第21話 酒場のゼロ
冒険者ギルド本部が入るオールド・レッズ・イン。その一階の酒場へ近づくと、店の中から何やら大騒ぎしている声が聞こえてきた。
……まあ、この店では珍しくもないか。
レッドルークは、筋金入りの冒険者の街だ。
血の気の多い連中なんて、そこら中にいる。
ただ、妙なのは、まだ昼間だということだった。
普段なら、日が傾いて、客の腹に酒が入り始める頃が一番賑やかになるはずなのに。
俺たちが店へ入ると、二人の屈強な男が向かい合っていた。
どちらも真剣な表情だ。
片手には、それぞれ酒の入ったジョッキ。
背後のカウンターには、空になった木製のジョッキが何十個も並んでいる。
……飲み比べか?
どうやら、かなり本気の勝負らしい。
二人とも顔を真っ赤にしていて、その周囲には、見物人たちが半円を描くように集まっていた。
歓声を浴びるたびに、さらに勢いが増しているようだ。
そして、俺は片方の男の顔を見た瞬間、思わず指を鳴らした。
「……あっ! コーヒー牛乳の兄ちゃん!」
「……はい?」
シオンが、不思議そうに首を傾げた。
「何ですか、レン君?」
……あ、そうか。
この時間軸じゃ、まだ正式には会ってないんだった。
「……悪い。何でもねえ」
しかし、見間違えるはずがない。
浴場でコーヒー牛乳を置いていってくれた、あの兄ちゃんだ。
青い髪に、印象的な赤い瞳。
間違いなかった。
対戦相手は、兄ちゃんより頭一つ分も背が高い大男だ。
上半身には服を着ず、革のベルトのようなものを、いくつも巻きつけている。
だが、勝負の行方はというと……
「言っただろぉ、ゼロォ……。この鉄の胃袋、アイアン・ガット様に、酒飲み勝負で勝てる奴なんざ……ひっく! いねえんだよぉ……!」
男は、ろれつの回らない口調で続けた。
「その酒代は……ひっく! お前持ちで決まりだあ……」
「やっちまえ、アイアン・ガット!」
見物人の一人が叫んだ。
「へっ! そいつは違うぜ、友よ!」
コーヒー牛乳の兄ちゃんは、まったく引かなかった。
「何で俺が『ゼロ』って呼ばれてるか、知ってるか?」
彼は、にやりと笑った。
「この酒場で俺が負けた飲み比べの数が、ゼロだからさ!」
「そうだ、ゼロ! 負けんなよ!」
別の客が、声を張り上げた。
……待て。
コーヒー牛乳の兄ちゃんが、ゼロ!?
「ゼロ! あなた、いったい何をしているんですか!?」
俺が驚いているあいだに、シオンはずかずかと酒場へ踏み込んでいた。
両手を腰へ当て、見物人の輪のすぐ外で立ち止まる。
その目は、協力者であるゼロをじろりと睨んでいた。
当のゼロは、手にしていたジョッキを一気に飲み干し、カウンターへ勢いよく叩きつけたところだった。
「おっ、シオンじゃねえか!」
彼は、陽気な笑みを浮かべた。
俺も、シオンの隣へ歩み寄った。
「おーい、もう一杯頼むぜ!」
以前、俺に果汁を無料で出してくれた金髪の給仕が、新しいビールを滑らせるように差し出した。
ゼロは、それを鮮やかに受け取った。
しかも、バスケットボールでも扱うかのように、ジョッキを一本の指でくるりと回してみせる。
……何だ、あれ。
呆れるやら、感心するやら。
だが、隣から伝わってくるシオンの無言の怒りに、俺の額にも冷や汗が浮かんだ。
「……ゼロ」
今にもシオンが爆発しそうになった、そのときだった。
アイアン・ガットの顔から、さっと血の気が引いた。
男は椅子から立ち上がり、よろよろと身体を揺らした。
どうやら、とうとう酒の限界が来たらしい。
最後にゼロを見つめる。
そして、天井を仰ぎ……
「……お前の、勝ちだ……」
そのまま、顔から床へ倒れ込んだ。
見物人たちが、大歓声を上げた。
「……ってことは、これで貸し借りなしってことでいいよな?」
ゼロは両腕を頭上へ伸ばし、気持ちよさそうに背伸びをしながら、給仕へ尋ねた。
「……あの方のツケに、つけておきますね」
彼女は、少し呆れたように笑った。
「目を覚まされたら、ですけど」
「了解!」
ゼロは椅子からぴょんと飛び降り、そのまま俺たちのところへ歩いてきた。
……さっきまで、あれだけ飲んでたんだよな?
まるで、酒の影響を受けていないように見えるんだが。
突然、ゼロと目が合った。
すると、彼の顔がぱっと明るくなった。
「おっと、悪いな、相棒! 今まで気づかなかったぜ!」
彼は、嬉しそうに声を上げた。
「なあ、シオンたん! 一緒にいるこの兄ちゃん、紹介してくれよ!」
「……ゼロ。まさに、そのために来たんです」
シオンは、ため息をつき、首を振った。
「それと、もう一度その呼び方をしたら、膝を蹴りますからね」
そして、俺へ手を向けた。
「こちらが、以前からお話ししていた青年です。イツカ・レン君」
彼女は、ゼロを見つめた。
「私たちがずっと待っていた異世界人ですよ。覚えていますよね?」
「おお、なるほど! ずっと待ってた異世界人ってのが……」
ゼロは、俺の顔をまじまじと見つめた。
「……待て、この兄ちゃんが!?」
彼は、さらに身を乗り出した。
「本物か!? 本人なのか!? 絶対、絶対に間違いねえんだな!?」
シオンは、一度だけ頷いた。
「ふむふむ…… なるほどなあ」
ゼロは、どこか予想していたような笑みを浮かべた。
「こりゃまた、いろいろ面倒なことになりそうだな?」
そして、楽しそうに続けた。
「ま、俺はそういうのも嫌いじゃねえけどさ!」
俺が何かを言うより早く、ゼロは手を伸ばしてきた。
俺の手をがしっと掴み、勢いよく上下に振り始める。
一瞬で距離を詰められ、俺は呆気に取られてしまった。
「よろしくな、相棒!」
ゼロは、満面の笑みを浮かべた。
「俺の地球での名前は、ザカリー・クロウリー! こっちじゃ、みんなからゼロって呼ばれてる!」
そして、さらに大きく笑った。
「ま、あんたは好きに呼んでくれていいぜ! 何にせよ、これから一緒に戦えるのが楽しみだ!」
「……あ、ああ」
俺は、ようやく声を出した。
……こいつ、俺とは性格が正反対だな。
いろいろと振り回されそうな予感がする。
だが、悪い奴ではなさそうだった。
俺は驚きを振り払い、握られた手を握り返した。
「俺もよろしくな、ゼロ」
「おうおう!」
ゼロは、嬉しそうに頷いた。
「で、作戦会議はいつ始めるんだ、シオンたん? 俺、腹ペコなんだけどよ!」
「……だから、さっき言ったでしょう……」
……あ。
これは、まずい。
「いってえええっ!?」
「……その呼び方は、やめなさいって!」
シオンの小さな足が、容赦なくゼロの膝へ叩き込まれた。
あれだけ頑丈そうな身体をしているくせに、ゼロは痛そうに片脚でぴょんぴょん跳ね回っている。
「……まったくもう」
一方、シオンは頬を膨らませていた。
騒がしい見物人たちから、どっと笑いが起こる。
……さすがに、俺も笑ってしまった。
こうして俺たちは、上の階で作戦会議を始めることになった。
そこでは、もう一人の重要な人物が、俺たちに合流するのを待っているらしい。
……だが、このときの俺たちは、まだ知らなかった。
その頃、実践魔法学院では、新たな厄介事が芽生え始めていたことを。




