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第29話「昨日のお好みは、今日のご注文ではありませんわ」


 翌朝。


 男は、昨日と同じように十二歩でカウンターまで来た。


 右手の人差し指。


 トン。

 トン。


 妄執ちゃんの右手は、注文を聞くより先に動いた。


 バンズ。

 パティ。

 チーズ。


 そして、オニオンの容器へ。


「今日は」


 男が言った。


「オニオン、抜きでお願いします」


 妄執ちゃんの指先には、もう刻んだオニオンがひとつまみ乗っていた。


───────────────────────


 油の弾ける音だけが続いた。


 妄執ちゃんは手の中を見た。


「……失礼いたしましたわ」


「いや、まだ入れてないですよね」


「ええ」


 ひとつまみを容器へ戻しかける。


 止めた。


 新しい手袋へ替える。


「作り直しますわ」


「まだ作ってないですって」


「わたくしの中では、もう作り始めておりましたもの」


 男は笑わなかった。


───────────────────────


 妄執ちゃんは注文端末を開いた。


 商品。


 ダブルチーズバーガー。


 トッピング。


 指が勝手に「オニオン多め」の位置まで行く。


 押さない。


 隣。


「オニオン抜き」


 今度は、そこを押した。


「ほかに変更はございますの?」


「水もいりません」


 妄執ちゃんの視線が、客席の給水機へ向いた。


 ほんの一瞬。


 男が気づいた。


「三口も、なしです」


「……承知いたしましたわ」


───────────────────────


 バーガーを作る。


 オニオンは入れない。


 それだけのことだった。


 けれど、妄執ちゃんは普段より遅かった。


 バンズを置くたび、一拍待つ。


 チーズを乗せ、一拍待つ。


 ソースを絞る前にも、一拍。


 自分の手が次に何をしようとするのか。


 見ている。


───────────────────────


「お待たせいたしましたわ」


 男はトレーを受け取った。


 窓際へ向かう。


 二歩目で止まる。


 別の席へ行った。


 柱の陰。


 昨日までなら選ばなかった席。


 妄執ちゃんは、何も言わなかった。


───────────────────────


 男は一口食べた。


 咀嚼する。


 また一口。


 しばらくして、こちらを見る。


「おいしいです」


「ありがとうございますわ」


「オニオンない方が、好きかもしれません」


 妄執ちゃんは返事をしかけた。


 昨日は多めがお好きでしたのに。


 言葉が、喉まで来た。


 飲み込む。


「そうでしたのね」


 男が少し笑った。


「今、昨日の僕と比べました?」


「……ええ」


「忘れたのに?」


「顔も、お名前も、思い出せませんわ」


「でも比べられる」


「そうですわね」


───────────────────────


 男は包み紙を畳んだ。


「それって、忘れたことになるんですか」


 妄執ちゃんはすぐには答えなかった。


 レジ横に置いた紙ナプキンが、空調の風で一枚だけめくれた。


「わかりませんわ」


「昨日は、忘れてほしいって言いました」


「ええ」


「今日の僕は、昨日と違うことをしてみたかった」


「ええ」


「でも、あなたが先にオニオンを取ったから」


 男は自分の手を見る。


「一瞬、僕の方が間違えた気がしたんです」


───────────────────────


 妄執ちゃんの手が止まった。


 男は続けなかった。


 責める声ではなかった。


 だから余計に。


 妄執ちゃんは、カウンターの下へ目を落とした。


 閉じた引き出し。


 カメラ。


 ノート。


 どちらにも触れなかった。


「……申し訳ありませんわ」


「謝ってほしいわけじゃないです」


「ええ」


「ただ」


 男がバーガーを見る。


「覚えてもらえるのって、嬉しいと思ってたんですけど」


 一拍。


「覚えられたままだと、変わりにくいんですね」


───────────────────────


 妄執ちゃんは、男を見た。


 昨日の男ではない。


 たぶん。


 今ここにいる人。


「では」


 妄執ちゃんは両手をカウンターの上へ置いた。


 指を揃える。


「次からは、先に伺いますわ」


「何を?」


「今日のご注文を」


「普通ですね」


「ええ」


 少しだけ笑う。


「接客ですもの」


───────────────────────


 その日の午後。


 常連客が来た。


 妄執ちゃんは、いつもの注文を知っていた。


 けれど聞いた。


「本日は、何になさいますの?」


「いつもの」


「承知いたしましたわ」


 次の客。


「本日は?」


「今日はポテトなしで」


「かしこまりましたわ」


 次。


「本日は?」


「いつもと同じ」


「はい」


 知っていることは消えない。


 ただ。


 先に使わない。


───────────────────────


 夕方。


 男がもう一度カウンターへ来た。


「すみません」


「はい」


「追加で、コーラください」


 妄執ちゃんは注文端末を開く。


「サイズはいかがなさいますの?」


「……聞くんですね」


「ええ」


「Mで」


「承知いたしましたわ」


 カップを取る。


 氷を入れる。


 注ぐ。


 男が受け取る直前。


「妄執さん」


「はい」


「昨日の僕のこと、本当に覚えてないんですよね」


「ええ」


「じゃあ」


 カップを受け取る。


「今日の僕は?」


───────────────────────


 妄執ちゃんは答えなかった。


 男の顔。


 声。


 オニオン抜き。


 水はいらない。


 柱の陰の席。


 コーラはM。


 全部、もう覚えている。


───────────────────────


「……覚えておりますわ」


 男が苦笑した。


「やっぱり」


「ですが」


 妄執ちゃんは続けた。


「明日も同じ方だとは、決めませんわ」


───────────────────────


 男はしばらく黙っていた。


「それなら」


 コーラを持ち上げる。


「また明日」


「お待ちしておりますわ」


───────────────────────


 閉店後。


 妄執ちゃんは引き出しを開けた。


 カメラを取り出す。


 レンズを拭く。


 ノートも取り出す。


 白いページを開く。


 ペンを持つ。


 しばらく。


 何も書かなかった。


 それから、ページの一番上に一行だけ。


『次に会う時は、先に聞くこと』


 名前も。


 注文も。


 席も。


 書かなかった。


───────────────────────


 翌朝。


 開店直後。


 自動ドアが開く。


 十二歩。


 トン。

 トン。


 妄執ちゃんは両手をカウンターへ置いたまま、男が口を開くのを待った。


「今日は」


 男が言う。


「チキンバーガーにします」


 妄執ちゃんの右手が、ほんの少しだけダブルチーズバーガーのキーへ動いた。


 止まる。


「かしこまりましたわ」


 チキンバーガーのキーを押す。


 その瞬間。


 背後の引き出しの中で。


 カシャ。


 シャッター音がした。


 妄執ちゃんは振り返らなかった。

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