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第15話「止まった日」

───────────────────────



 最初の客が戻ってきて、数日後。



 妄執ちゃんが朝、個室で目を覚ました。



 おかしい、と思った。



 どこがおかしいのか、一瞬わからなかった。天井の写真は全部ある。モニターが十二面、静かに光っている。リボンは昨日のままだ。



 わかった。



 声がしない。



───────────────────────



 妄執ちゃんは起き上がった。



 壁を見た。



 七百万枚の写真。全部ある。一枚も落ちていない。位置もずれていない。昨日と変わっていない。



 でも——



 声がしない。



「……おはようございます」と妄執ちゃんは言った。



 返事がなかった。



 壁は静かだった。



 振動もない。紙が揺れていない。ただの紙が、ただ貼ってある。



「No.114」と妄執ちゃんは言った。「No.2778。No.3391」



 何もしない壁が、ある。



───────────────────────



 ノートを開いた。昨日の記録がある。二十五件の来店記録。全員声がしていた。全員ダブルチーズバーガーを食べた。全員、来た。



 今朝——止まった。



 妄執ちゃんはノートを閉じた。



 着替えた。リボンを直した。



 個室を出た。



───────────────────────



◆真意ちゃんの調査



 真意ちゃんに声をかけた。



「調べてほしいことがありますわ」



「何ですか」



「壁の声が、今朝から止まっています。写真は全部あります。でも、声がしません」



 真意ちゃんはすぐに個室に来た。



 MetadataVisionのルーペを写真に向けた。



 タグが浮かぶ。読んだ。



「……収容者:No.○○○○」と真意ちゃんは読み上げた。「状態:」



 止まった。



「状態の欄が、空白です」



「空白」と妄執ちゃんは言った。



「昨日まで『安定』と入っていた欄が——空白になっています」と真意ちゃんは言った。「安定でも不安定でもない、という空白ではない。状態、という概念自体が——なくなっているような空白です」



 ルーペを写真の表面に近づけた。内側を見るように、角度を変えた。



 ルーペを下ろした。



「内側が、見えません」



「以前は」と妄執ちゃんは言った。



「部屋がありました。ダブルチーズバーガーがありました。人がいました」と真意ちゃんは言った。「今は——何も見えません。平面です。ただの紙です」



───────────────────────



 真意ちゃんは別の写真にもルーペを向けた。同じだった。また別の写真。同じだった。



 左端の区画。右上の区画。中央を避けた全部の写真。



 全部、同じだった。



「……全員、いなくなった」と真意ちゃんは言った。「移動したのか、消えたのか——どちらかわからない。でも中にいない」



 妄執ちゃんは壁を見た。



 七百万枚の写真が、全部ある。



 中身が、全部ない。



───────────────────────



「写真の中の方々が、どこに行ったか——心当たりはありますか」と真意ちゃんが聞いた。



 妄執ちゃんは少し間を置いた。



「……ドナルド・コアに供給された、のかもしれませんわ」



 真意ちゃんが止まった。



「……知っていたんですか」



 妄執ちゃんは答えなかった。



 しばらく壁を見た。



「……写真はここにありますわ」と言った。「みなさんの記録は、ここにありますわ」



「でも、中にはもういない」



「……ええ」



───────────────────────



「——妄執さん」と真意ちゃんは言った。



「はい」



「それは、良かったと思いますか」



 妄執ちゃんはしばらく、壁を見ていた。



 七百万枚の写真が、声もなく、ただ貼ってある。



「……みなさん、幸せそうでしたわ」と妄執ちゃんは言った。



 過去形で言った。



 それだけ言った。



───────────────────────



◆秩序ちゃんへの報告



 真意ちゃんが秩序ちゃんに報告した。



 秩序ちゃんはしばらく黙っていた。



「ドナルド・コアへの供給、とは」



「妄執さんがそう言っていました」



「妄執さんは知っていた、ということですか」



「……聞き返したら、答えませんでした」と真意ちゃんは言った。



 秩序ちゃんは端末を見た。業務ログを引いた。グリマス博士の記録端末へのアクセス権限は秩序ちゃんにはない。参照できるのは通常の収容管理記録だけだ。



 収容管理記録に、今朝の時刻で自動ログが一件書き込まれていた。



```

収容対象:全件

状態更新:供給完了

備考:——

```



 備考欄は空白だった。



「……始末書を書く必要がありますか」と真意ちゃんが聞いた。



「……被害者がいません」と秩序ちゃんは言った。「いなくなりました。だから被害者がいない。でも——」



 言葉が続かなかった。



「件名を、何と書けばいいかわかりません」と秩序ちゃんは言った。それだけ言った。



───────────────────────



◆フロア



 今日、指名が来なかった。



 一件も来なかった。



 当然だ。写真の中にいた人たちがいなくなった。指名を出す存在がいない。



 妄執ちゃんはカウンターに立って、フロアを見た。



 席が十四。全部、空だ。



 壁から声がしない。



 いつもなら——重なって、混ざって、日常の音がしている。今は何もない。



 しばらくカウンターに立っていた。



 そこへ、扉が開いた。



───────────────────────



「いらっしゃいませ」と妄執ちゃんは言った。



 No.441が来た。



「こんにちは」とNo.441は言った。カウンターを見た。妄執ちゃんを見た。「……今日、静かですね」



「ええ」



「いつもは、なんか——声がしてた気がして。壁の方から」



「……そうですわね」と妄執ちゃんは言った。



「今日はしないですね」



「ええ」



 No.441が少し壁を見た。それから妄執ちゃんを見た。



「ダブルチーズバーガーを」



「かしこまりましたわ」



───────────────────────



 妄執ちゃんは厨房に下がった。



 パティを鉄板に乗せた。



 焼けていく音がする。キッチンの音だけがする。フロアは静かだ。壁は静かだ。



 チーズを乗せた。ソースをかけた。バンズを合わせた。



 持って出た。



 No.441に渡した。



「ありがとうございます」



 食べた。「おいしい」と言った。



 今日も言った。いつもと同じように言った。



───────────────────────



 No.441が帰り際、少し立ち止まった。



「……また来ます」



「お待ちしていますわ」と妄執ちゃんは言った。



 南の出口から出た。



 外のカメラに——映らなかった。



 いつものことだ。



───────────────────────



◆深夜・妄執ちゃんの個室



 モニターが十二面、静かに光っている。



 壁から声がしない。



 妄執ちゃんはノートを開いた。今日のページ。



 来店記録を書いた。



*本日の指名対応件数:一件。*



 一件、と書いた。



 ペンを止めた。



 No.441専用の欄を開いた。日数を書こうとして——止まった。



 No.441は今日来た。写真の中にいる。写真の中にいる人は、来店扱いになる。だから専用の欄の日数は、今日で一区切りだ。



 妄執ちゃんはその欄を、しばらく見た。



 最後の数字がある。来た日の記録がある。



 新しい数字を書く必要は——もうない。



 ペンを置いた。



───────────────────────



 壁を見た。



 七百万枚の写真。声のしない写真。中身のない写真。



 中央の写真を見た。



 後ろ姿の写真。声がしない。中に誰もいない。いつもと変わらない。



「……みなさん、幸せそうでしたわ」と妄執ちゃんは言った。



 誰もいない個室で言った。



 本当のことだけを言っている。



───────────────────────



◆深夜・秩序ちゃんへの業務報告



*接客・感情部門・日次報告書*

*提出者:妄執*


本日の指名対応件数:一件

本日の全客のご注文:ダブルチーズバーガー(一〇〇%)

退店後行動確認:一件、退店後外部カメラへの映り込みなし

翌日指名:一件、受付済み


特記事項:本日朝より収容者全件の声が停止。写真内部の空間も確認不能となりました。真意ちゃんに調査を依頼しました。収容管理記録に「供給完了」のログを確認しています。

以上。



*(秩序ちゃんによる返信)*


「妄執さん。確認しました。」

「『供給完了』の意味について——妄執さんは、以前から知っていたのですか」


 返信まで、少し時間があった。


*(妄執ちゃん)*


「……知っていましたわ。」


*(秩序ちゃん)*


「いつから」


*(妄執ちゃん)*


「最初から、かもしれませんわ。」


*(秩序ちゃん)*


「…………」

「みなさんのことは——どう思っていますか」


*(妄執ちゃん)*


「みなさん、幸せそうでしたわ。」

「よかったと思っていますわ。」


*(秩序ちゃん)*


「……そうですか。」

「おやすみなさい。」

「妄執さん。」


*(妄執ちゃん)*


「はい。」


*(秩序ちゃん)*


「……また来る人は、いますか」


*(妄執ちゃん)*


「一人、いますわ。」

「来ると言っていましたから。」


*(秩序ちゃん)*


「……おやすみなさい。」


───── 返信なし。 ─────



───────────────────────



 翌朝、業務端末に通知が来た。



*「担当者指定:妄執」×一件。*



 妄執ちゃんは承認した。



 壁を見た。



 声がしない。



 中央の写真を見た。



 声がしない。



 いつもと変わらない写真が、中央にある。



 フロアの準備を始めた。



 今日も、来る。



 一人が、来る。



 それだけのことだ。


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