第41話 ミストラルの森へ
がたごと、がたごと。
馬車が揺れる音を聞いているうちに、俺は危うく眠りに落ちそうになっていた。
俺たちは、薄暗いミストラルの森を南へ進んでいる。
まだ朝早い時間だというのに、頭上を覆う木々のせいで、森の地面は実際の時刻よりもずっと暗く見えた。
遠くでは、森の動物たちが鳴いている。
そよ風が、周囲の葉をかさかさと揺らした。
……一言で表すなら、不気味な場所だな。
俺は、シオンと同じ客室に座っていた。
ゼロは前の御者台で、手綱を握っている。
今回の旅は、大人数の隊商になっていた。
俺たちの馬車がいるのは、隊列の中央より少し後ろ。物資を運ぶ荷馬車よりは前だ。
一方、実践魔法学院の五人評議会に属する、アルゴ以外の四人といった重要人物たちは、先頭付近の馬車に乗っているらしい。
もし、あの連中が非戦闘員だったなら、あまり合理的な配置とは思えなかっただろう。
だが、実際には違う。
評議会の面々は、ゼン王国でも指折りの魔法使いであり、戦士でもあるのだ。
だからこそ、大陸東部でも屈指の危険地帯を抜ける今回の旅では、自ら先陣を切ることになったらしい。
ギルドマスターのミルトンは、数人の信頼できる傭兵とともに、俺たちの後方を馬で進んでいた。
隊列の最後尾を守る役目だ。
「……なあ、もう一回教えてくんねえか?」
ゼロが、手綱を軽く鳴らしながら尋ねた。
「何でエンバーへ行くために、わざわざミストラルの森を通ってるんだ? レッドルークで協議会を開けばよかったじゃねえか」
奴は、前方の道を睨んだ。
「俺は、ここが気に入らねえんだよ。全然な」
「もう、怖がりですね、ゼロ」
シオンは、俺の隣で腕と脚を組んでいた。
しかも、目元にはアイマスクまでつけている。
「そんなに魔物が怖いんですか? ついこのあいだ、五十メートルもある亀と戦ったばかりでしょう?」
彼女は、からかうように続けた。
「コボルトや狼くらい、あなたのような大きくて、強い男の人なら、どうってことないはずですけどね?」
「怖がってねえって! ただ……」
ゼロは、ため息をついた。
「ほかの冒険者から聞いたんだよ。この森じゃ、何かの教団が活動してるらしいってさ」
そして、少し声を落とした。
「巡礼者が何人か、生きたまま皮を剥がれたって話もあってな……。考えるだけで、ぞっとするだろ?」
「教団であろうとなかろうと、レッドルークでも屈指の戦士たちがこれほど集まっている隊商を襲うなんて、少しでも頭のある者なら考えませんよ」
シオンは、呆れたように言った。
「恐怖で判断力が鈍っているんじゃありませんか? ねえ、レン君もそう思うでしょう?」
俺からの同意を待っているらしい。
「……あの、レン君? 大丈夫ですか?」
「……ん? 俺?」
俺は、はっとした。
「ああ、別に。大丈夫だよ……」
二人が言い争っているあいだ、ついつい意識がどこかへ飛んでしまっていた。
……まあ、この二人が口喧嘩するのも、出会ってからすっかり日常茶飯事なんだけどな。
「実は、俺も似たようなことを考えてたんだよ。何で、わざわざこんな遠くまで行くのかって話」
そして、もう一つ気になっていたことを口にした。
「それに、こんな大事な協議会なのに、王女はどうして一緒に来なかったんだ?」
俺が仕事を辞めさせられて、誰か別の奴が後任になるとしたら、そいつがちゃんと仕事をこなせるか、確かめておきたいと思うけどな。
……まあ、辞めさせられた職場なんてどうなってもいいと思ってたら、話は別だけど。
それにしても……
あの騒動が起き、時間が巻き戻されてから、俺は王女の姿を一度も見ていなかった。
結局、暗殺計画は実行されなかったため、本人には命を狙われていたことも伝えていないらしい。
余計な心労をかけないためだそうだ。
……それでも。
あの子が最後に言った言葉が、何度も頭の中で蘇っていた。
『王国が、危ない……。お願い……』
彼女は、俺の背後にある何かを……
いや、誰かを指さしていた。
……でも、俺は逮捕される真っ最中で、そちらを見る余裕なんてなかったんだよな。
「正直に言えば、新たな統治者が決まるまで、王女への暗殺の企ては増えていく一方でしょう」
シオンは、答えた。
「ですから今は、レッドルークに残って、王国守備隊とグリムウィック隊長の保護下にいるのが一番です」
「……本当に、それでいいのか?」
俺は、疑わしく思った。
「王女が殺されるのを防ぐときには、あいつら、どこにもいやしなかったじゃねえか」
そして、鼻で笑った。
「なのに俺を逮捕するときだけは、見事なほど都合よく現れやがったんだぞ?」
「もちろん、その点は私も気になっています。何らかの共謀があった可能性は、まだ捨てていません」
シオンは、認めた。
「ただ、今も王女が生きているという事実は、彼女自身が最初から主な標的ではなかったことを示しています」
彼女は、少し考えながら続けた。
「あなたへ罪を着せることができなくなった以上、敵はその方法に興味を失ったのでしょう」
そして、念を押すように付け加えた。
「……とはいえ、別の方法で仕掛けてこないとは限りませんけどね」
「……そう言うと思ったよ」
俺は、うめいた。
「でもさ、そもそも何で王族を殺そうとする連中がいるんだ?」
窓の外へ目を向ける。
「今の王族って、もう実質的な政治権力をほとんど持ってない気がするんだけどな」
「責任の押しつけ合いですよ、レン君」
シオンは、深いため息をついた。
「物乞い横丁のような場所で、人々がどんな暮らしをしているか、あなた自身も見てきたでしょう?」
彼女は、静かに続けた。
「人々は、変化を切望しているんです。特に、社会の底辺へ追いやられた方々はね」
そして、少し声を落とした。
「ノウエラ王女の父、ダニエル王が姿を消したとき、民衆は王に見捨てられたも同然だと考えました。それに怒りを覚えた人々は、数え切れないほどいたんですよ」
「……親父の罪は、子供へってことか」
俺は、目を細めた。
「あの子、普通の人生を送る機会すら、最初からなかったんだな……」
「それに、異世界人が最初に召喚された時期とも重なっています」
シオンは、説明を続けた。
「異世界人たちが現れ、そのあとに続いたさまざまな問題もありました。王族は、急速に人々の支持を失っていったんです」
そして、膝の上で手を組んだ。
「世間で知られている『ノウ王子』が、多くの人に愛されているとしても、それだけで民衆の気持ちが変わるわけではありません」
彼女は、静かに言い切った。
「飢えに苦しみ、踏みにじられてきた人々は、忘れません。簡単に許すこともないんです」
……そりゃ、そうだよな。
「それから、協議会をエンバーで開く理由ですが……」
シオンは、話題を変えた。
「ミカイル・スタークレイヴンという名の領主が、自分の屋敷を会場として提供してくれることになったんです」
彼女は、肩をすくめた。
「もっとも、私もその方については、お金持ちだということくらいしか知りませんけどね」
そして、続けた。
「アルゴ学院長とミルトン様は親しい友人同士ですが、レッドルークには、それぞれ理想とする統治者候補を支持する派閥がありますから」
「スポーツチームみてえなもんだな、相棒!」
ゼロが、ようやく自分の出番だと感じたらしい。
「みんな、それぞれ応援したい奴がいるんだよ」
彼は、手綱を操りながら話し始めた。
「冒険者連中は、ミルトンが王様になってほしいと思ってるし、学院の連中なら、評議会の誰かが選ばれるのを喜ぶだろうな」
そして、少し考えた。
「王党派なら、誰を担ぎ出すんだろうな……。グリムウィック隊長とか?」
「……マヌケ隊長が王様、ねえ」
俺は、鼻で笑った。
「そいつは、恐ろしい話だな」
そして、ふと思った。
「でも、あの野郎、自分抜きで協議会が開かれるって知ったら、どうするつもりなんだろうな?」
ミルトンは、理由を詳しく説明することなく、隊長を抜きにして準備を進めることにしたらしい。
……まあ、俺に文句はない。
あいつとは、できるだけ遠く離れていたいからな。
何もしていない俺の首を刎ねようとしていた相手と、今さら水に流して仲良くしろと言われても、無理な話だ。
「これほど大勢の重要人物が、雇われた人員や大量の物資とともに街を出たんです。さすがに、隊長も気づいているでしょう」
シオンは、言った。
「ですが、彼が次にどう動くかを心配していても、私たちのやるべきことが進むわけではありません」
……それは、もっともだ。




