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第31話「これは、覚えていてください」


 午前十一時四十六分。


「今日は、何になさいますの?」


 妄執ちゃんが尋ねると。


 老婆は、困った顔をした。


「それをね」


 メニューを閉じる。


「あなたに聞きに来たの」


───────────────────────


 妄執ちゃんは老婆を知っていた。


 月に二度。


 火曜日が多い。


 入口からカウンターまで十九歩。


 途中で一度、壁の写真を見る。


 注文はフィッシュバーガー。


 タルタル少なめ。


 ポテトはS。


 飲み物はホットティー。


 砂糖は使わない。


 けれど。


 妄執ちゃんの両手は、カウンターの上に置いたままだった。


「本日のご注文を、わたくしがお決めするのですの?」


「違う違う」


 老婆が笑った。


「前に、何を食べてた?」


───────────────────────


 妄執ちゃんは少し黙った。


「お知りになりたいのですか?」


「うん」


「今日、それを召し上がるために?」


「それは聞いてから決める」


 老婆は鞄を探った。


 財布。


 ハンカチ。


 小さな薬入れ。


 折り畳んだ紙。


 最後の紙を開く。


 青いボールペンで、大きく書いてある。


《ぱんでむ》

《妄執さんに聞く》


「これ、自分で書いたの」


「いつですの?」


「それが思い出せない」


───────────────────────


 老婆は笑っていた。


 けれど。


 紙の端は、何度も開いた跡で柔らかくなっていた。


「最近ね、昨日のことが抜けるのよ」


「そうでしたの」


「でも、ここに来てたのは分かる」


「なぜですの?」


「あなたが覚えてるから」


───────────────────────


 妄執ちゃんの右手が。


 ほんの少しだけ。


 引き出しの方へ動いた。


 カメラ。


 ノート。


 止まる。


「フィッシュバーガーでしたわ」


 老婆の目が上がる。


「タルタルは少なめ。ポテトはS。ホットティー。お砂糖はお使いになりませんでした」


「そうそう」


 老婆が笑う。


 今度は、さっきより早く。


「そうだった」


───────────────────────


「では、本日も同じものを?」


 妄執ちゃんは言いかけた。


 止める。


「……失礼いたしましたわ」


「何が?」


「先に進めてしまいました」


 老婆は首を傾げる。


 妄執ちゃんは、もう一度尋ねた。


「今日は、何になさいますの?」


───────────────────────


 老婆はメニューを開いた。


 しばらく見る。


「これ」


 指したのは。


 てりやきバーガーだった。


「食べたことある?」


「ここでは、ございませんわ」


「じゃあ、それ」


「かしこまりましたわ」


「ポテトは?」


「お決めになるのは、お客様ですわ」


「そうだった」


 老婆が笑う。


「じゃあL」


「まあ」


「何よ」


「以前はSでしたもの」


「覚えてるじゃない」


「ええ」


「なら、Lにする」


───────────────────────


 厨房で。


 妄執ちゃんは初めて老婆のために、てりやきソースを使った。


 甘い匂いが立つ。


 ポテトはL。


 紙カップの紅茶は、いつもと同じ。


 砂糖は。


 置かなかった。


 そこで手が止まる。


 トレーを見る。


 砂糖を一袋、横に置いた。


───────────────────────


「お待たせいたしましたわ」


 老婆はトレーを見る。


「あら、砂糖」


「本日は、いかがなさいます?」


「いらない」


「かしこまりましたわ」


 妄執ちゃんは砂糖を下げた。


 老婆は、てりやきバーガーを一口食べた。


 ゆっくり噛む。


「甘い」


「てりやきですもの」


「好きだわ、これ」


「そうでしたのね」


「知らなかった?」


「今日、初めて存じましたわ」


───────────────────────


 老婆は半分ほど食べたところで。


 鞄から、さっきの紙を出した。


 裏返す。


「ペン貸して」


「どうぞ」


 老婆は書いた。


《てりやき 好き》

《ポテトL》


 少し考える。


 もう一行。


《砂糖はいらない》


「これで次も分かる」


「ええ」


 妄執ちゃんは微笑んだ。


 老婆は紙を畳みかけた。


 止まる。


「でも」


「はい」


「これ、なくしたら終わりね」


───────────────────────


 妄執ちゃんは答えなかった。


 老婆が顔を上げる。


「あなた、覚えてる?」


「ええ」


「今日のも?」


「ええ」


「じゃあ」


 紙を指で押さえた。


「これは、覚えていてください」


───────────────────────


 妄執ちゃんの笑みが。


 ほんの少しだけ消えた。


「……よろしいのですの?」


「何が?」


「次にいらした時、今日のお好みをわたくしから申し上げても」


「言って」


「その時は、お嫌いになっているかもしれませんわ」


「だったら嫌いって言う」


「今日と違う方になっているかもしれません」


「それでも」


 老婆は言った。


「今日の私が、これ好きだったことは消さないで」


───────────────────────


 妄執ちゃんは。


 何も言わなかった。


 壁には何百枚もの写真。


 レジの横には、昨日になった未来写真。


 引き出しにはカメラ。


 全部。


 誰かを残すためのものだと思っていた。


 そして最近は。


 残しすぎないためのものだと思い始めていた。


 けれど。


 目の前の老婆は。


 残してほしいと言っている。


───────────────────────


「承知いたしましたわ」


 妄執ちゃんは言った。


「覚えております」


 老婆が笑う。


「頼んだわよ」


「はい」


「でも次は違うの頼むかも」


「もちろんですわ」


───────────────────────


 老婆が帰ったあと。


 妄執ちゃんは引き出しを開けた。


 カメラを取り出す。


 しばらく持つ。


 戻した。


 ノートを取り出す。


 白いページ。


 ペン。


 書く。


《本日、てりやきバーガーをおいしいと仰った》


 その下に。


《次回も同じとは限らない》


 さらに。


《本人より、覚えていてほしいと依頼あり》


───────────────────────


 妄執ちゃんは読み返した。


 少し考える。


 最初の一行を消さない。


 二行目も消さない。


 三行目も。


 全部、そのまま残した。


───────────────────────


 二週間後。


 午前十一時五十一分。


 自動ドアが開いた。


 老婆が入ってきた。


 入口で壁の写真を見る。


 それから。


 カウンターまで歩く。


 二十歩。


 以前より、一歩多い。


───────────────────────


「いらっしゃいませ」


「こんにちは」


 老婆は妄執ちゃんを見る。


 少し困った顔をした。


「私、前にも来た?」


───────────────────────


 妄執ちゃんは。


 すぐに答えた。


「ええ」


 老婆の肩から、少し力が抜けた。


「よかった」


───────────────────────


「何食べた?」


「前回は、てりやきバーガーでしたわ」


「好きだった?」


「おいしい、と仰いました」


「ポテトは?」


「Lでしたわ」


「私が?」


「ええ」


 老婆が笑った。


「やるじゃない、私」


───────────────────────


 妄執ちゃんも笑った。


「ですが」


「うん」


「本日は、何になさいますの?」


───────────────────────


 老婆はメニューを見る。


 長く。


 指が。


 フィッシュバーガーの上を通る。


 てりやきバーガーの上を通る。


 止まったのは。


 チキンバーガーだった。


「今日は、これ」


「かしこまりましたわ」


「ポテトはS」


「はい」


「紅茶に砂糖」


 妄執ちゃんの眉が。


 ほんの少し上がった。


「どうしたの?」


「いいえ」


 注文端末を押す。


「本日は、お砂糖をお使いになるのですわね」


「そうしたい」


「承知いたしましたわ」


───────────────────────


 老婆は窓際で食べた。


 チキンバーガー。


 ポテトS。


 砂糖を一杯入れた紅茶。


 全部。


 前回とは違った。


 それでも。


 前回は消えていなかった。


───────────────────────


 帰り際。


 老婆がカウンターへ戻った。


「ねえ」


「はい」


「今日のも覚えといて」


「ええ」


「次、聞くから」


「承知いたしましたわ」


 老婆は帰った。


───────────────────────


 妄執ちゃんはノートを開いた。


 前回の三行。


 その下へ。


 今日の注文を書く。


 消さない。


 上書きもしない。


 前の好みを。


 今日の好みで訂正しない。


───────────────────────


 ページには。


 違う二日が。


 並んで残った。


 妄執ちゃんは。


 その二つを見て。


 初めて。


 どちらが本当かを考えなかった。


───────────────────────


 閉店前。


 業務端末に、新しい項目が増えていた。


記憶依頼:1


内容:本人確認待ち


───────────────────────


 妄執ちゃんは。


 確認ボタンを押さなかった。


 拒否もしなかった。


 代わりに。


 項目名を変更した。


記憶依頼:1


内容:次回来店時に本人へ返却


───────────────────────


「……お預かりいたしますわ」


 妄執ちゃんは端末を閉じた。

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