第28話「忘れてくださいませ、と言われましたの」
開店から二時間。
妄執ちゃんは、一枚も写真を撮っていなかった。
カメラはいつもの引き出しにある。
取り出そうと思えば、右手を伸ばすだけで届く。
それでも引き出しは閉じたままだった。
代わりに。
「ピクルス、抜きでよろしかったですわね」
「あ、覚えてたんですか」
「もちろんですわ」
客が笑う。
妄執ちゃんも笑った。
バーガーを渡す。
「ありがとうございましたわ」
自動ドアが開き、夏の熱気が一枚だけ店内へ滑り込む。
閉じる。
冷房の風。
フライヤーの油が弾ける音。
次の客が来る。
写真がなくても。
ちゃんと、一日は続いていた。
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午前十一時十三分。
その人は、一人で入ってきた。
妄執ちゃんは顔を上げた。
「いらっしゃいませ」
そこで。
手が止まった。
知っている。
顔も。
歩き方も。
注文も。
入口からレジまで十二歩。
メニューを見ない。
財布は出さない。
注文するとき、右手の人差し指でカウンターを二度叩く。
今日も。
トン。
トン。
「ダブルチーズバーガーを」
「オニオン多めですわね」
客が目を細めた。
「……まだ覚えてるんですね」
「ええ」
妄執ちゃんは注文端末に触れかけた。
名前が出てこない。
顧客番号も。
来店回数も。
昨日までなら、考える必要などなかった。
「失礼ですが」
「はい」
「お名前を、もう一度伺っても?」
「言いません」
妄執ちゃんの指が止まった。
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鉄板の上で、別の客のパティが脂を吐いた。
妄執ちゃんはそちらへ一度だけ視線をやり、火を弱めた。
客は待っていた。
「お名前を登録なさらない、という意味ですの?」
「違います」
「では?」
男は少し迷った。
それから。
「私のことを、忘れてください」
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換気扇の低い唸りが、妙にはっきり聞こえた。
妄執ちゃんは笑顔のままだった。
「……ご注文の変更ですの?」
「違います」
「でしたら、ダブルチーズバーガーを」
「妄執さん」
名前を呼ばれた。
妄執ちゃんの親指が、注文端末の縁をなぞった。
「忘れてほしいんです」
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「理由を伺っても?」
「嫌です」
「そうですの」
「理由まで覚えられそうなので」
妄執ちゃんは口を閉じた。
客は少し笑った。
「すみません」
「いいえ」
「でも、本気です」
「……ええ」
「写真もいりません」
「今日は撮っておりませんわ」
「記録も」
「残しません」
「名前も」
「伺いません」
客はそこで、一度息を吐いた。
「あと」
妄執ちゃんを見る。
「あなたの中にも」
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妄執ちゃんは答えなかった。
後ろでタイマーが鳴った。
ピピッ。
彼女は振り返り、パティを返した。
チーズを乗せる。
オニオンを多めに。
客は何も言わない。
妄執ちゃんも何も言わない。
バンズを閉じるとき。
指先だけが。
ほんの少し、強く沈んだ。
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「お待たせいたしましたわ」
トレーを差し出す。
客は受け取らない。
「約束してくれますか」
「……難しいお願いですわ」
「やっぱり」
「ですが」
妄執ちゃんはトレーを持ったまま言った。
「お客様のご希望なのでしょう?」
「はい」
「でしたら」
一拍。
「努力いたしますわ」
客は初めて、困ったように笑った。
「努力、なんですね」
「できないお約束を、できますとは申しませんもの」
「そういうところも覚えてます」
「何をですの?」
男は答えなかった。
ようやくトレーを受け取った。
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窓際の席。
いつもの場所だった。
そう思って。
妄執ちゃんは眉をわずかに寄せた。
いつもの。
いつから?
男が包み紙を開く。
オニオンが一本、落ちる。
拾わない。
それも知っている。
食べる順番も。
最初の一口を必ず右側から齧ることも。
食後、水を三口飲むことも。
全部。
知っている。
なのに。
名前だけがない。
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妄執ちゃんはカウンターの下で手を握った。
思い出そうとする。
初回来店。
顔。
声。
注文。
季節。
服。
会話。
何度も来た。
何度も話した。
何度も。
何度も。
そのたびに。
思い出せる。
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「妄執さん」
窓際から声がした。
「はい」
「今、思い出そうとしてました?」
妄執ちゃんは数秒黙った。
「……ええ」
「ですよね」
「申し訳ありませんわ」
「謝らないでください」
男はバーガーを置いた。
「たぶん、それがあなたなんでしょうから」
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その言葉だけは。
妄執ちゃんは嫌だった。
笑顔が、ほんの少し薄くなる。
「私がどういう者かを、お客様に決めていただく必要はありませんわ」
男が目を丸くした。
妄執ちゃん自身も。
少しだけ驚いた。
「……そうですね」
「ええ」
「すみません」
「いいえ」
今度の「いいえ」は。
少し速かった。
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男は残りを食べた。
水を三口。
やはり。
三口。
トレーを持って立つ。
返却口へ向かう途中、妄執ちゃんの前で止まった。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございましたわ」
「次に来たとき」
「はい」
「初めましてって言ってください」
妄執ちゃんは。
すぐには答えなかった。
「……承知いたしましたわ」
「じゃあ」
自動ドアが開く。
熱い風。
外の車の音。
「さようなら」
「さようなら」
ドアが閉じた。
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妄執ちゃんは。
追わなかった。
カメラにも触れなかった。
端末も開かなかった。
ただ。
男が座っていた席へ行った。
トレーは返却済み。
テーブルには水滴が一つ。
椅子は少し後ろへ引かれている。
妄執ちゃんはそれを戻そうとして。
やめた。
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昼。
客が増えた。
注文。
ポテト。
コーラ。
チーズ追加。
ケチャップ。
笑い声。
子どもがストローを落とした。
妄執ちゃんは拾って、新しいものと交換した。
いつもの店。
いつもの仕事。
時間が進む。
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午後三時。
妄執ちゃんは。
ふと窓際を見た。
椅子が一脚。
少し引かれている。
「……?」
誰が座っていたのか。
思い出せない。
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胸の奥で。
何かが暴れた。
反射的に引き出しへ手が伸びる。
カメラ。
ある。
その下にノート。
ある。
開けば。
過去のどこかに。
きっと。
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指先が取っ手に触れる。
止まる。
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『初めましてって言ってください』
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妄執ちゃんは。
手を引いた。
「……承知いたしましたものね」
それだけ言った。
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閉店後。
椅子を戻す。
テーブルを拭く。
窓際の席。
乾いた布巾が、一度だけ止まった。
何か。
忘れている。
大切だった気がする。
そうでもなかった気もする。
わからない。
妄執ちゃんは。
そのまま拭いた。
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翌朝。
開店直後。
自動ドアが開いた。
一人の男が入ってくる。
入口からレジまで。
十二歩。
メニューを見ない。
カウンターへ右手を置く。
トン。
トン。
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妄執ちゃんは顔を上げた。
胸の奥に。
理由のない痛みが走った。
けれど。
笑った。
「いらっしゃいませ」
男も笑った。
「ダブルチーズバーガーを」
妄執ちゃんは注文端末を開いた。
「かしこまりましたわ」
一瞬。
指が止まる。
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「オニオンは」
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男がこちらを見る。
妄執ちゃんも。
男を見る。
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「……いかがなさいますの?」
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長い沈黙のあと。
男は。
とても嬉しそうに答えた。
「多めでお願いします」
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「承知いたしましたわ」
妄執ちゃんは鉄板へ向かった。
パティを置く。
油が弾ける。
チーズ。
バンズ。
そして。
オニオンを掴む手だけが。
なぜか。
最初から少し多かった。




