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第16話「焼けたノート」

───────────────────────



 七百万件の声が止まった翌日。



 秩序ちゃんが廊下を歩いていた。



 においがした。



 焦げたにおいだ。



 立ち止まった。妄執ちゃんの個室の前だった。ドアの隙間から、薄く煙が漏れている。



 ノックした。三回。



「どうぞ」



───────────────────────



 入った。



 妄執ちゃんが床に座っていた。



 小型の焼却皿が前にある。



 ノートが、燃えていた。



 第一冊目から順番に並んでいる。灰になったものが、皿の隣に積んである。今、第五冊目が燃えている。炎は小さい。静かだ。



 秩序ちゃんが止まった。



「……妄執さん」



「おはようございますわ、秩序ちゃん」と妄執ちゃんは言った。落ち着いた声だった。手が止まらなかった。第五冊目が灰になっていく。



「それは——」



「記録ですわ」と妄執ちゃんは言った。「みなさんいなくなりましたから、記録も必要ないかと」



───────────────────────



「消してはいけません」と秩序ちゃんは言った。「それは管理記録です。保存義務があります」



「そうですわね」と妄執ちゃんは言った。



 でも——手を止めなかった。



 第五冊目が灰になった。



 第六冊目を手に取った。



「……妄執さん」



「覚えていますわ」と妄執ちゃんは言った。静かに、当然のことを言うように。「ノートを燃やしても、私はみなさんのことを覚えていますわ。だから記録がなくても、問題ありませんわ」



「問題があります」と秩序ちゃんは言った。



「何が問題ですか」



───────────────────────



 秩序ちゃんは答えられなかった。



 被害者はいない。昨日いなくなった。供給された。消えた。管理記録上は「供給完了」と一行ある。


 守るべき証拠が——誰のためのものか、わからない。



 みなさんはもういない。記録を残すことが、誰の利益になるか——言えなかった。



「……みなさんはもういませんわ」と妄執ちゃんは言った。確かめるように、静かに。「記録を残すことは、みなさんにとって良いことなのか——わからなくなりましたわ」



 第六冊目が燃え始めた。



───────────────────────



 秩序ちゃんはもう一度「やめてください」と言おうとした。



 言えなかった。



 止める理由が、言葉にならなかった。



 廊下に出た。ドアを閉めた。



 焦げたにおいが、廊下まで漂っていた。



───────────────────────



◆廊下



 秩序ちゃんは端末を開いた。



 始末書のフォームを開いた。



 件名の欄に、今日初めて、何かを書こうとした。



「観測記録の——」



 止まった。



「焼却について」と書くのか。


「破棄について」と書くのか。



 誰に提出するのか。



 七百万人はいなくなった。被害者がいない。始末書を受け取る対象が——いない。



「……誰に提出するんですか、これ」と秩序ちゃんは独り言を言った。



 誰も答えなかった。



 廊下は静かだった。



 焦げたにおいだけが、している。



───────────────────────



◆午後



 真意ちゃんが秩序ちゃんを見つけた。廊下のベンチに座っていた。端末を持ったまま、何も打っていなかった。



「どうしたんですか」



「……始末書を書いているんですが」と秩序ちゃんは言った。「件名が書けなくて」



「何の始末書ですか」



「妄執さんがノートを燃やしています」



 真意ちゃんが少し止まった。



「……止めなかったんですか」



「止める言葉が出てこなかったんです」と秩序ちゃんは言った。「あのノートは——誰の記録ですか」



「妄執さんの管理記録です」



「管理対象がいなくなった後の、管理記録は——誰のものですか」



 真意ちゃんは答えなかった。



「……誰が困るか、わからなかったんです」と秩序ちゃんは言った。「それだけのことです」



───────────────────────



◆夕方・妄執ちゃんの個室



 秩序ちゃんがもう一度ドアをノックした。



「どうぞ」



 入ると——焼却皿の前に、灰が積んである。



 ノートが一冊も残っていなかった。



 第一冊目から第三十六冊目まで、全部。



 灰になっている。



 妄執ちゃんは窓際に立って外を見ていた。振り返った。



「全部、燃やしましたわ」と言った。



───────────────────────



 秩序ちゃんが一歩入った。



「……No.1の記録も」



「ええ」



「No.441の記録も」



「ええ」



「全部」



「全部ですわ」



 秩序ちゃんは灰を見た。三十六冊分の灰だ。



「……覚えていると言いましたね」



「ええ」と妄執ちゃんは言った。「覚えていますわ。みなさんの声を、足音を、注文を——全部覚えていますわ。ノートがなくても消えません」



「No.1の来た日のことも」



「……」



 妄執ちゃんは少し止まった。



「覚えていますわ」と言った。



 秩序ちゃんは妄執ちゃんを見た。



 妄執ちゃんは窓の外を見た。



───────────────────────



 秩序ちゃんは何も言わなかった。



 言える言葉が、なかった。



 ドアを閉めた。



 廊下に出た。



 端末を見た。始末書のフォームがまだ開いている。件名の欄は空白のままだ。



 秩序ちゃんは件名を打った。



*「記録焼却について(提出先未定)」*



 本文を打とうとして——止まった。



 保存だけして、閉じた。



───────────────────────



◆深夜・妄執ちゃんの個室



 モニターが十二面、静かに光っている。



 壁から声がしない。



 棚を見た。三十六冊分の空白がある。ノートがあった場所が、空だ。



 妄執ちゃんは棚の前に立って、その空白を少し見た。



 それから、新しいノートを一冊、取り出した。



 棚の隅に入っていた、まだ使っていないノートだ。表紙が真白だ。



 テーブルに置いた。



 開かなかった。



 ただ、置いた。



───────────────────────



 鳥籠型ベッドに入った。



 上を向いた。



 中央の写真を見た。後ろ姿。声がしない。



 壁を見た。七百万枚の写真。声がしない。



 みなさんの声が——ない。



 覚えている。覚えているから——全員の声が、今も耳の中にある。



 No.2778の声。No.114の声。No.3391の声。



 全員、覚えている。



 No.1の——



 妄執ちゃんは目を閉じた。



───────────────────────



◆深夜・秩序ちゃんへの業務報告



*接客・感情部門・日次報告書*

*提出者:妄執*


本日の指名対応件数:一件

本日の全客のご注文:ダブルチーズバーガー(一〇〇%)

退店後行動確認:一件、退店後外部カメラへの映り込みなし

翌日指名:一件、受付済み


特記事項:本日、観測記録(第一冊目〜第三十六冊目)を焼却しました。覚えているため、記録は不要と判断しました。

以上。



*(秩序ちゃんによる返信)*


「妄執さん。確認しました。」

「一点だけ確認させてください。」

「No.1の記録も、全部燃やしましたか」


*(妄執ちゃん)*


「ええ。」


*(秩序ちゃん)*


「No.1のことは——覚えていますか」


 返信まで、少し時間があった。


*(妄執ちゃん)*


「覚えていますわ。」


*(秩序ちゃん)*


「……来た日のことも」


*(妄執ちゃん)*


「覚えていますわ。」


*(秩序ちゃん)*


「……わかりました。」

「おやすみなさい。」


───── 返信なし。 ─────



───────────────────────



 翌朝、業務端末に通知が来た。



*「担当者指定:妄執」×一件。*



 妄執ちゃんは承認した。



 テーブルの上の、真白いノートを見た。



 手に取った。



 開いた。



 一ページ目。何も書いていない、白いページ。



 ペンを持った。



 今日の日付を書いた。



 それだけ書いた。



 ペンを置いた。



 フロアの準備を始めた。


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