第17話「ダブルチーズバーガー」
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ノートを燃やして、三日が経った。
フロアに指名が来なかった。
一件も来なかった。
当然だ。写真の中にいた人たちが供給された。指名を出す存在がいなくなった。壁から声がしない。声がしないから、フロアは静かだ。
No.441は来た。
今日もカウンターに来て、ダブルチーズバーガーを頼んで、食べて、「また来ます」と言って出ていった。外のカメラに映らなかった。いつものことだ。
それだけだった。
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深夜。
フロアが静かだ。モニターが十二面、光っている。壁から声がしない。七百万枚の写真が、ただ貼ってある。
妄執ちゃんはキッチンにいた。
理由を説明できない。業務は終わっている。明日の準備も済んでいる。でも——来てしまった。
パティを一枚、鉄板に乗せた。
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焼けていく音がする。
キッチンの音だけがする。フロアは静かだ。廊下も静かだ。ぱんでむの中で、今動いているのは——鉄板の上のパティだけだ。
いつもの音だ。
何万回と聞いた音だ。
でも今夜は——少し違う気がした。
いつもはこの音の向こうに、壁の声がある。重なって、混ざって、誰かの日常の音がしている。今夜はそれがない。パティの焼ける音だけが、キッチンに響いている。
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チーズを乗せた。ソースをかけた。バンズを合わせた。
完成した。
妄執ちゃんはダブルチーズバーガーを手に取った。
カウンターに置かなかった。
誰かに渡さなかった。
手の中にある。温かい。
「……いただきますわ」と妄執ちゃんは言った。
誰もいないキッチンで、言った。
一口、食べた。
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しばらく、動かなかった。
バンズの感触。チーズの塩気。ソースのにおい。パティの——
パティの中に、何かがある。
食べた客が感じるものを、今、妄執ちゃんが感じている。「また来たい」という引力を。「ここが居場所だ」という感触を。
でもそれだけではない。
もっと奥に——何かがある。
第六話の夜に感じたものだ。パティの焼き目に輪郭を見た夜。「ずっと、ここにいましたわね」と言った夜。あの夜に確かめたかったものが——今、口の中にある。
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もう一口、食べた。
「……美味しいですわ」と妄執ちゃんは言った。
誰に言ったのか——わからない。
もう一口食べた。
食べながら——手のひらを見た。
何万回もパティを返してきた手だ。何万回もバンズを合わせてきた手だ。「最初から作り方を知っていた」手だ。
教えてくれていた、かもしれない手だ。
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食べ終わった。
「……ありがとうございますわ」と妄執ちゃんは言った。
誰に言ったのか——やはりわからない。
でも言った。
言わなければならない気がした。
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しばらく、キッチンに立っていた。
何かが変わったかどうか——妄執ちゃんにはわからない。
体の感触は変わっていない。
フロアは静かなままだ。
壁から声はしない。
ただ——何か一つだけ、変わった気がすることがある。
「また来てくださいね」と毎日言い続けてきた。中央の写真に向かって。声のしない写真に向かって。
今夜は——その言葉が、少しだけ、違う方向に向いている気がした。
外ではなく。
内側に向かって。
自分自身に向かって言っているような——そんな感触が、一瞬だけあった。
それだけだ。
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妄執ちゃんはキッチンの明かりを消した。
廊下に出た。
個室に戻った。
テーブルの上に、新しいノートがある。昨日から置いてある。今日の日付だけ書いたノートだ。
ページを開いた。
今日の業務記録を書いた。
一件。No.441。ダブルチーズバーガー。退店。外部カメラ映り込みなし。
それだけ書いた。
ペンを持ったまま、少し止まった。
一行だけ、別のことを書こうとした。
書かなかった。
ノートを閉じた。
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◆ 深夜・秩序ちゃんへの業務報告
*接客・感情部門・日次報告書*
*提出者:妄執*
本日の指名対応件数:一件
本日の全客のご注文:ダブルチーズバーガー(一〇〇%)
退店後行動確認:一件、退店後外部カメラへの映り込みなし
翌日指名:一件、受付済み
特記事項:なし
以上。
*(秩序ちゃんによる返信)*
「妄執さん。確認しました。」
「特記事項なし、とのことですが——今夜、キッチンに灯りがついていたようです。業務時間外でしたが」
*(妄執ちゃん)*
「少し、確認したいことがありましたわ。」
*(秩序ちゃん)*
「何を確認したんですか」
返信まで、少し時間があった。
*(妄執ちゃん)*
「……ずっとここにいてくださった方の、確認ですわ。」
*(秩序ちゃん)*
「……」
「わかりました。」
「おやすみなさい。」
*(妄執ちゃん)*
「おやすみなさいませ。」
───── 返信なし。 ─────
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翌朝の業務端末に、通知が来た。
*「担当者指定:妄執」× 一件。*
妄執ちゃんは承認した。
壁を見た。
声がしない。
中央の写真を見た。
声がしない。
今日も来る。一人が来る。
妄執ちゃんはキッチンに向かった。
フロアの準備を始めた。
パティを鉄板に置いた。
焼けていく音がした。
いつもの音だ。
でも今日は——少しだけ、その音を、長く聞いていた。




