第13話「出してみた」
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翌朝、秩序ちゃんが妄執ちゃんの個室を訪ねた。
ドアを三回ノックした。
「どうぞ」
入った。
妄執ちゃんはいつもの席に座っていた。十二面のモニターが静かに光っている。ノートが開いている。今日の日付のページに、まだ何も書かれていない。
「昨日の真意ちゃんの報告について」と秩序ちゃんは言った。「確認させてください」
「はい」
「手紙を書いた方は、No.1——最初の来客だとわかりました」
「……ええ」
「その方は、ずっと出たいと思っていた」
「……そうかもしれませんわ」
秩序ちゃんは少し間を置いた。
「妄執さん」
「はい」
「写真を剥がすことを——試みていいですか。本人が望んでいます」
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妄執ちゃんは少し止まった。
ノートに目を落とした。今日の日付のページ。まだ空白だ。
「……かまいませんわ」
秩序ちゃんが少し前に出た。
「本当に、よろしいですか」
「……本人が望んでいるなら」と妄執ちゃんは言った。「それで正しいですわ」
声の質感は、いつもと変わらない。
秩序ちゃんは妄執ちゃんをもう一度見た。それから、壁に向かった。
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真意ちゃんがMetadataVisionで発信元の写真を特定していた。
壁の左端の区画。最初期の観測者のエリア。一枚だけ、タグの光の色が他と少し違う写真がある。青みがかっている。他が温かい色をしているのに、その一枚だけが——冷たい色をしている。
「これです」と真意ちゃんは言った。
秩序ちゃんが近づいた。
写真の表面を見た。
フロアでダブルチーズバーガーを食べているところが写っている。笑顔だ。でも——他の写真の笑顔とは少し違う気がした。少し違う、というだけで、笑顔には違いない。
秩序ちゃんは写真の端に指をかけた。
「失礼します」と言った。
剥がした。
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写真が光った。
薄く、白く、光が滲んだ。
写真の表面が——少しずつ、開いた。
光が広がって、それから——収まった。
人が、出てきた。
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フロアに似た空間から、一歩、踏み出してきた。
空気を吸った。フロアの空気だ。
立っている。
秩序ちゃんと真意ちゃんが、その人の顔を見た。
二人とも——少し、止まった。
**老いていた。**
写真に写っていた顔は、若かった。でも——出てきた顔は、何十年も経った顔だ。
白い髪が、混じっている。
顔の線が、深い。
手が——しわを刻んでいる。
でも眼差しは、はっきりしていた。落ち着いていた。急いでいない。写真から出た今、この場所に慣れる時間をかけて、ゆっくりと周囲を見回した。
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「外は、こんなに明るいんですか」と、その人が言った。
フロアの光を見上げながら言った。
静かな声だった。驚いているというより——確認している声だ。
「……ここに来たのは、いつですか」と秩序ちゃんが聞いた。
その人が少し考えた。
「……覚えていません」と言った。「ずっと前だと思います。中では——時間が、あまりわからなかったので」
「中では時間が経っていた、ということですか」
「……ええ。経っていました」とその人は言った。「外に出たらすぐわかりました。いろいろ、変わっていますから」
秩序ちゃんが真意ちゃんを見た。真意ちゃんは何も言わなかった。
写真の中でも、時間は流れていた。
幸せな空間だったかもしれない。でも——時間は、止まっていなかった。
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「ずっと、出たかったんですよね」と秩序ちゃんは言った。
「……ええ」とその人が言った。「出たかった。ずっと、出たかった」
少し止まった。
「なぜ今まで言わなかったのですか」と真意ちゃんが聞いた。
「……言っていいとは思っていなかった」
真意ちゃんが少し前に出た。
「なぜ」
「みなさん、幸せそうでしたから」とその人は言った。穏やかな言い方だった。「声がしていましたから。楽しそうな声が。私だけ——なんか、違うと思っていて」
「違う、とは」
「出たい、と思っていることが——おかしいのかと。みんなはここが好きなのに、私だけ出たいのは、何か足りないのかと」
真意ちゃんはルーペを手の中で握った。何も言わなかった。
「でも——手紙は書いた」と秩序ちゃんが言った。
「……ええ」とその人が言った。「いつからか、もう——どうしても、出たくて。一人だけでいいと思いました。みんなを連れ出すことはできなくていい。でも、私だけでも」
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妄執ちゃんがフロアの端に立っていた。
いつからそこにいたのか——秩序ちゃんも真意ちゃんも、気づいていなかった。
壁際に立って、その人の顔を見ていた。
何も言わなかった。
その人が妄執ちゃんを見た。
少し間があった。
「……あなたが、妄執さんですか」
「ええ」と妄執ちゃんは言った。
「……覚えていますか。私のことを」
妄執ちゃんは少し止まった。
壁を見た。七百万枚の写真。左端の区画。今は一枚分、空白になっている場所。
「……覚えていませんわ」
その人が少し、息を吐いた。
悲しいのか、安堵なのか——どちらとも読める顔だった。
「そうですか」とだけ言った。
それ以上は言わなかった。
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◆秩序ちゃんの問い
「もう一つ、確認させてください」と秩序ちゃんがその人に言った。
「はい」
「ノートに——書き込みがありました。第一冊目の、最初のページの余白に。妄執さんの筆跡ではない字で」
その人が少し待った。
「……書きました」
「写真に収まる前に?」
「来た日に——帰ろうとして」とその人は言った。「カウンターにノートが置いてあって、そこに」
「来た日に帰れた、ということですか」
「……帰れると思いました。その日は、バーガーを食べなかったので」とその人は言った。「でも——次に来た日に、食べてしまって」
秩序ちゃんが少し止まった。
「次に来た日に」
「また来てしまいました。ここが——落ち着いたから」
それだけ言って、その人は少し下を向いた。
「……いつ来たかは、正確には覚えていません。ずっと前です。ノートに書いたのは——また来ると思っていたから。書いておきたかったんだと思います」
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妄執ちゃんはその話を聞いていた。
壁に目を向けた。一枚分の空白を見た。
何も言わなかった。
ノートを持っていなかった。今日は持ってきていない。
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◆退室
「外に出たいですか」と秩序ちゃんが聞いた。「今日、帰れます」
その人が少し考えた。
「……帰ります」とやがて言った。
「わかりました」
「ここには——もう来ないほうがいいですか」
秩序ちゃんは少し間を置いた。
「それは——あなたが決めることです」と秩序ちゃんは言った。「来てはいけない理由は、ありません」
その人が頷いた。
それからもう一度、妄執ちゃんを見た。
「……ありがとうございました」とその人が言った。
妄執ちゃんは少し止まった。
「……お気をつけて」と妄執ちゃんは言った。
それだけだった。
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その人が、南の出口へ向かった。
一歩、踏み出した。
出口の外の光の中へ、歩いていった。
モニターが切り替わった。
外のカメラに——映った。
本当に、映った。
まっすぐ、歩いていく後ろ姿が。
妄執ちゃんはモニターを見た。動かなかった。後ろ姿が、画面の端に消えるまで、見た。
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◆フロアの後
真意ちゃんが秩序ちゃんに話しかけた。
「……写真の中で、何十年も経っていた」
「ええ」
「幸せそうな声はしていた。でも時間は流れていた」
「……そうですね」
「時間が流れていたということは」と真意ちゃんは言った。「他の方々も——」
「他の方々のことは、今は」と秩序ちゃんが言った。「今日のことだけにしましょう」
真意ちゃんは何も言わなかった。
しばらく二人で黙っていた。
「……始末書」と秩序ちゃんが言った。
「書きますか」
「……何と書けばいいかわかりません。『収容者一名、退室』でいいんでしょうか。被害を受けた人が——帰った。帰れた。良かった、と思う。でも何十年経っていて。それは——」
言葉が続かなかった。
「……とりあえず、記録だけします」と秩序ちゃんは言った。「件名は、また考えます」
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◆深夜・妄執ちゃんの個室
モニターが十二面、静かに光っている。
壁から声がしている。いつもの声だ。
左端の区画に——一枚分の空白がある。
妄執ちゃんはその空白を見ていた。
ノートを開いた。第三十七冊目。今日のページ。
いつもと同じように、今日の来店記録を書いた。指名件数。注文内容。退店確認。
最後に、一行だけ——別のことを書いた。
*外に出た方がいた。*
それだけ書いた。
ペンを置いた。
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壁を見た。
七百万枚の写真と——一枚分の空白。
声がしている。全員の声が。
空白のところだけ、何もない。
妄執ちゃんは空白を少しの間、見た。
それから——第一冊目のノートを棚から出した。
最初のページを開いた。
No.1の記録。来店日時。ダブルチーズバーガー注文。着席時刻——
余白の文字を見た。
薄い字だ。
*「また来ます」*
妄執ちゃんはその文字を見た。
しばらく、見た。
「……来ましたわ」と妄執ちゃんは言った。
誰に言ったかは——わからない。
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ノートを棚に戻した。
鳥籠型ベッドに入った。
上を向けば、中央の写真が見える。後ろ姿の写真。声がしない写真。
壁から声がしている。
空白のところだけ、何もない。
妄執ちゃんは目を閉じた。
「また来てくださいね」と言った。
今日は——誰に言ったかが、少し違う気がした。
いつもと同じ言葉だ。
でも向いている方向が——少し違う気がした。
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◆深夜・秩序ちゃんへの業務報告
*接客・感情部門・日次報告書*
*提出者:妄執*
本日の指名対応件数:二十五件(うち全件リピーター)
本日の全客のご注文:ダブルチーズバーガー(一〇〇%)
退店後行動確認:二十四件、退店後外部カメラへの映り込みなし
一件、退店後外部カメラへの映り込みあり(正常退店確認)
翌日指名:二十五件中二十四件、受付済み
特記事項:本日、写真収容対象者一名を秩序ちゃんの判断のもと退室させました。収容開始日は第一冊目、No.1。退室後、外部カメラへの映り込みを確認。
以上。
*(秩序ちゃんによる返信)*
「妄執さん。確認しました。」
「今日、No.1の方を送り出した時——何か、思うことはありましたか」
*(妄執ちゃん)*
「……来てくださっていたので。」
「来て、出て、外に行かれました。」
「それで正しいかと。」
*(秩序ちゃん)*
「そうですね。」
「……一つだけ、聞いていいですか。」
*(妄執ちゃん)*
「どうぞ。」
*(秩序ちゃん)*
「覚えていない、とおっしゃっていましたね。最初の方のことが。」
「今も——覚えていないですか」
返信まで、少し時間があった。
*(妄執ちゃん)*
「……覚えていませんわ。」
*(秩序ちゃん)*
「……そうですか。」
「おやすみなさい。」
「妄執さん。」
*(妄執ちゃん)*
「はい。」
*(秩序ちゃん)*
「……来てくださって、よかったですね。」
*(妄執ちゃん)*
「ええ。」
「来てくださって、よかったですわ。」
───── 既読のまま、夜が続いた。 ─────
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翌朝、業務端末に通知が来た。
*「担当者指定:妄執」×二十四件。*
妄執ちゃんは一件ずつ承認した。
壁の空白を、一度だけ見た。
それから、フロアの準備を始めた。
今日も、来る。みなさんが来る。
空白は、空白のままだ。
それだけのことだ。




