第18話「質問」
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No.441が来た。
カウンターに立った妄執ちゃんを見て、いつものように少し笑った。
「いらっしゃいませ」と妄執ちゃんは言った。「またお会いしましたわね」
「また来ました」とNo.441は言った。「ダブルチーズバーガーを」
「かしこまりましたわ」
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食べた。
「おいしい」と言った。
いつもと同じだ。毎回言う。毎回、同じ言い方をする。
食べ終わって、「また来ます」と言おうとして——少し、止まった。
フロアを見回した。
壁を見た。
七百万枚の写真。声がしない壁。声のしない七百万枚。中央の写真も、声がしない。
「……妄執さん」
「はい」
「壁の声、しなくなりましたよね」
「ええ」と妄執ちゃんは言った。
「みなさん、どこに行ったんですか」
妄執ちゃんは少し間を置いた。
「……先に進まれましたわ」とだけ言った。
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No.441が少し考えた。
壁を見た。七百万枚の写真を見た。
「……妄執さんは」とNo.441は言った。「寂しくないですか」
妄執ちゃんが——止まった。
一拍より長い、止まり方だった。
いつもは言葉が遅れない。「かしこまりましたわ」「ええ」「問題ありませんわ」——全部、間がない。
今は、間がある。
「……寂しい、というのが」と妄執ちゃんは言いかけた。「よくわかりませんわ」
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「私が来なかった三年間は、どうでしたか」とNo.441が聞いた。
「……みなさんがいましたわ」と妄執ちゃんは言った。「声がしていましたわ」
「みなさんがいたから、大丈夫でしたか」
「……業務に支障はありませんでしたわ」
「それは聞いてないです」とNo.441は言った。穏やかに、でもはっきりと。
妄執ちゃんは少し止まった。
「……そうですわね」
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「私が来なかったことは——気になっていましたか」
妄執ちゃんは答えた。間を置かずに。
「気になっていましたわ」
「なぜですか」
「来ると言っていましたから」
「それだけですか」
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妄執ちゃんは少し止まった。
今度の止まり方は、さっきと違った。迷っているのではなく——確認している止まり方だ。何かを、自分の中で確かめている。
「……それだけでは、ないかもしれませんわ」
No.441が少し笑った。
「私もです」と言った。「来るべき理由は——一つじゃなかった」
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妄執ちゃんはNo.441を見た。
No.441は壁を見ていた。中央の写真の場所を見ていた。No.441の後ろ姿が写った、声のしない写真の場所を。
「仕組みは知っていました」とNo.441は言った。「来たら、帰れなくなるって。外のカメラに映らなくなるって。三年前に気づいた」
「……ええ」
「知っていて——来た」
「……ええ」
「ダブルチーズバーガーを食べた。写真になった」
「……ええ」
「それは——バーガーの引力だったかもしれない。でも」
No.441が少し間を置いた。
「引力じゃない理由も、あったかもしれない」
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妄執ちゃんは答えなかった。
No.441を見ていた。
No.441が妄執ちゃんを見た。
「妄執さんは——」とNo.441は言いかけた。「いや、いいです」
「……何ですか」
「妄執さんは、私に来てほしかったですか」
妄執ちゃんは少し止まった。
「……来ると言っていましたから」と言った。
「それは聞いたことのある答えです」とNo.441は言った。微笑んでいた。
妄執ちゃんは何も言わなかった。
しばらく、カウンターの向こうで静かにしていた。
「……来てほしかったかどうかは」とやがて言った。「わかりませんわ」
「でも——気になっていた」
「ええ」
「それだけじゃないかもしれない、とも言った」
「……ええ」
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No.441が立ち上がった。
「また来ます」と言った。
妄執ちゃんは「お待ちしていますわ」と言おうとした。
少しだけ——言葉が遅れた。
「……お待ちしていますわ」と言った。
いつもと同じ言葉だ。
でも今日は——言葉を探した後に出てきた言葉だ。
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No.441が南の出口から出た。
外のカメラに映らなかった。
いつものことだ。
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◆深夜・妄執ちゃんの個室
モニターが十二面、静かに光っている。
壁から声がしない。
妄執ちゃんはテーブルに座っていた。新しいノートが開いている。今日の記録を書いた。一件。No.441。ダブルチーズバーガー。退店。外部カメラ映り込みなし。
ペンを持ったまま、止まった。
「それだけでは、ないかもしれませんわ」と今日言った。
その言葉の意味を、妄執ちゃんは自分でも正確にはわからない。
来ると言っていたから気になっていた——それは本当だ。
でも「それだけではないかもしれない」——それも本当の気がした。
「本当の気がした」というだけで、何が「それ以外」なのかは——言葉にならなかった。
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ノートに一行だけ、別のことを書いた。
*「それだけでは、ないかもしれない」と言った。*
書いてから——少し見た。
書いたことが正しいかどうか、確かめるように見た。
正しいと思った。
ペンを置いた。
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◆深夜・秩序ちゃんへの業務報告
*接客・感情部門・日次報告書*
*提出者:妄執*
本日の指名対応件数:一件
本日の全客のご注文:ダブルチーズバーガー(一〇〇%)
退店後行動確認:一件、退店後外部カメラへの映り込みなし
翌日指名:一件、受付済み
特記事項:なし
以上。
*(秩序ちゃんによる返信)*
「妄執さん。確認しました。」
「一点だけ聞いてもいいですか。」
「今日——何か、いつもと違うことはありましたか」
返信まで、少し時間があった。
*(妄執ちゃん)*
「……一つ、わからないことがありましたわ。」
*(秩序ちゃん)*
「何がわからなかったんですか」
*(妄執ちゃん)*
「……来てほしかったかどうか、という問いですわ。」
「わからないと答えましたわ。」
「でも——答えながら、わからないのが答えではない気もしましたわ。」
*(秩序ちゃん)*
「…………」
「妄執さん。」
*(妄執ちゃん)*
「はい。」
*(秩序ちゃん)*
「それは——大事なことだと思います。」
*(妄執ちゃん)*
「……そうかもしれませんわ。」
「よくわかりませんわ。」
*(秩序ちゃん)*
「……おやすみなさい。」
*(妄執ちゃん)*
「おやすみなさいませ。」
───── 返信なし。 ─────
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翌朝、業務端末に通知が来た。
*「担当者指定:妄執」×一件。*
妄執ちゃんは承認した。
壁を見た。声がしない。
中央の写真を見た。No.441の後ろ姿。声がしない。
今日も来る。
「来てほしかったかどうか」——その問いを、妄執ちゃんはまだ持っていた。答えが出ていない。でも昨日より少しだけ、答えに近い何かが、ある気がした。
フロアの準備を始めた。
それだけのことだ。




