第5話 消えたアシェン・ファング
周りにはいくらでも通れる場所があったのに、わざわざ俺の肩へぶつかってきやがった。
「……そういうことか」
俺は両手を腰に当てた。
「ふむ?」
「下で変な野郎にぶつかられたんだよ。黒い外套を着た奴でさ。たぶん、あのクソ野郎が短剣を盗んで逃げたんだと思う」
店を出ていくときに浮かべていた、あの笑み。
人を見下したような目つき。
俺は、ああいう顔を嫌というほど知っている。
飲み物をこぼさせたのも、きっと気を逸らすためだったのだろう。
似たような手口を使われたことは、これまでにもあった。
クソッ……!
俺は、もう少し賢いつもりだったんだけどな。
「……俺の不注意だ」
俺は意地を張るのをやめ、ミルトンへ頭を下げた。
「すまねえ、ボス」
「おやおや、顔を上げておくれ、レン君!」
ミルトンは慌てて両手を振った。
「こういうこともあるさ。むしろ、君が普段どんな苦労をしているのか、少しばかり身をもって知ることができたよ」
そして、申し訳なさそうに続けた。
「もちろん、先ほど話したギルドへの加入には影響しない。ただし、報酬のほうは減額せざるを得ないが……。そこは理解してくれるね?」
「……わかってる」
俺は頷いた。
自分自身への苛立ちは、まだ収まっていなかった。
「なあ、あいつがあとからここへ短剣を持ち込んで、俺の手柄を横取りしようとする可能性はないのか?」
「それは、考えにくいね」
ミルトンは説明を始めた。
「普通の泥棒や、魔法を使えないオークにとって、コラグの短剣は台所の包丁と大差ない。見た目は、ごくありふれた品だからね」
彼は、少し得意げに続けた。
「しかし、この私のように魔法の知識に長けた者からすれば、非常に重要な魔法具なのだよ」
つまり、わざわざ盗もうとする奴がいるとすれば、その価値を知っていたということになる。
「へえ、そうなのか……」
俺は、思わずつぶやいた。
「差し支えなければ教えてほしいんだけど、どのくらいすごい代物なんだ?」
「おや、興味が湧いてきたかい?」
ミルトンは微笑んだ。
「あれは、名を持つ武器の一つ。『アシェン・ファング』と呼ばれている」
そして、続けた。
「使い手の存在を覆い隠し、極めて高度な識別魔法すら欺くことのできる、特殊な能力を備えているのだよ」
ミルトンは、指を一本立てた。
「おそらく、オークたちはどこかのみすぼらしい小屋で拾ったのだろうね。その真価も知らずに。しかし、魔力との相性がよい、腕利きの暗殺者の手に渡ったとなれば……」
彼は、静かに首を振った。
「一つどころか、いくつもの事件が起こりかねない代物だよ」
……で、それを俺がなくしたわけか。
素晴らしいね、まったく。
「なあ、やっぱり俺があの野郎を探しに行こうか? 何とか埋め合わせくらいはしたいんだけど……」
「そんなことは気にしなくていいよ、レン君。腕利きのギルド員たちに捜索させるからね。念のため、私も市場の動きに目を光らせておこう」
ミルトンは、安心させるように言った。
「君が実力を証明する機会は、これからいくらでもあるさ。さて、今日の報酬はこちらだよ」
彼は、小さな硬貨袋を差し出した。
約束されていた短剣込みの報酬には、とても及ばない。
それでも、しばらく飯を食うには十分な額だった。
今の俺には、それでありがたかった。
ミルトンは気にするなと言ってくれた。
だが、どうしても、あの泥棒を自分の手で捕まえたいという思いが消えなかった。
……単に、傷つけられた自尊心の問題なのかもしれないけどな。
果たして、借りを返す機会はあるのだろうか。
そのときだった。
ミルトンが、不意に表情を強張らせた。
「……お客さんのようだね」
……客?
「ミルトン様!」
まるで、その言葉を合図にしたかのように、先ほどの受付係が執務室へ駆け込んできた。
ノックする余裕すらなかったらしい。
その声には、明らかに焦りが滲んでいた。
「どうしたんだい、ジェラルド? ちょうど話が終わったところだし、そろそろお茶でも飲みたいと思っていたのだが」
「お茶は後回しにしてください、ギルドマスター!」
ジェラルドは、息を切らしながら報告した。
「住宅地区に、魔物の大群が出現したとの報告が入りました! 見たところ、アンデッドのようです!」
そして、続ける。
「王国守備隊が先に出動しましたが、あっという間に押し切られてしまったそうです……!」
……なるほど。さっき守備隊が大騒ぎしてたのは、それが原因か。
だが、魔物だって……?
レッドルークの堅固な城壁の外には、昼間でも暗いミストラルの森が広がっている。
あの森で魔物が目撃されること自体は、珍しくもない。
しかし、市街地の中で魔物が出現するなんて、ほとんど聞いたことがなかった。
自然に起きた出来事とは、到底思えない。
「……アンデッド、か」
ミルトンは、小さく笑った。
「どうも、きな臭いと思っていたんだよ」
そして、ジェラルドへ目を向けた。
「動ける腕利きを、全員集めておくれ! 我々冒険者が倒れれば、最後の防衛線は学院の生徒たちになる!」
「はい! ただちに!」
ジェラルドは、再び廊下へ飛び出していった。
「さて、レン君。私も行かなければならないのだが、ちょうど君がここにいてくれて助かったよ」
ミルトンは勢いよく椅子から立ち上がり、部屋の隅にある書類棚へ歩み寄った。
「この書簡を、王国守備隊の隊長レオニダスへ、至急届けてくれないかね。非常に重要な内容が記されている」
「……げっ」
よりによって、あいつかよ。
ほかの誰でもいいのに……
「何か問題でも?」
「いや、別に……」
レオニダス隊長と俺の仲は、控えめに言っても、決して良好ではなかった。
だが、ここまで世話になったミルトンの頼みを、むげに断る気にもなれない。
「……何でもねえ。わかったよ、届けてくる」
「素晴らしい!」
考え直す暇も与えられず、書簡を手へ押し込まれた。
そのまま、扉のほうへ促される。
「彼なら、宮殿地区の跳ね橋付近に配置されているはずだよ。冒険者ギルドの一員としての、君の記念すべき初仕事だと思っておくれ。期待を裏切らないでくれると信じているよ……」
「もちろんだ、ボス」
そう答えて、俺はギルドからの使いを果たすため、宮殿地区へ向かった。
ほんの数区画先では、大勢の人間が魔物と戦っている。
そんなときに、ただ手紙を届けに行くというのも、時間の使い方としてどうなんだろうな。
そんな気持ちはあった。
だが、ミルトンがわざわざ「重要」だと説明した書簡だ。
きっと、何か意味があるのだろう。
それに、ゾンビのような連中を片づけるのは、俺の得意分野とは言い難い。
……とにかく、真面目にやるべき仕事なのは確かだ。
名誉会員としてギルドへ迎えてくれるという、ミルトンの申し出を思い返した。
自然と、珍しく笑みが浮かんだ。
人が嫌がる雑用や、面倒なお使いを引き受けてきたからこそ、俺は彼の信頼を勝ち取れたのだと思う。
ミルトンは、変わり者ではあるが、誰に対しても公平に接してくれる立派な男だった。
……もっとも、あの人には、まだ何か隠し事がありそうな気もする。
根拠なんてない。
ただの勘だ。
徒歩でも、それなりに順調なペースで目的地へ向かっていた、そのときだった。
視界の端を、黒いものがよぎった。
俺は目を細め、顔をしかめた。
「……お前!」
怒りが、じわじわと湧き上がってくる。
俺は、目の前の黒い外套をまとった男を指さした。
さっき俺から短剣を盗んだと思われる、あの野郎だった。
奴は中央地区の外れで、建物の壁に寄りかかっていた。
だが、盗みを働いたばかりだというのに、あんな堂々と人目につく場所にいるのは、どうにも妙だった。
男は、またしてもにやりと笑った。
そして、姿を消した。
俺は一瞬ためらった。
……だが、自分の勘に従うことにした。
すぐさま、後を追い始める。
俺から小さくない額の報酬を奪った男を追いかけ、西へ向かって走った。
自分のものも、ギルドのものも、取り返してやるつもりだった。
……悪いな、ミルトン。
せっかく見つけた手がかりなんだ。今は追わせてくれ。
書簡の配達も、あのクソ隊長も。
ほんの少しくらい、待たせたって構わねえだろ。




