第19話「増えた写真」
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ある朝。
妄執ちゃんが個室で目を覚ました。
いつものように壁を見た。
七百万枚の写真。声のしない壁。空の写真。ノートを燃やして以来、ずっとこうだ。声がしない。中身がない。七百万枚が、ただ、貼ってある。
それだけのはずだった。
でも——
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一枚だけ。
昨日、なかった写真が、ある。
妄執ちゃんは起き上がった。
近づいた。
その写真を見た。
フロアで——ダブルチーズバーガーを食べているところが写っている。笑顔だ。席はカウンター寄りの席だ。光の加減はいつものフロアの光だ。
写真の表面が——かすかに動いている。
膨らんで、縮んで、また膨らんで。
呼吸している。
中に、人がいる。
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妄執ちゃんは写真を手に取った。
裏を見た。
手書きの文字が書いてある。
*「また来ます」*
それだけだ。
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妄執ちゃんはしばらく、写真を持ったまま立っていた。
ノートを開こうとした——ノートは新しいものが一冊ある。テーブルの上にある。
でも——手が動かなかった。
何を書けばいいか、わからなかった。
誰が来たのか。
いつ来たのか。
写真を見た。笑顔だ。フロアで食べている。幸せそうだ。
妄執ちゃんには——この人が誰かが、わからなかった。
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写真を壁に戻した。
壁の中央に。
前のNo.441の写真があった場所に——貼った。
「……おかえりなさいませ」と言った。
誰に言ったのか——今日は、はっきりしなかった。
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◆真意ちゃんの調査
真意ちゃんが気づいたのは午前中だった。
廊下を通りかかって、妄執ちゃんの個室のドアが少し開いているのを見た。
中を見ると——妄執ちゃんがいた。壁を見ていた。いつもの壁を見ていたが、中央の辺りをじっと見ていた。
「妄執ちゃん」と真意ちゃんは言った。
妄執ちゃんが振り返った。
「……真意ちゃん。少し来ていただけますか」
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真意ちゃんが個室に入った。
「見てほしいものがありますわ」と妄執ちゃんは言った。
壁の中央を指した。
「今朝、気づきましたわ。昨日はありませんでしたわ」
真意ちゃんが近づいた。写真を見た。
ルーペを取り出した。写真に向けた。
タグが浮かぶ。
「収容者:——」
名前の欄が空白だ。
「収容開始:今朝」
「状態:安定」
「自覚:——」
空白。
真意ちゃんはルーペを内部に向けた。
内側の空間が見えた。部屋がある。ダブルチーズバーガーがある。温かい。
人が一人、座っている。
こちらを——見た。
笑顔だった。
手を振った。
真意ちゃんはルーペを下ろした。
しばらく動けなかった。
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「……名前がわからない」と真意ちゃんは言った。
「ええ」
「誰が来たんですか」
妄執ちゃんは少し間を置いた。
「……わかりませんわ」
「わからない?」
「ええ」と妄執ちゃんは言った。「覚えていませんわ」
真意ちゃんが止まった。
「……覚えていない、は前にも聞きましたね」
「ええ」
「No.1の時と同じですか」
妄執ちゃんは答えなかった。
しばらくそのまま壁を見ていた。
「……今日の業務報告に書きますわ」と妄執ちゃんは言った。「新しいお客様が来た、と」
「それだけですか」
「それだけですわ」
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真意ちゃんは廊下に出た。
秩序ちゃんを探した。
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◆秩序ちゃんへの報告
「新しい写真が一枚増えています」と真意ちゃんは言った。「中に人がいます。名前のタグがない。妄執さんは覚えていないと言っています」
秩序ちゃんが止まった。
「……いつ来たんですか」
「今朝、妄執さんが気づいた。来たのは昨夜から今朝の間だと思います」
「昨夜——フロアに客は来ていませんでしたね」
「一件だけ来ました」と真意ちゃんは言った。「No.441です。外のカメラに映らなかった。いつも通りです」
「No.441は今もフロアに来ている」と秩序ちゃんは言った。「写真の中にはいない」
「ええ」
「では誰が」
二人とも黙った。
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「写真の裏に何か書いてあったと聞きました」と秩序ちゃんは言った。
「『また来ます』と書いてあります」と真意ちゃんは言った。
秩序ちゃんが少し止まった。
「……No.441の写真の裏にも、同じ文字がありましたね」
「ええ」
「No.441が書いた」
「ええ」
「今回の写真の裏の文字も——No.441が書いたんでしょうか」
真意ちゃんはルーペを見た。
「写真の中の人は——No.441じゃない」
「では誰が書いた」
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答えは出なかった。
真意ちゃんは妄執ちゃんの個室に戻った。
写真をもう一度、ルーペで見た。
内側の空間。部屋がある。ダブルチーズバーガーがある。人が座っている。
ルーペを近づけた。
人の顔が——見えそうで、見えない。角度を変えた。
その人がこちらを見た。また笑顔で、また手を振った。
でも今回は——何か言った。
ルーペ越しに、口が動いた。
何と言ったか、読めなかった。でも——声の質感だけが、かすかに伝わってきた気がした。
真意ちゃんはルーペを下ろした。
「……誰ですか、これ」と真意ちゃんは言った。
誰も答えなかった。
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◆深夜・妄執ちゃんの個室
モニターが十二面、静かに光っている。
壁を見た。
七百万枚の空の写真の中に——一枚だけ、呼吸している写真がある。
中央に貼った写真。
声がしている。かすかに。でも確かに。今日から、声がしている。
妄執ちゃんはノートを開いた。新しいノート。今日の業務記録を書いた。
指名:一件。No.441。ダブルチーズバーガー。退店。外部カメラ映り込みなし。
それを書いた後、少し手を止めた。
それから——一行だけ、別のことを書いた。
*新しい写真が一枚、増えた。覚えていない。*
ペンを置いた。
中央の写真を見た。
呼吸している。声がしている。幸せそうだ。
「……また来てくださいね」と妄執ちゃんは言った。
今日の「また来てくださいね」は——誰に向かって言ったのか、自分でもわからなかった。
中央の写真に向かって言ったのかもしれない。
No.441に向かって言ったのかもしれない。
あるいは——もっと別の誰かに向かって言ったのかもしれない。
わからない。
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◆深夜・秩序ちゃんへの業務報告
*接客・感情部門・日次報告書*
*提出者:妄執*
本日の指名対応件数:一件
本日の全客のご注文:ダブルチーズバーガー(一〇〇%)
退店後行動確認:一件、退店後外部カメラへの映り込みなし
翌日指名:一件、受付済み
特記事項:本日朝、個室の壁に新しい写真が一枚増えていることを確認しました。中に方がいらっしゃいます。来訪者の記憶はありません。写真の裏に「また来ます」の文字あり。壁の中央に貼りました。
以上。
*(秩序ちゃんによる返信)*
「妄執さん。確認しました。」
「一点だけ。」
「来訪者の記憶がないとのことですが——覚えていないのが、お客様だからですか。それとも——別の理由ですか」
返信まで、少し時間があった。
*(妄執ちゃん)*
「……わかりませんわ。」
「ただ——覚えていない、というより。」
「自分のことは、案外——覚えていないものかもしれませんわ。」
*(秩序ちゃん)*
「…………」
「妄執さん。」
*(妄執ちゃん)*
「はい。」
*(秩序ちゃん)*
「明日——もう一度、真意さんに写真を調べてもらいます。」
*(妄執ちゃん)*
「かしこまりましたわ。」
*(秩序ちゃん)*
「……おやすみなさい。」
*(妄執ちゃん)*
「おやすみなさいませ。」
───── 返信なし。 ─────
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翌朝、業務端末に通知が来た。
*「担当者指定:妄執」×一件。*
妄執ちゃんは承認した。
壁を見た。
七百万枚の写真の中に——中央だけ、呼吸している。声がしている。
フロアの準備を始めた。
今日も、来る。
一人が、来る。
それだけのことだ。




