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第32話「前のわたしが、そう言ったんですか」


 二週間後。


 老婆は、紙を持ってこなかった。


「なくしました」


 カウンターの前で、そう言って笑った。


 妄執ちゃんは覚えていた。


 前回。

 チキンバーガー。

 ポテトS。

 紅茶に砂糖を一杯。


 そして。


『今日のも覚えといて』


「大丈夫ですわ」


 妄執ちゃんが言うと。


 老婆は、ほっと息を吐いた。


───────────────────────


「じゃあ、前は何食べた?」


「チキンバーガーでしたわ。ポテトはS。紅茶には、お砂糖を一杯」


 老婆の笑顔が止まった。


「砂糖?」


「ええ」


「私が?」


「ええ」


 老婆は妄執ちゃんを見た。


「入れないわよ、私」


───────────────────────


 妄執ちゃんは答えなかった。


 記憶はある。


 紙カップ。

 小袋。

 破る指。

 さらさら落ちる白い粒。

 木のマドラーで三回。


 見ていた。


 間違えてはいない。


「前回は、お入れになりましたわ」


「ほんとに?」


「はい」


「ずっと砂糖嫌いなのに」


 老婆は眉を寄せた。


「それ、私じゃないんじゃない?」


───────────────────────


 妄執ちゃんの右手が止まった。


 老婆は怒ってはいなかった。


 ただ。


 自分の知らない自分の話を聞く顔をしていた。


「……前回、お客様は」


 妄執ちゃんは言いかける。


『覚えていてください』


 頼まれた。


 だから返す。


 そう決めた。


「チキンバーガーを召し上がって。ポテトはSで。紅茶にお砂糖を一杯お入れになりました」


「そう」


「お帰りの際には、今日のことも覚えていてほしいと」


「そう言ったの?」


「ええ」


 老婆は黙った。


───────────────────────


「じゃあ」


 しばらくして。


「砂糖、入れてみようかしら」


 妄執ちゃんは顔を上げた。


「本日も、ですの?」


「前の私がそうしたんでしょう?」


「ええ」


「なら、何か理由があったのかも」


───────────────────────


 妄執ちゃんは紅茶を用意した。


 砂糖を一袋。


 トレーの右上へ置く。


 老婆は席へ運んだ。


 袋を破る。


 全部入れた。


 混ぜる。


 一口。


 顔をしかめた。


「甘い」


 妄執ちゃんは、カウンターから見ていた。


「……お嫌いですの?」


「嫌い」


 老婆は笑った。


 でも、その笑い方は少し困っていた。


「なんで前の私は、こんなの飲んだのかしら」


───────────────────────


 その言葉が。


 妄執ちゃんの中に残った。


 前の私は。


 こんなのを。


 妄執ちゃんは、自分の記憶を疑わなかった。


 疑えなかった。


 だからこそ。


 別のところを疑った。


───────────────────────


 老婆が帰る前。


「次も覚えといて」


 そう言った。


 妄執ちゃんは、すぐに「はい」と言わなかった。


「お預かりはいたしますわ」


「うん」


「ですが」


 老婆が振り返る。


「次にお返しする時、わたくしの記憶が正しいと申し上げるのは、やめますわ」


「間違ってるかもしれないから?」


「いいえ」


 妄執ちゃんは首を横に振った。


「正しくても、困ることがございましたもの」


───────────────────────


 老婆は少し考えた。


「じゃあ、どうするの?」


「こう申し上げますわ」


 妄執ちゃんは、カウンター越しに老婆を見る。


「わたくしは、こう覚えております、と」


「同じじゃない?」


「少し違いますの」


「どこが?」


「お客様が、違うと仰えるところですわ」


───────────────────────


 老婆は笑った。


「じゃあ今日の私は、砂糖嫌い」


「ええ」


「前の私は、入れた」


「わたくしは、そう覚えております」


「めんどくさいわね」


「ええ」


 妄執ちゃんも笑った。


「人ですもの」


───────────────────────


 閉店後。


 妄執ちゃんはノートを開いた。


 前回の記録。


《チキンバーガー》

《ポテトS》

《紅茶 砂糖一杯》

《本人より、記憶依頼あり》


 その下へ書く。


《本日、本人は砂糖を嫌いと回答》


 ペンが止まる。


 以前なら。


 どちらが正しいかを確かめた。


 今は。


 確かめる必要がないと思った。


 けれど。


 それだけでは足りなかった。


───────────────────────


 妄執ちゃんは、もう一行書いた。


《前回の記憶を返したことで、本日の選択に影響》


 そこで。


 初めて手が止まった。


 記憶は。


 命令ではない。


 そう思っていた。


 けれど。


 差し出したものを、相手が信じるなら。


 証言だって。


 人を動かす。


───────────────────────


 三週間後。


 老婆が来た。


 今度は、小さな赤い手帳を持っていた。


「買ったの」


「まあ」


「なくさないように、首から下げるやつも」


 紐を見せる。


「これであなたに全部聞かなくて済む」


「それは何よりですわ」


「でも、聞くけどね」


「まあ」


───────────────────────


 老婆は席につく前に言った。


「前の私、何食べた?」


 妄執ちゃんは答える。


「わたくしは、チキンバーガーと覚えておりますわ」


「ポテトは?」


「Sですわ」


「紅茶は?」


 一拍。


「お砂糖を一杯お入れになった、と覚えております」


 老婆は赤い手帳を開いた。


 最初のページ。


 自分の字。


《砂糖 きらい》


「ほら」


「ええ」


「私の勝ち」


「勝負でしたの?」


「今決めた」


───────────────────────


 老婆は笑って。


 メニューを開いた。


「今日はね」


 指が動く。


「ホットケーキ」


「バーガーショップですわ」


「ないの?」


「ございませんわ」


「じゃあフィッシュ」


「かしこまりましたわ」


「ポテトL」


「はい」


「紅茶」


 老婆は妄執ちゃんを見る。


「砂糖、二つ」


───────────────────────


 妄執ちゃんは。


 注文端末へ伸ばした手を止めた。


「お嫌いでは?」


「嫌いよ」


「では、なぜ?」


「今日は試したいの」


「二つも?」


「二つも」


 老婆は赤い手帳を閉じた。


「嫌いって書いてあるからって、嫌いなままでいなきゃいけないわけじゃないでしょう?」


───────────────────────


 妄執ちゃんは。


 しばらく老婆を見た。


 それから。


 砂糖を二袋。


 トレーに置いた。


「どうぞ」


「ありがと」


───────────────────────


 老婆は一袋目を入れた。


 二袋目も入れた。


 混ぜる。


 飲む。


 顔をしかめた。


「やっぱり嫌い」


 妄執ちゃんは吹き出した。


「存じておりますわ」


「あ、今決めつけた」


「……失礼いたしましたわ」


「今のはいいの」


「難しいですわね」


「人ですもの」


───────────────────────


 帰り際。


 老婆は赤い手帳を開いた。


《砂糖 きらい》


 その下に書く。


《二つも きらい》


 少し考えて。


 さらに書いた。


《でも試した》


 妄執ちゃんは、その文字を見た。


 覚えた。


 今度は。


 覚えたことを、すぐにはノートへ書かなかった。


 老婆が手帳を閉じるのを待った。


「次も、覚えていて」


「ええ」


 妄執ちゃんは微笑んだ。


「わたくしが覚えていることとして、お預かりいたしますわ」


 老婆は頷いた。


 赤い手帳を首から下げて。


 店を出た。


───────────────────────


 妄執ちゃんはノートを開く。


 今日の欄。


 注文を書く。


 その下。


《本人記録:砂糖は嫌い。でも試した》


 さらに、その横へ。


《妄執記憶:同じ》


 初めて。


 二つの欄を作った。


 どちらかを。


 正解欄にはしなかった。

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