第10話 宮殿地区へ
しばらくのあいだ、俺は街を歩き回って用事を片づけていた。
途中、やたらと自分たちの店のサービスを勧めてくる客引きに何度か絡まれたが、そのたびに追い払ってやった。
あいにく、今はそういうお楽しみを求めているわけじゃない。
昨日、農夫に渡した金を取り戻すには、もう少し働く必要があるだろう。
それでも、少なくとも良心は痛まない。
昨夜は散々だったが、ほんの少しだけ、足取りが軽くなった気がしていた。
レッドルークでの生活は、与えることと受け取ることの繰り返しだ。
仕事でも、個人的な頼まれ事でも同じ。
後先を考えずに自分の持っているものを差し出しすぎれば、いつか善い行いの報いが返ってくる前に、どこかで倒れてしまうだろう。
そう考えると、俺が心配しなきゃならないのは、自分一人だけなのが、せめてもの救いだった。
本当に苦しい思いをしているのは、この街で家族を養っている連中や、誰かに莫大な借金を背負わされている連中なのかもしれない。
俺も、そういう人たちを見たことがある。
商人たちが「借金奉公人」と呼んでいる人々だ。
守備隊がその苦境を見て見ぬふりしている、市民の一階層。
物乞い横丁には、そんな連中が大勢いた。
俺は、その考えを振り払うように首を振った。
気づけば、普段よりもずっと西へ歩いていたらしい。
宮殿地区の外れまで来ていた。
……だが、何かがおかしい。
奇妙な霧が立ち込め始めていた。
しかも、通りを行き交う人の姿が、目に見えて少なくなっている。
「――っ!?」
うめき声が聞こえたときには、すでに俺は仰向けに倒され、命がけで抵抗していた。
俺に襲いかかってきたのは、魔物だった。
……ゾンビだ。
奴は俺がまだ混乱しているうちに、その場で食らいつこうとしてきた。
唾液を垂らした口が、俺の首元へ迫る。
目は、生命の欠片も宿していない真っ白な色をしていた。
……何だよ、こいつ!?
俺は何とか抵抗しながら、煉瓦の壁際へ身体をずらした。
だが、腐りかけた痩せ細った身体のどこにそんな力があるのか、ゾンビは馬鹿みたいに強かった。
昨日、住宅地区でアンデッドが出現したという話は聞いている。
しかし、あそこは街の反対側だ。
……討ち漏らしでもいたのか?
真っ先に浮かんだのは、そんな考えだった。
「離せ……この腐れ野郎!」
骨ばった腕が、俺を地面へ押さえつけてくる。
痛みに顔を歪めながら、俺は必死に周囲を探した。
何でもいい。
形勢を逆転させられるものが欲しい。
だが、護身用のナイフは以前、守備隊に没収されたままだ。
今の俺は、丸腰だった。
……そのときだった。
まさに神の助けとでもいうべき幸運が訪れた。
背後の壁から緩んでいた煉瓦に、指がかかったのだ。
「こいつを食らえっ!!」
俺は煉瓦を引き抜き、渾身の力で振り抜いた。
「ウゥゥゥッ!!」
魔物が苦しげな声を上げ、俺を押さえる力が緩んだ。
その隙を逃さず、煉瓦でもう一度、ゾンビの頭を殴りつけた。
奴が怯んだところで、俺は身体を入れ替える。
今度は、俺が上だ。
膝で胸元を押さえつけ、頭へ何度も煉瓦を振り下ろした。
腐った血が顔へ飛び散る。
それでも、動かなくなるまで殴り続けた。
そして、ようやく……
奴は、完全に沈黙した。
……助かった。
荒い息を吐きながら、俺は立ち上がった。
手には、まだ煉瓦を握っている。
慌てて周囲を見回したが、ひとまず、ほかのゾンビは見当たらなかった。
もっとも、本当にいないのかどうかまでは、わからない。
俺は両手を腰に当て、考え込んだ。
どうして、よりによってこんな場所にアンデッドがいるんだ?
宮殿地区は、守備隊にとって最も重要な管轄区域のはずだ。
警備だって、厳重に敷かれているだろうに。
ここには、レッドルークの上流階級の中でも、特に裕福な人々が暮らしている。
俺とは縁のない連中ばかりだ。
だが、守備隊の考え方からすれば、ほかの地区よりも手厚く守られていて当然だろう。
……そこで、ふと気づいた。
昨日のアンデッド騒ぎが、結局どうなったのか。
ミルトンに尋ねたとき、あの人は妙なことを言っていた。
『……ええ、アンデッドはすべて片づけることができたよ、レン君。ただ、事件を起こした者が、気になる書き置きを残していてね。今日、住宅地区で再び行動を起こすと脅していたのだよ。何ともきな臭い話だが、君はどう思うかね?』
……どう思う、か。
そのときの俺は、肩をすくめただけだった。
しかし、その脅迫を受けて、守備隊は住宅地区に配置する兵力を十倍に増やしたらしい。
当然、ほかの地区の警備は手薄になる。
しかも、学院の外で炎のゴーレムが倒された場所にも、似たような書き置きが残されていたという。
そのため、北部地区にも追加の兵力が回されていたようだった。
『私かい? そうだねえ。陽動ではないかと思っているよ。それも、かなりわかりやすい類いのね。ただ、隊長殿は私の勘をあまり信用してくれなくてね……』
ミルトンは、そう言って苦笑していた。
『さて、彼の意地のために、いったい何人が苦しむことになるのやら。以前にも、彼の先見のなさが、大切な人々を危険に晒したことがあったような気がするのだが……。おっと、今のは私から聞かなかったことにしておくれ』
おそらく、王族のことを言っていたのだろう。
グリムウィックの元副隊長が、責任を押しつけられた件を考えても、そうとしか思えなかった。
あのあとミルトンは、何かおかしなことを見つけたら、すぐに報告するよう言っていた。
ギルドマスターは、誰よりも頭の切れる男だ。
あの人が何らかの陰謀を疑っているのなら、俺も同じ可能性を考えざるを得なかった。
だが、周囲には守備隊の姿がほとんどない。
このままでは、宮殿地区の住民が危険に晒されるかもしれない。
たとえ、城そのものが厳重に守られていたとしてもだ。
冒険者ギルドは、助けを呼びに走るには遠すぎる。
そして、非常に認めたくないことだが……
この状況で頼れそうな人物が、一人だけいた。
普段、レッド城の外にある持ち場から、ほとんど離れない男。
そう。
グリムウィック隊長本人だ。
「……ったく、面倒なことになったな」
最初からギルドマスターの話を聞いていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。
だが、今さら愚痴を言っても仕方がない。
この地区を守るために、部隊を編成してもらわなければ。
煉瓦一つと善意だけで、俺にできることなんて、たかが知れているのだから。
レッド城へ近づいたとき、嫌な予感は現実になった。
中央広場へ足を踏み入れると、ゾンビの一群が一斉に俺の存在へ気づいたのだ。
その多くは、この地区の住民が着ているような服を身につけていた。
そして、かつて同じ街で暮らしていたはずの人々を、食い荒らしていた。
生き残った者たちは、命からがら逃げ惑っている。
クソッ……遅かったか!
ゾンビどもが、突然こちらへ突進してきた。
戦う以外に、選択肢はなかった。
奴らの中には、以前、通りですれ違ったことのある顔まで混じっていた。
そんな相手を叩き潰すのは、気分のいいものじゃない。
だが、仕方がないだろう。
「……悪く思うなよ、みんな」
最初のゾンビが伸ばしてきた腕を、身をかがめてかわした。
太った貴族の死体――その成れの果てらしい。
俺は奴の脛を蹴りつけ、片膝をつかせた。
そして、頭へ煉瓦を叩き込む。
これで、一体。
だが、危険が去ったわけではなかった。
続けてもう一体を倒したものの、残りのゾンビが一気に押し寄せてきた。
数に押され、俺は後退を余儀なくされた。
背後には、レッド城の影が迫っている。
奴らも、そのまま追いかけてくると思った。
……ところが。
なぜか下りたままになっていた跳ね橋へ近づいた瞬間、ゾンビたちは足を止めたのだ。
小さな目で、じっと俺を見つめている。
そして、何事もなかったかのように背を向け、こちらへの興味を失ってしまった。
……何なんだ、こいつら?
ゾンビがどう動くものなのか、俺だって詳しく知っているわけじゃない。
それでも、さっきの反応は、一般的なイメージとはまるで違っていた。
まるで、決められた縄張りでもあるみたいじゃないか。
そこから外へは、決して出ようとしない。
……MMORPGに出てくる魔物みたいに。
「……境界線、か?」
霧も、ほとんど一瞬で晴れてしまった。
頭上には、雲に覆われた空と、その隙間から差し込む陽光が戻っていた。
だが、宮殿地区へ足を踏み入れたときから感じていた不気味さは、少しも消えない。
むしろ、レッド城へ近づくほど強くなっている気がした。
……今さら怖じ気づいてどうする。
ここまで危険を冒して来たんだろうが。
そう自分へ言い聞かせてはみたものの、正直、俺には荷が重すぎる状況だった。
いったい、何様のつもりなんだろうな、俺は。
……煉瓦の勇者様、とか?
そんなあだ名だけは、絶対に勘弁してほしい。
だが、ミルトンなら、ここで引き下がったりしないはずだ。
それに、俺だって今は、ちゃんとギルドの一員なんだ。
……だったら、それらしく振る舞わなきゃな。
俺は迷いを振り払い、跳ね橋を渡った。
普段なら、城の敷地内へ入ることなど許されない。
だが、今回は十分な理由がある。
危険は承知のうえで、進むことにした。
守備隊の詰所も、城の敷地へ入ってすぐの場所にある。
そこまでは、ほんのひと走りだった。
しかし……
兵舎の前まで来ても、誰にも呼び止められなかった。
妙だ。
いつもなら、あのクソ野郎どもに、とっくに手錠をかけられている頃だというのに。
俺は扉を強く叩き、何度も呼びかけた。
だが、扉には鍵がかかっている。
中から返事はなかった。
それどころか、城の敷地全体が、まるで放棄されたかのように静まり返っていた。
「……誰もいねえ。いったい、どうなってんだ……?」
俺は、つぶやいた。
「おーい! 誰かいるか!?」
返ってくるのは、自分の声の反響と、鳥の鳴き声ばかりだった。
頭上では、ハゲワシにも似た爬虫類のような生き物が、何匹も旋回している。
死の臭いに引き寄せられてきたのだろう。
そして、ようやく。
人の声らしきものが聞こえた。
……だが、それを聞いた途端、背筋に冷たいものが走った。
「きゃあああっ! 助けてえええっ!!」
甲高い悲鳴だった。
若い女性か、子供の声だろうか。
まだ午前中だというのに、その声は不気味なほどよく響いた。
どうやら、城の入口に近い場所から聞こえてきたらしい。
俺は、深く考えるより先に走り出していた。
今度こそ、手遅れになる前にたどり着きたい。
そう願いながら。
気づけば第10話。レンの物語は、まだまだこれからです。
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