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第23話「見なければ、決まらない」


───────────────────────


 正午。


 妄執ちゃんはカウンターに立っていた。


 業務端末には、一件だけ表示されている。


担当者指定:妄執

顧客番号:No.441

来店予定:12:00


 時計を見る。


 十二時一分。


 扉は開かない。


 十二時五分。


 開かない。


 十二時十分。


 開かない。


 妄執ちゃんは端末を見た。


 予約は消えていない。


 No.441は、まだ「来店予定」のままだ。


───────────────────────


 十二時十三分。


 厨房から声がした。


「いらっしゃいませ」


 妄執ちゃんが振り返る。


 誰もいない。


 もう一度。


「いらっしゃいませ」


 今度は壁からだった。


 中央の写真。


 昨日まで空だった写真の中に——


 人が立っている。


 No.441。


「こんにちは」と写真の中のNo.441が言った。


 妄執ちゃんは写真を見た。


 見て。


 すぐに目を逸らした。


「……こんにちは」


 それだけ言った。


───────────────────────


 No.441は写真の中で笑っていた。


「今日は遅くなりました」


「……ええ」


「待っていましたか?」


 妄執ちゃんは答えなかった。


 写真の中のNo.441が少し首を傾ける。


「妄執さん?」


「はい」


「どうしてこちらを見ないんですか?」


 妄執ちゃんは壁ではなく、カウンターを見ていた。


「……今日は、少しだけ」


「はい」


「見ないことにしていますの」


───────────────────────


 写真の中で、No.441が黙った。


 数秒。


 写真の中のフロアに、誰も動かない時間が流れた。


 それから。


「……なるほど」


 No.441が言った。


「それなら、私はここにいられますね」


 妄執ちゃんの指が止まった。


「……どういう意味ですの?」


「昨日、妄執さんが見ないでいた間だけ、私は動けました」


「……」


「だから今日は、どこへ行くか自分で決められると思います」


───────────────────────


 妄執ちゃんは壁を見なかった。


 でも、聞いている。


「どこへ行きたいんですの?」


「それを考えています」


「……そうですの」


「外かもしれません」


 妄執ちゃんは黙った。


「ここかもしれません」


 さらに黙った。


「まだ決めていません」


 妄執ちゃんは小さく頷いた。


「……それが、一番よろしいと思いますわ」


───────────────────────


 その時。


 業務端末が鳴った。


 妄執ちゃんは画面を見る。


来店処理:未完了


顧客:No.441


状態:来店中


 妄執ちゃんは画面を閉じた。


───────────────────────


◆真意ちゃんの部屋


「つまり?」


 真意ちゃんが聞いた。


 秩序ちゃんが答える。


「写真の中のNo.441は、昨日まで妄執さんが見ている間、行動が固定されていた」


「そして?」


「妄執さんが見なかった時間だけ、写真の中で移動した」


「つまり?」


 真意ちゃんはルーペを机に置いた。


「観測が、固定条件になっている可能性がある」


 秩序ちゃんが眉を寄せる。


「可能性?」


「まだ断定できない」


「どうすれば確認できますか」


 真意ちゃんは少し考えた。


「妄執さんに、写真を見てもらわなければいい」


「……逆では?」


「ええ。普通なら見るでしょうね」


 真意ちゃんは中央の写真を指した。


「でも今回は、見ないことで何が起きるかを見る」


───────────────────────


 秩序ちゃんが立ち上がった。


「妄執さん本人には?」


「まだ言わない方がいい」


「なぜですか」


「本人が『観測固定工程』だと認識した瞬間、実験条件そのものが変わる」


 秩序ちゃんが黙る。


 真意ちゃんはルーペを握った。


「それに——」


「それに?」


「この写真、妄執さんが見ていない間だけ、内部構造が変わってる」


「どう変わったんですか」


 真意ちゃんはルーペを覗いた。


「昨日までなかったものが増えてる」


「何が?」


「道」


───────────────────────


◆妄執ちゃんの個室


 深夜。


 妄執ちゃんは鳥籠型ベッドに入らなかった。


 机の前に座っていた。


 壁を見ない。


 中央の写真を見ない。


 七百万枚の写真がある。


 その中に——


 一枚だけ、見ない写真がある。


───────────────────────


 妄執ちゃんはノートを開いた。


 今日の業務記録。


本日の指名対応件数:一件。


 そこまで書いて。


 止まった。


 No.441の欄。


 いつもなら、


来店。ダブルチーズバーガー。退店。


 と書く。


 今日は書けない。


 来店した。


 でも、フロアには来ていない。


 写真の中にはいる。


 退店したのかもわからない。


 だから。


 妄執ちゃんは、


No.441について、確認できず。


 とだけ書いた。


───────────────────────


 ペンを置く。


 少し考える。


 その下に、もう一行。


確認しないことを選択。


 書いた。


 妄執ちゃんはノートを閉じた。


───────────────────────


 その時。


 写真から声がした。


「妄執さん」


 妄執ちゃんは振り返らない。


「はい」


「こちらを見ないんですね」


「ええ」


「どうしてですか?」


 妄執ちゃんは少し考えた。


「……あなたが、何をするのか知りたいからですわ」


「なるほど」


「私が見たら、あなたは止まってしまうのでしょう?」


「たぶん」


「では——」


 妄執ちゃんは目を閉じた。


「今日は、見ませんわ」


───────────────────────


 写真の中で。


 No.441が歩き始めた。


 カウンターから離れる。


 壁際へ。


 写真の中の壁には、写真が並んでいる。


 その一枚に触れる。


 写真の中の写真。


 その中にも、人がいる。


「こんにちは」


 No.441が言った。


 写真の中から声が返る。


「……こんにちは」


「ここから出たことがありますか?」


「……ない」


「出たいですか?」


 長い沈黙。


「……わからない」


「そうですか」


 No.441は少し笑った。


「私も、まだわかりません」


───────────────────────


 妄執ちゃんは目を閉じたまま。


 写真の中で起きていることは、見えない。


 だから——


 固定されない。


 写真の中の空間が、少しずつ広がっていく。


 壁の向こう。


 厨房の向こう。


 フロアの向こう。


 昨日まで存在しなかった廊下が伸びていく。


───────────────────────


 そして。


 No.441は廊下の先に、一枚の扉を見つけた。


 扉には何も書かれていない。


 ただ。


 小さな写真が貼られている。


 妄執ちゃんの写真。


 フロアに立っている。


 笑っている。


 No.441は、その写真を見た。


 写真の中の妄執ちゃんが——


「いらっしゃいませ」


 と言った。


───────────────────────


 No.441が扉に手をかける。


 開けようとする。


 その瞬間。


 写真の外で。


 妄執ちゃんが、目を開けた。


───────────────────────


 壁を見る。


 中央の写真。


 No.441がいる。


 扉の前に立っている。


 手をかけている。


 妄執ちゃんは——


 見てしまった。


───────────────────────


 写真の中のNo.441が止まった。


 手も。


 足も。


 表情も。


 全部が止まった。


───────────────────────


 妄執ちゃんは息を呑んだ。


「……」


 写真の中のNo.441がこちらを向いている。


「……見ましたね」


 妄執ちゃんは答えなかった。


「だから、止まりました」


「……ごめんなさい」


「謝らなくていいです」


「……でも」


「妄執さん」


「はい」


「今度は、最後まで見てください」


───────────────────────


 妄執ちゃんは写真を見つめた。


 No.441は扉の前で止まっている。


「何をするんですの?」


「決めます」


「何を?」


「帰るか」


 少し間。


「残るか」


 さらに少し間。


「それとも——」


 No.441が扉を見る。


「別の場所へ行くか」


───────────────────────


 妄執ちゃんは写真から目を逸らさなかった。


 初めて。


 固定するためではなく。


 見届けるために。


 見ていた。


───────────────────────


 写真の中で。


 No.441が扉を開いた。


───────────────────────


 その瞬間。


 妄執ちゃんの個室に、シャッター音がした。


 パシャ。


 妄執ちゃんが振り返る。


 誰もいない。


 カメラもない。


───────────────────────


 壁を見る。


 七百万枚の写真。


 その一番端。


 今まで空白だった場所に。


 一枚。


 新しい写真が貼られていた。


───────────────────────


 写真の中には。


 No.441がいる。


 妄執ちゃんもいる。


 そして。


 二人の間に——


 一枚の扉がある。


───────────────────────


 タグが浮かぶ。


記録対象:No.441/妄執


状態:選択中


収容状態:未確定


撮影日時:現在


撮影者:——


 最後の欄だけが。


 空白だった。


───────────────────────


 妄執ちゃんは、その写真を見た。


 そして。


 小さく言った。


「……撮影者が、いませんわ」


 写真の中の妄執ちゃんが答えた。


「ええ」


「では、誰が撮りましたの?」


 写真の中の妄執ちゃんは笑った。


「まだ、決まっていませんわ」


───────────────────────


 妄執ちゃんはしばらく写真を見ていた。


 それから。


 初めて。


 写真を撮るためではなく。


 ただ、待つために。


 その場に座った。


───────────────────────


 翌朝。


 業務端末に通知が来た。


「担当者指定:妄執」×一件。


 妄執ちゃんは画面を開いた。


顧客番号:No.441


来店予定:未定


状態:選択中


 妄執ちゃんは承認ボタンを押さなかった。


 押せなかったのではない。


 押さなかった。


 画面を閉じた。


───────────────────────


 壁を見る。


 新しい写真。


 そこにはまだ、扉がある。


 開いたまま。


 その先は——


 何も写っていない。


 妄執ちゃんは写真に向かって言った。


「……ご自分で決めてくださいませ」


 写真の中から。


 返事はなかった。


 でも。


 扉だけが——


 少しだけ、動いた。

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