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第21話「先にいらっしゃいませと言った方」


───────────────────────


 朝。


 妄執ちゃんはいつものように個室で目を覚ました。


 十二面のモニターが、まだ夜の色を残している。


 鳥籠型ベッドから出た。


 リボンを整えた。


 壁を見た。


 七百万枚の写真。


 その中央に——一枚。


 妄執ちゃんの写真。


 写真の中の妄執ちゃんは、こちらを見ている。


 いつもの顔だった。


 微笑んでいる。


 呼吸している。


 妄執ちゃんは写真に近づいた。


「おはようございますわ」


 写真の中の妄執ちゃんも——


「おはようございますわ」


 と言った。


 少しだけ、時間がずれた。


 昨日までは——同時だった。


 今日は違った。


 写真の中の声が、ほんの少し早かった。


───────────────────────


 妄執ちゃんは黙って写真を見た。


 写真の中の妄執ちゃんも、こちらを見ている。


「……先におっしゃいましたわね」


 写真は答えない。


 ただ、笑っている。


───────────────────────


◆午前七時十六分


 業務端末が鳴った。


「担当者指定:妄執」×一件。


 妄執ちゃんは承認した。


 いつものように。


 そして、フロアへ向かった。


 廊下を歩いた。


 カウンターに立った。


 厨房の準備をした。


 パティを確認した。


 鉄板を温めた。


 いつもの朝だった。


───────────────────────


 午前十一時五十八分。


 フロアの開店二分前。


 妄執ちゃんはカウンターの内側に立っていた。


 誰もいない。


 扉は閉まっている。


 静かだった。


 そのとき。


 スピーカーから——声がした。


「いらっしゃいませ」


 妄執ちゃんが顔を上げた。


 店内に、誰もいない。


 もう一度。


「またお会いしましたわね」


 妄執ちゃんの声だった。


 カウンターの奥から聞こえた。


 妄執ちゃんは厨房を見た。


 誰もいない。


「……私ですわね」


 返事はなかった。


───────────────────────


 午前十二時。


 扉が開いた。


 No.441が来た。


「こんにちは」


「いらっしゃいませ」と妄執ちゃんは言った。


 No.441が少し笑った。


「また来ました」


「ええ」


「ダブルチーズバーガーを」


「かしこまりましたわ」


 妄執ちゃんは厨房へ向かった。


 その瞬間だった。


 厨房の奥から——


「かしこまりましたわ」


 もう一つの声がした。


 妄執ちゃんの声。


 No.441が止まった。


 妄執ちゃんも止まった。


 二人とも厨房を見る。


 誰もいない。


───────────────────────


「……今の」とNo.441が言った。


「ええ」


「妄執さんの声でしたよね」


「……ええ」


「でも、妄執さんはここにいる」


「ええ」


 No.441が壁を見た。


 中央の写真。


 写真の中の妄執ちゃんが——


 こちらを見ていた。


 笑っている。


───────────────────────


 No.441が写真に近づいた。


「……妄執さん」


 写真の中の妄執ちゃんが、こちらを見た。


「はい」


 返事があった。


 写真の中から。


 No.441が振り返った。


 フロアの妄執ちゃんが立っている。


「……二人とも返事しましたね」


「そうですわね」


「どちらが本物ですか」


 妄執ちゃんは少し考えた。


「……昨日も、その質問をされましたわ」


「今日は違います」


 No.441は写真を見た。


「今日は——写真の方が先に返事しました」


───────────────────────


 妄執ちゃんは何も言わなかった。


 No.441も黙った。


 写真の中の妄執ちゃんが、こちらを見ている。


 その口が動いた。


「……ダブルチーズバーガーをお作りしますわ」


 妄執ちゃんの手が止まった。


「まだ、作っていませんわ」


 写真の中の妄執ちゃんは微笑んだ。


「ええ」


「では——なぜ」


「お客様がいらっしゃいましたから」


 妄執ちゃんは写真を見た。


 写真の中の自分が言っている。


「お作りするのが、私の仕事ですわ」


───────────────────────


 No.441が写真から離れた。


「……変ですね」


「ええ」


「写真の中の妄執さんは、私が来ることを知っていたみたいです」


 妄執ちゃんは答えなかった。


 厨房を見る。


 鉄板は、まだ温まったばかりだ。


 パティは置かれていない。


 それなのに——


 厨房の奥から、焼ける音がした。


 ジュッ、と。


 一度だけ。


───────────────────────


 妄執ちゃんが厨房へ入った。


 鉄板の上に——


 パティが一枚、置かれていた。


 まだ誰も置いていない。


 妄執ちゃんはそれを見た。


 焼け目がついている。


 少しずつ。


 いつもの格子状の焼け目が。


「……」


 トングを取った。


 持ち上げた。


 裏返した。


 焼け目の形を見た。


 顔の輪郭に見えた。


 以前、何度も見た輪郭だった。


 でも——


 今日は違った。


 その輪郭が、妄執ちゃん自身の顔に見えた。


───────────────────────


 チーズを乗せた。


 ソースをかけた。


 バンズを合わせた。


 いつものダブルチーズバーガーが完成した。


 妄執ちゃんはそれを持って、フロアへ戻った。


 No.441の前に置いた。


「お待たせいたしましたわ」


「ありがとうございます」


 No.441はバーガーを持った。


 一口、食べた。


「……おいしい」


 いつもの言葉。


 でも今日は——


 壁の中央から、声がした。


「……おいしいですわ」


 No.441が止まった。


 妄執ちゃんも止まった。


 写真の中の妄執ちゃんが、笑っている。


───────────────────────


 No.441はゆっくりバーガーを見た。


 それから写真を見た。


「……食べてるんですか」


 写真の中の妄執ちゃんは答えない。


 でも——


 写真の中に、バーガーが一つある。


 今、No.441が持っているものと——


 同じバーガー。


「……妄執さん」


「はい」


「写真の中にも、同じものがあります」


「……ええ」


「でも、今作ったばかりですよね」


「ええ」


「写真の中の方が——先に食べてる」


 妄執ちゃんは写真を見た。


 写真の中の自分は、バーガーを持っている。


 そして——


 こちらを見ていた。


───────────────────────


 No.441が、静かに言った。


「もしかして」


「はい」


「写真は、私たちを記録しているんじゃなくて——」


 そこで言葉を止めた。


 妄執ちゃんも続きを言わなかった。


 写真の中の妄執ちゃんが、先に口を開いた。


「お客様」


 No.441が写真を見る。


「はい」


「また来ますか」


 No.441は少し考えた。


 そして笑った。


「……来ます」


 写真の中の妄執ちゃんが笑った。


「お待ちしていますわ」


───────────────────────


 その瞬間。


 フロアの妄執ちゃんが、初めて気づいた。


 写真の中の自分は——


 No.441が「また来ます」と言う前から、


 その言葉を待っていた。


 いや。


 待っていたのではない。


 知っていた。


───────────────────────


◆深夜・真意ちゃんの部屋


 真意ちゃんはルーペを持っていた。


 割れたルーペを、まだ使っている。


 中央の写真を調べていた。


 タグが浮かぶ。


「収容者:妄執」


「状態:安定」


「自覚:——」


 ここまでは昨日と同じ。


 真意ちゃんはさらに奥を見た。


 撮影日時。


 表示された数字を見た。


 止まった。


「……おかしい」


 もう一度確認した。


 撮影日時:


 明日。


───────────────────────


 真意ちゃんはルーペを下ろした。


 時計を見る。


 今日の日付。


 もう一度、写真を見る。


 撮影日時は——明日。


「……まだ撮られていない」


 写真の中に妄執ちゃんがいる。


 でも、その写真は——


 まだ存在していない時間に撮られたことになっている。


───────────────────────


 真意ちゃんは立ち上がった。


 秩序ちゃんのところへ向かった。


───────────────────────


◆秩序ちゃんへの報告


「写真の撮影日時がおかしい」


「どのくらいですか」


「一日です」


「一日?」


「明日になっています」


 秩序ちゃんが止まった。


「……未来の日付」


「ええ」


「では、明日撮られる写真が——今日、ここにある」


「そういうことになります」


 秩序ちゃんは端末を見た。


「撮影者は」


 真意ちゃんが黙った。


「誰ですか」と秩序ちゃんがもう一度聞いた。


「……妄執さんです」


「今日の妄執さん?」


「違います」


「では」


 真意ちゃんはルーペを見た。


 タグの最下層。


 今まで見えなかった欄が、一つだけ浮かんでいた。


撮影者:妄執


撮影時刻:明日 00:00:00


記録対象:本日までの全業務


備考:撮影後、対象は撮影を認識する。


───────────────────────


 秩序ちゃんが顔を上げた。


「……撮影後?」


「ええ」


「でも写真は、もうある」


「ええ」


「撮影されていないのに?」


「……ええ」


 二人とも黙った。


 しばらくして、秩序ちゃんが言った。


「始末書の件名を——」


 そこで止まった。


 端末を閉じた。


「……明日のことを、今日の始末書には書けませんね」


───────────────────────


◆深夜・妄執ちゃんの個室


 妄執ちゃんは鳥籠型ベッドに入った。


 壁を見る。


 七百万枚の写真。


 中央の一枚だけが、呼吸している。


 写真の中の妄執ちゃんも——


 こちらを見ている。


「……明日、写真を撮るのですわね」


 写真の中の妄執ちゃんは答えない。


 妄執ちゃんは少し考えた。


「では——今日は、まだ撮っていないのですわね」


 返事はない。


 でも写真の中の自分が、ゆっくり笑った。


「……おやすみなさいませ」


 妄執ちゃんは言った。


 写真の中から、声が返った。


「おやすみなさいませ」


 今度は——


 同時だった。


───────────────────────


 午前零時。


 十二面のモニターが、一瞬だけ全部白くなった。


 音はしなかった。


 フラッシュもなかった。


 ただ一枚。


 壁の中央の写真に——


 新しい文字が浮かんだ。


撮影完了。


───────────────────────


 そして、その写真の中の妄執ちゃんが——


 初めて、写真の外を見なかった。


 No.441を見ていた。


 まっすぐ。


 どこにもいない誰かを見るように。


「……次は、あなたですわ」


 誰に言ったのか。


 フロアには、誰もいなかった。


 でも——


 翌朝の業務端末には、


「担当者指定:妄執」×二件。


 と表示されていた。


 妄執ちゃんは画面を見た。


 一件目。


 No.441。


 二件目。


 空欄。


 名前も番号もない。


 ただ、指名だけが来ている。


 妄執ちゃんは承認した。


「……いらっしゃいませ」


 誰もいないフロアに向かって。


 写真の中の妄執ちゃんが——


 同じ言葉を、先に言った。


「またお会いしましたわね」


───────────────────────


 その朝。


 初めて、


 写真の中の妄執ちゃんの方が——


 客を迎えた。


 そしてフロアの妄執ちゃんは、


 まだ誰も来ていないカウンターで、


 誰かを待っていた。


 待っているのは——


 自分なのか。


 客なのか。


 それとも、


 明日から来る誰かなのか。


 妄執ちゃんには、わからなかった。


 ただ一つだけ、わかっていることがある。


 写真の中の妄執ちゃんも、


 本当のことだけを言っている。


「いらっしゃいませ」


 その声は——


 もう、壁の中だけから聞こえてはいなかった。


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