第38話 束の間の休息
「……なあ、ボス。本当に、短剣を返してもらっていいのか?」
俺は、執務机に向かい、アシェン・ファングを眺めているミルトンへ尋ねた。
「今回の騒ぎが始まる前は、ずいぶん欲しがってたじゃねえか」
アルファとの遭遇から、数日が経っていた。
珍しく、街には穏やかな時間が戻ってきている。
前の時間軸で起きたアンデッドの襲撃も、王族の暗殺事件も、今回は発生しなかった。
俺たちの行動によって、王国を揺るがす悲劇は、どうにか回避できたのだ。
しかも、それだけじゃない。
書簡を届けるという依頼を、一応は……別の時間軸で達成したということで、ミルトンからまとまったダーンをもらえた。
おまけに、炎のゴーレムとの戦いでの働きを評価され、アシェン・ファングもそのまま持っていていいことになったのだ。
「構わないよ。私の魔法道具の収集品は、もう十分すぎるほど揃っているからね」
ミルトンは、短剣を俺へ返した。
それから、つばの広い帽子を脱ぎ、優しく埃を払う。
「それに、あのような名のある武器というのは、使い手を選ぶものなんだよ」
彼は、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「残念ながら、私と彼は、あまり相性がよくないらしい」
「……そうなのか」
妙に物悲しい声だったのが、少し気になった。
「ところで、腕の調子はどうだい?」
ミルトンは、話題を変えた。
「ギルドの医師から聞いたよ。あの夜は、ずいぶん大変だったそうだね」
「ああ、あれか……」
俺は、思い出して苦笑した。
「まあ、今は大丈夫だよ。……たぶん」
戦いのあと、みんなは俺をオールド・レッズ・インへ連れ戻してくれた。
温かな食事を用意してもらい、ベッドで休ませてもらったのだ。
幸い、失った腕は、数時間かけて無事に生え直した。
……だが、あの夜に味わった痛みと不安だけは、絶対に忘れられそうにない。
あれほどの怪我をすれば、精神的に傷を負ってもおかしくないらしい。
シオンも、あの一件では珍しいくらい心配してくれていた。
……ゼロが派手にぶっ飛ばされたときは、そこまで取り乱してなかったけどな。
かわいそうな奴。
「まあ、あのささやかな入浴券以外にも、何か褒美をあげる頃合いだろうと思ってね」
ミルトンは、帽子をかぶり直した。
「君は、それだけの働きをしたのだから。改めて、よくやってくれたね」
「……へへ。ありがとな」
俺は、少し照れくさくなって笑った。
……別に、入浴券だって嫌いじゃなかったけどな。
「何か、久しぶりに自分が一歩前へ進めた気がするよ。後ろへ下がるばっかりじゃなくてさ……」
俺は、手元の短剣を眺めた。
「……まあ、そもそもの元凶だったクソ野郎には、逃げられちまったけど」
「そうだね…… そればかりは、仕方がないのかもしれない」
自分と同じ顔をした奴が、今もどこかをうろついている。
そう考えるだけで、どうにも落ち着かない気分になった。
しかも、あの気味の悪い野郎、俺たちへの執着を捨てたようには見えなかったしな。
……特に、シオンに対しては。
「ま、次の仕事に取りかかる頃合いってことか」
「そうだね。確か、シオン嬢が君に会いたがっていたはずだよ」
「どうせ、王位継承協議会の話だろうな」
俺は、肩をすくめた。
「正直、何で俺まで行かなきゃならねえのか、まだよくわかんねえんだけどさ」
そして、少し考えた。
「別に遠慮してるわけじゃねえよ。ただ、『王国の命運』だの何だのって話は、俺にはまだ荷が重すぎる気がするんだよな……」
「何を言っているんだい、謙虚な我が助手君!」
ミルトンは、笑い飛ばした。
「まだ達成していないことばかりに目を向けていては、いつまで経っても、自分を認められないよ」
彼は、俺をまっすぐ見つめた。
「先日の我々の行動は、君の働きも含めて、大勢の命を救ったんだ。その事実を、誇りに思っていいんだよ、レン君」
「……まあ、そうかもな」
「何より、私としても嬉しいことだよ!」
ミルトンは、声を弾ませた。
「エンバーへ向かう護衛隊に、あの**『北部地区の英雄』**を加えられるのだからね!」
彼は、少し意味ありげに続けた。
「この時期のミストラルの森は、なかなか危険な場所になることもあるんだよ?」
「……おいおい。そりゃ、さすがに持ち上げすぎだって、ボス」
もっとも、あだ名としては『物乞い横丁の嘘つきレン』より、よっぽどましだ。
たとえ、ミルトンが俺を褒めるために、その場で思いついた名前だったとしてもな。
……ただ、ミストラルの森についての話には、確かに一理ある。
レッドルークの安全な城壁から一歩外へ出れば、危険だらけの迷宮が待っているのだ。
魔物だけじゃない。
この世界では、人間だって、同じくらい恐ろしい存在になり得る。
「……そろそろ、行くかな」
俺は、話を切り上げることにした。
ボスだって、俺と雑談する以外にやることが山ほどあるだろう。
「改めて、ありがとな。エンバーへ出発する前に何か仕事があったら、遠慮なく言ってくれよ」
「当面は、大丈夫そうだね。だが、何かあれば、もちろんお願いするよ」
ミルトンは、軽く手を振った。
「気をつけるんだよ、レン君。また数日後に会おう」
……
執務室を出ると、ギルドの受付にいたジェラルドが、丁寧に頷いて微笑んでくれた。
街の全員が、俺への態度を変えたわけではない。
……とんでもない。
まだまだ、そんな状況じゃない。
だが、あの壮絶な戦いを経て、冒険者ギルドでは、以前よりずっと温かく迎えられるようになっていた。
自由な時間のほとんどを、ここで過ごしていた俺にとっては、ありがたい変化だった。
……しかも、それを改めて実感させるようなことまで起きた。
「あ、あの……イツカ様!」
建物の外へ出ようとした、ちょうどそのとき。
背後から、声をかけられた。
オールド・レッズ・インで働いている、金髪の給仕の声だった。
もう、何度も顔を合わせている子だ。
「レンでいいって。どうしたんだ?」
最近、俺が店へ行くと、彼女が働いていることが多い。
だが、突然声をかけられる理由は、よくわからなかった。
……まず頭に浮かんだのは、飲み代のツケだった。
いや、でも、それはないだろ。
俺は、踏み倒したことなんてねえぞ。
「で、では……レン様、とお呼びしますね……」
彼女は、少し考え込んでから、突然、身を乗り出した。
その拍子に、胸元が少し弾む。
手には、木製の重箱のようなものを抱えていた。
「こ、これ! お昼ご飯を作ってきたんです!」
「……あ、そうなの?」
「レン様に、です!」
俺は、固まった。
……弁当?
えっ、何だ?
ドッキリか?
俺って、可愛い女の子が突然、無料で弁当を作ってくれるような男じゃねえだろ!?
「……これ、俺に?」
「き、今日、まだ何も食べていませんよね?」
彼女は、少し俯いた。
「自分のお昼ご飯を作っていたら、ちょっと余っちゃったので……。よかったら、レン様も食べるかなって思って……」
声が、だんだん小さくなっていく。
最後のほうは、ほとんどつぶやきだった。
……地獄でも、雪が降ったのか!?
前に会ったとき、こんなに照れ屋な子だったっけ?
今までのやり取りは、いつも店員と客らしい、きっちりしたものだった。
たぶん、こういう会話は、お互いに初めてなのだろう。
「……いや、別にいいよ。そこまで腹減ってるわけじゃ――」
ぐううううううっ。
……
腹が、盛大に鳴った。
しかも、たぶん酒場にいるほかの連中にも聞こえた。
「さっさと受け取れ、この間抜け!」
店の隅から、ジェットの爺さんが口を挟んだ。
……いつの間に、あそこに座ってたんだ?
すでに、かなり酒が入っているらしい。
「いつまでもぐずぐずしてっと、酒が不味くなっちまうだろうが!」
「うるせえな、このクソジジ――」
……あっ。
俺は、慌てて言葉を飲み込んだ。
「……いや。うん、そうだな」
おずおずと、弁当箱を受け取る。
どうにか冷静さを保ち、ジェットに噛みつかずに済んだ。
ただ、顔が少し熱くなってしまった。
「……ありがとな」
……クソッ。
今の、相当だせえよな……?
ふと見れば、ほかの給仕たちが、曲がり角の向こうからこちらを覗いていた。
仕事もせずに、女の子同士でくすくす笑っている。
……なるほど。
たぶん、そういうことか。
いや、でも、ミルトンがまた俺の英雄譚を大げさに話していたせいかもしれない。
それなら、みんな何か勘違いしている可能性もあるな……
「……よ、よかったです」
金髪の給仕は、ほっとしたように微笑んだ。
「で、では、私はこれで失礼しますね、レン様!」
そう言って、仲間の給仕たちのところへ駆け戻ろうとする。
「……あっ、待ってくれ!」
俺は、思わず呼び止めた。
彼女が、驚いたように振り返る。
「そういや、名前って何だったっけ?」
俺は、少し気まずくなった。
「今まで何度も会ってたのに、ちゃんと聞いたことなかったよな。悪い」
「……リゼットです」
彼女は、可愛らしく微笑んだ。
そして、そのまま歩いていった。
「……リゼット、か」
俺は、小さくつぶやき、頷いた。
……その直後だった。
顔を上げると、店にいる男の客たちが、揃って俺へ恐ろしい視線を向けていたのだ。
どうやら、給仕の中で誰が一番人気なのか、すぐに理解できてしまった。
……おいおい、勘弁してくれよ、お前ら。
俺は、ため息をついた。
こうして、冒険者ギルドでの温かな歓迎ムードは、あっという間に終わってしまったのだった。




