ流れ落ちていた。
骨も、心も、すっかり折られてしまった。
俺は今、レッド城の地下牢で、壁に鎖で繋がれたまま立たされている。
天井から響く、気が狂いそうになるほど単調な水音。
ほかの囚人たちが上げる、苦痛に満ちたうめき声。
そんなものを聞いていても、俺の目には、もう何の感情も浮かばなかった。
俺をこんな目に遭わせた奴らの企みを、少しでも理解できたらよかったのに。
あの忌々しい短剣泥棒も含めて、一体どこから仕組まれていたのだろうか。
ただ、一つだけはわかっていた。
……嵌められたんだ。
誰かが俺を陥れようとしていた。
そして、そいつは見事に成功した。
『公開処刑は三日後だ。それまでは、せいぜい死なないようにすることだな、ドブネズミ。お前のような奴には、そんな楽な最期すらもったいない……』
記憶が渦巻く中、グリムウィック隊長の冷たい声が、何度も頭の中で繰り返された。
奴らは、俺がとんでもないことをしでかしたと確信しているらしかった。
それも、俺一人の問題では済まされないほどの、大罪を。
本当にそう信じているのかもしれない。
だが、どちらにせよ、俺の立場は最悪だった。
……もう、どうでもいいか。
俺が何をしたか。
何をしていないか。
そんなことは、今さら関係ない。
俺の運命は、もう決まってしまったのだから。
俺は歯を食いしばった。
目尻に、わずかな湿り気が滲む。
しかし、身体の水分が足りていないせいか、涙にすらならなかった。
たった一度でよかった。
この忌々しい世界にも、自分の居場所があるのだと思いたかった。
だが、この世界は何かあるたびに、俺が耐えられる限界を少しずつ超えてくる。
そして、とうとう何も残らなくなった。
本当に、何一つ。
もう奪えるものがなくなったから、今度は俺の命を取り立てることにしたらしい。
何とかしようにも、俺には抗う力すら残されていなかった。
……何より、あの子を守ることができなかった。
「……ついて、ねえな……」
思えば、今朝はあんなに気分よく始まったのにな……
……
同じ日の朝――
脱衣所で服をきちんと畳み、脇へ置いた。
浴場へ足を踏み入れた途端、立ち込める湯気と、嗅ぎ慣れない石鹸の香りが全身を包み込んだ。
まだ、ほとんどの人が一日の仕事を始める前の早朝だ。
久しぶりに、誰にも邪魔されない時間を楽しんでいた。
昨夜、ミルトンの書簡をグリムウィック隊長へ届けた報酬として、ギルドから現地通貨のダーンを少しばかり受け取った。
それだけではない。
ギルドマスターは、近くの浴場で使える無料入浴券までくれたのだ。
今の俺にとっては、金貨以上の価値がある代物だった。
チラシのような券を、どうしても受け取れと言わんばかりに手へ押し込んできたミルトンの姿が、思い出される。
『さあさあ、遠慮せずに使っておくれ、レン君! 日頃の働きに対する、ささやかな特別報酬だと思ってくれればいいよ』
……実際のところ、俺の衛生状態について、ほかのギルド員から苦情でも届いたのかもしれない。
まあ、そこまで勘繰るつもりはないけどな。
金に困っている冒険者なんて、俺だけじゃないはずだ。
ギルド員になったからには、依頼や雑用をこなして生活費を稼ぐことになる。
そういう収入は、ある日突然途絶えることもあるのだから。
ともあれ、理由なんてどうでもよかった。
覚えている限りでは、初めてと言ってもいいほど、ゆっくりくつろぐことができたのだから。
ありがたいことに、この世界にも、それなりの屋内給排水設備が存在していた。
何でも、水の魔法結晶がどうとかいう仕組みらしい。
詳しいことは知らないし、わざわざ聞こうとも思わなかったが。
俺は、シャワーで身体を流し、石鹸を使って汚れを落としてから、湯船へ向かった。
湯へ身体を沈めると、温かな水が白い肌を包み込んだ。
「うぅぅ……」
思わず、年寄りみたいな声が漏れた。
胸板や腕には、無数の傷痕が残っている。
数え切れないほどの喧嘩や苦難を乗り越え、それでも生き残ってきた証だった。
だが、湯に浸かった途端、筋肉に溜まっていた緊張が一気にほどけていく。
「……これだよ、これ」
毎朝こんなふうに一日を始められたら、いつか悩みだって全部、溶けてなくなるんじゃないか。
そんな気さえしてきた。
まあ、いい風呂に入れば、誰だって少しくらい理想主義者になるものだろう。
そのときは、本気でそう思っていた。
妙なことに、男湯には俺以外にも客がいたらしい。
俺が入って間もなく、青い髪をした、背の高い筋骨隆々の青年が出ていこうとしていた。
とにかく、ものすごい筋肉だ。
自分ではそれなりに鍛えているつもりだったが、あいつと比べたら、俺なんてひょろひょろに見えてしまう。
出ていく途中で、ふと目が合った。
青年は、白い歯を見せて笑い、丁寧に会釈してきた。
深紅の瞳まで、一緒に笑っているようだった。
俺の姿を見て、そんな反応をする奴は珍しい。
……ん?
青年は、ふと足を止めた。
「なあ、相棒?」
脱衣所へ出る寸前だった男が、突然話しかけてきた。
「コーヒー牛乳って、飲んだことあるか?」
「……相棒? え?」
思わず聞き返してしまった。
初対面の相手に、こんな気安く話しかけられること自体、慣れていなかったのだ。
「何で?」
「ああ、悪い悪い。ちょっと気になっただけだ。で、飲んだことは?」
俺は頷いた。
日本の銭湯では、おなじみの飲み物だったからな。
「好きか?」
少し考えた。
「ああ、嫌いじゃねえよ。まあ、飲み物なら大体何でもいいんだけどさ」
今の俺は、好き嫌いを言えるような稼ぎじゃない。
「ふむふむ、なるほどな」
青年は、何か満足のいく情報でも得られたかのように、もっともらしく頷いた。
……何だ、この会話。
どう考えても、妙な奴だった。
「ま、また会おうぜ、相棒。近いうちに、また顔を合わせる気がするんだ。それまで、首は大事にしとけよ。いいな?」
「首って、どういう――?」
意味を尋ねるより早く、青年はまた人懐っこい笑みを浮かべ、脱衣所の向こうへ消えていった。
それから、湯を出たときのことだった。
きちんと畳んでおいた俺の服。
その上に、ガラス瓶のコーヒー牛乳が一本、置かれていたのだ。
思わず、笑みがこぼれた。
「……ふん。変な奴だな。名前も教えずに行っちまいやがった」
俺は鼻で笑い、瓶の中身を一気に飲み干した。
そして、満足のいく息を吐いた。
「……でも、ありがとな、兄ちゃん。何だか、今日も頑張れそうだよ」
気持ちのいい風呂と、冷たい飲み物。
それだけで、ずいぶん元気が出てきた。
市場の臭いも、もう身体には残っていない。
俺は朝の混雑が始まる前に、いくつか用事を済ませようと、浴場をあとにした。




