第39話 闇の魔導書
リゼットにもらった弁当箱を抱え、俺はレッドルークの中央地区を歩いていた。
普段なら、渡されたその場でさっそく食べ始めていたところだ。
だが、今日は違う。
用事が済み次第、シオンとゼロに合流すると約束していたからな。
……それにしても。
「これ、中に何が入ってんだ……?」
弁当箱は、ずっしりと重かった。
リゼットは余り物だと言っていたが、とてもそうは思えない。
下手をすれば、俺が三人いても十分に腹を満たせそうな量だ。
「……まあ、いいか。二人にも分けてやろう」
眼鏡をかけた俺の仲間は、今日はどうしても行きたい場所があるらしい。
そこで、エンバーへの旅について、道中で何が待っているのかも含めて話し合いたいそうだ。
それに、俺へ渡したいものもあると言っていた。
やがて、俺は古びた店の前へたどり着いた。
看板には、こう書かれていた。
『グレイベル婆さんの薬屋と魔法雑貨店』
「……ここみたいだな」
空いている片手で、木製の扉をそっと押し開ける。
「お邪魔しま――!」
……うっ。
突然、胃がひっくり返りそうな臭いに襲われた。
「何だよ、このひっでえ臭い!?」
俺は、思わず叫んだ。
「何か死んでんじゃねえのか、この店!?」
焦げた髪の毛と、きのこを混ぜ合わせたような臭いだった。
俺が今まで嗅いだ中でも、最悪の臭い五選には間違いなく入る。
ちなみに、残りの四つは、ばあちゃんの納豆と、物乞い横丁にある三か所のどこかだ。
「……あら、レン君! 来たんですね!」
店のカウンターにいたシオンが、鼻を覆いながら入ってきた俺に気づいた。
彼女は、何でもないような顔をしている。
「ちょうど、いくつか買い物をしようと待っていたところなんです」
そして、店の奥へ目を向けた。
「グレイベル婆さんも、もうすぐ出てくると思いますよ。奥で薬を煎じているんです。……少々、臭いの強いものを」
「少々、ねえ……」
「よう、相棒!」
店の別の場所から、ゼロが声をかけてきた。
……鼻声だった。
棚に並ぶ商品を眺めている。
しかも、その鼻は洗濯ばさみで挟まれていた。
見た目は、なかなか間抜けだった。
……だが、気持ちはよくわかる。
「よう、ゼロ」
俺は、頷いた。
「元気そうで何よりだぜ! 精神的に参っちまったんじゃねえかって、ちょっと心配してたんだよ」
ゼロは、首の後ろを掻いた。
「あの夜から、全然顔を見てなかったからな」
そして、俺の手元へ目を向けた。
「……おっ! 何だ、それ!?」
奴は、巨大な弁当箱を指さした。
「ちょっと休んでただけだよ。これは宿屋の知り合いにもらったんだ」
俺は、説明した。
「ここでの用事が済んだら、二人にも分けてやるつもりだったんだけどさ」
……店の奥から、また臭いが漂ってきた。
「できれば、嗅覚が戻ってからにしたいな……」
「ふむふむ……」
ゼロは、にやりと笑った。
「ひょっとして、その知り合いって、酒場のカウンターで働いてる金髪の美人さんか?」
シオンの笑みが、すっと消えた。
急に、こちらへの関心が高まったらしい。
「……まあ、そうだけど」
俺は、空いている手を腰へ当てた。
「って、何でお前が知ってんだよ!?」
「冒険者の勘ってやつさ」
ゼロは、堂々と嘘をついた。
「……ま、本当は昨日の夜、飲んでるときに、あの子の友達が話してるのを聞いちまったんだけどな」
そして、楽しそうに笑う。
「よかったじゃねえか、相棒! ファンクラブの会員が、また一人増えたってわけだ!」
「……レン君のファンクラブは、もう十分な人数が揃っていると思いますけどね」
シオンは、つんと顔を背けた。
「おやおや、こりゃどうしたことだ?」
ゼロは、脛の安全などまったく気にせず、くすくすと笑った。
「シオンたん、すっかり拗ねちまって――いってえっ!?」
……うん。
今までシオンがゼロの脚へ入れてきた蹴りの中でも、今回ばかりは自業自得だと思う。
「……ふん」
シオンは、腕を組んだ。
俺は、呆れたように苦笑した。
「……何じゃ、外が騒がしいのう!」
ようやく、店の奥から声がした。
しゃがれた声だった。
「また錬金術師ギルドの調査員か!? さっさと帰れと言ったじゃろうが、まったく!」
現れたのは、年老いた女性だった。
背中が曲がり、木の杖で身体を支えながら、よたよたと歩いてくる。
「壊したら弁償してもらうからのう、この悪ガキども!」
「グレイベル婆さん、錬金術師ギルドは、もうレッドルークでは活動していませんよ」
シオンが、普段より少し大きな声で話しかけた。
「私です。シオンですよ。昨日お話しした、友人たちも一緒です」
「何じゃあ? 本を買いに来たとな?」
「ええ、まあ、本も買いますけど、そうではなくて――」
「――おお、シオンちゃんかい!」
婆さんの声が、急に優しくなった。
「最初からそう言いなされ! 漁師ギルドのろくでなしどもかと思って、頭をひっぱたくところじゃったわい」
そして、ぶつぶつと続けた。
「あいつらは、いつも鯉の油をごまかして納めよる。そうじゃとも、けしからん連中じゃ!」
……漁師?
さっきまで、錬金術師と揉めてたんじゃなかったのか?
それに、何で江戸時代の人みたいな喋り方なんだよ?
婆さんは、紫と黒のビロードを、何枚も重ねて身につけていた。
たぶん、昔はドレスだったのだろう。
今では、かなりくたびれている。
顔はしわだらけで、目なんて、ほとんど閉じているように見えた。
薄い灰色の髪は、肘のあたりまで伸びている。
「二人とも、気にしないでくださいね」
シオンは、微笑んだ。
「グレイベル婆さんは、目も耳もほとんど利きませんけど、魔法の知識は確かなんです」
そして、少し声を潜めた。
「……ただ、最近は記憶も少し怪しくなってきましてね。レッドルークがレッドルークと呼ばれる前から、この街で店を開いている方なんですよ」
そういえば、歴史の本で読んだことがあった。
昔の王都は、もっと北東の海岸沿いにあったらしい。
だが、大規模な内戦が起き、街は徹底的に破壊されてしまった。
異世界人が現れるよりも、ずっと昔の話だ。
今では、旧王都の廃墟は『オールド・レッド』と呼ばれている。
現在のレッドルークは、もともと存在していた商人たちの村を中心に築かれたそうだ。
……まあ、俺が読んだ歴史書によれば、だけどな。
この世界へ来てから、金をかけずに楽しめることといえば、図書館へ通うくらいしかなかった。
無料で入れるからな。
ちなみに、オールド・レッズ・インという名前も、昔の王都にちなんでいるらしい。
「何じゃあ? 本を買いに来たとな?」
グレイベル婆さんは、両手を耳へ当てた。
「わかっとる、わかっとる。最初から聞こえとったわい、シオンちゃん。そうじゃとも。ちょっと待っとりなされ」
俺たちは、互いに顔を見合わせた。
……絶対、聞こえてなかっただろ。
だが、婆さんはそのまま店の奥へ戻っていった。
そして、しばらくすると、何やら不気味な黒い本を抱えて帰ってきた。
革張りの表紙。
その中央には、血のような赤い瞳の紋様が刻まれている。
「それです!」
シオンが、嬉しそうに声を上げた。
婆さんから、本を受け取る。
「『闇の魔導書・第一巻』。闇魔法と召喚術の世界へ足を踏み入れるための、入門書ですね」
「……めちゃくちゃ怪しくねえか?」
俺は、思わず言った。
「気持ちはわかります。でも、名前ほど怖いものではありませんよ」
シオンは、説明した。
「闇属性の適性を持つ魔法使いが、自分の身を守るために、初級から中級の魔法を学ぶための魔導書です」
そして、表紙を撫でた。
「基本属性ごとに用意されている、魔導書のシリーズなんですよ」
彼女は、俺へ微笑んだ。
「これまで頑張ってくれたお礼に、私からの贈り物です」
「……俺に? 本当に?」
シオンは、頷いて本を差し出した。
俺は、さっそく最初の数ページをめくってみた。




