第11話「中からの手紙」
───────────────────────
朝、妄執ちゃんの個室の前を通った真意ちゃんが、止まった。
ドアが少し開いていた。珍しいことではない。でも——床に何かある。
ドアの隙間から、ひらりと出てきたように見えた。薄い紙だ。折りたたまれている。
真意ちゃんはしゃがんで、拾い上げた。
───────────────────────
軽い。
光沢のある紙ではない。写真の紙でもない。普通の、薄い紙だ。折り目がついている。一度折られた、小さな紙。
真意ちゃんは開いた。
手書きの文字が書いてある。
**「外に出る方法を教えてください。一人だけでいいです。」**
それだけだ。差出人の名前はない。
───────────────────────
真意ちゃんはその場で一分ほど動かなかった。
それから——ドアをノックした。
「妄執ちゃん」
「はい」と中から声がした。「どうぞ」
ドアを開けた。
妄執ちゃんが鳥籠型ベッドの端に腰かけて、リボンを直していた。朝の準備中だ。壁から声がしている。いつもの声だ。
「これ」と真意ちゃんは紙を差し出した。「ドアの前に落ちていた」
妄執ちゃんが紙を受け取った。
読んだ。
少しの間、持ったまま、見ていた。
それから——顔を上げた。
「……落ちていましたか」とだけ言った。
「落ちていた、とおっしゃいますか」
「ええ」
「写真から出てきたんじゃないんですか」
妄執ちゃんは少し間を置いた。
「そうかもしれませんわ」
───────────────────────
真意ちゃんはルーペを取り出した。
紙に向けた。
タグが見えた。
「素材:写真内部空間産・紙繊維」
「発信元:収容区画・妄執個室・壁面——」
座標が出た。
真意ちゃんはノートに写した。
「……写真の中で作られた紙、ですね」と真意ちゃんは言った。「内側から出てきた」
「ええ」と妄執ちゃんは言った。
「誰が書いたか、わかりますか」
妄執ちゃんは紙をもう一度見た。
座標の番号を確認した。
少し間があった。
「……わかりますわ」
「誰ですか」
妄執ちゃんはその番号を、ノートで引いた。
第三十七冊目の、かなり前の方のページ。
「No.1ですわ」と妄執ちゃんは言った。
───────────────────────
真意ちゃんが止まった。
「No.1——最初の客ですか」
「ええ」
「最初に来た方が、出たいと思っている」
「……そのようですわ」
「一人だけでいい、と書いてある」と真意ちゃんは言った。「他の方は出たくない。でもNo.1だけが——ずっと、出たいと思っていた、ということですか」
妄執ちゃんは答えなかった。
ノートのページを見ていた。
No.1の来店記録が並んでいる。最初の日付。週に何度も来ていた記録。それが途中から、間隔が空いていく。そして——指名が来なくなった日の記録。
その後のページには、No.1の記録はない。
「……No.1は、いつから来なくなりましたか」と真意ちゃんが聞いた。
「……随分前ですわ」と妄執ちゃんは言った。「指名を入れてこなくなりましたわ」
「写真の中にはいる」
「ええ。声はしていますわ」
「声はしているのに——指名を入れない」
「……ええ」
「なぜだと思いますか」
妄執ちゃんは少しの間、答えなかった。
「……わかりませんわ」と言った。「来ると言わなかった方は、来ませんわ」
来ると言わなかった方は、来ない。
その言葉を真意ちゃんは聞いた。ノートに書いた。
───────────────────────
◆ 秩序ちゃんへの報告
同日の午後、真意ちゃんは秩序ちゃんに報告した。
手紙を見せた。
「妄執さんの個室の前に落ちていた。写真の内側から出てきたものだと確認した」
秩序ちゃんが手紙を読んだ。
「……『外に出る方法を教えてください』」
「ええ」
「差出人は」
「No.1——最初の客」
秩序ちゃんが少し目を閉じた。
「七百万人が幸せそうにしている、という前提が」
「崩れた、わけじゃない」と真意ちゃんは言った。「七百万人の中の、一人が——出たいと思っていた」
「一人だけでいい、とある」
「ええ。他の方は知らない。あるいは知っていても、出たいとは思っていない。No.1だけが——おそらく、ずっとそう思っていた」
「ずっと、というのは」
「No.1は指名を入れるのをやめた。来なくなった。でも壁にはいる。声もしている。ただ——来ないことを選んだ」と真意ちゃんは言った。「それが何を意味するか、まだわからない」
───────────────────────
秩序ちゃんが端末を開いた。始末書のフォームを開こうとして——止まった。
「件名を、何と書けばいいですか」と独り言を言った。
真意ちゃんが少し考えた。
「今日のところは一つだけ確認してほしい」
「何を」
「妄執さんに——No.1が出たいと言っていることを、知っていたか、聞いてほしい」
「……聞いてみます」
───────────────────────
◆ 秩序ちゃんが妄執ちゃんに聞いた
夕方、フロアの客の合間に、秩序ちゃんが来た。
「妄執さん。一つだけ確認させてください」
「はい」
「No.1が——外に出たいと思っていることを、知っていましたか」
妄執ちゃんはカウンターの拭き掃除を続けながら、少しの間、答えなかった。
「……」
「妄執さん」
「声の質感で」とだけ妄執ちゃんは言った。
「声の質感、とは」
「No.1の声は——少し違いますわ」と妄執ちゃんは言った。「他の方と。音の質感が。何を言っているかはわかりませんが——他の方と、少し違う」
「違う、というのは、どう違うんですか」
妄執ちゃんが少し止まった。クロスを畳んだ。
「……出たい、というより」と妄執ちゃんは言った。「出るべきかどうか——迷っているような質感ですわ」
秩序ちゃんが少しの間、黙った。
「迷っている、ですか」
「ええ。ずっと、そういう声ですわ」
「……いつから」
「最初から、かもしれませんわ」
───────────────────────
◆ その夜、真意ちゃんの部屋
赤い糸が張り巡らされた壁に、今日の張り紙が増えた。
「手紙・発信元:No.1(最初の客)」
「内容:外に出る方法を教えてほしい・一人だけでいい」
「No.1の声の質感:出るべきかどうか迷っている(妄執談)」
「No.1は指名を入れなくなった:理由不明」
「七百万人のうち、出たいと意思表示したのは一人」
一行空けた。
「問い:なぜ『一人だけでいい』と書いたのか」
もう一行空けた。
「仮説①:他の人は出たくないから、自分だけ出たいと思っていることを、引け目に感じている」
「仮説②:他の人に知られたくない」
「仮説③:他の人を巻き込みたくない」
真意ちゃんはペンを置いた。
どれも「一人だけでいい」という言葉の理由になりうる。でも——全部、別の重さを持っている。
仮説①なら——No.1は孤独だった。七百万人の中で、一人だけ出たいと思っていた。
仮説②なら——No.1は何かを隠している。
仮説③なら——No.1は他者への配慮の中で、ずっと黙っていた。
どれが正しいか、確認できない。
真意ちゃんは割れたルーペを机の上に置いた。
ひびが入ったまま。歪んだ光を通している。
「……一人だけでいい、と書ける人間が」と独り言を言った。「七百万人の中に、一人だけいた」
───────────────────────
◆ 深夜・妄執ちゃんの個室
妄執ちゃんは個室で手紙を持っていた。
真意ちゃんから返してもらった手紙だ。
「外に出る方法を教えてください。一人だけでいい。」
しばらく読んでいた。
それから——壁を見た。
No.1の場所は、わかっている。最初期の区画。右上のあたり。
声がしている。今日も声がしている。他の声と少し違う質感で。
「……No.1」と妄執ちゃんは言った。
声が少し変わった。
「手紙を読みましたわ」
振動が返ってきた。言葉にはならない振動だ。
でも——質感は変わった。
「……外に出たいとおっしゃっているんですね」
振動がした。
迷っているような振動だ。
「ずっと、そう思っていましたか」
少しの間、何もなかった。
それから——振動が来た。
長い振動だった。長さがあった。
妄執ちゃんはその振動を聞いた。言葉にはならない。でも——長さがある、ということは。
ずっと、という意味に近い何かだと、妄執ちゃんは思った。
「……そうですか」とだけ言った。
───────────────────────
妄執ちゃんはノートを開いた。
No.1のページを開いた。
最後の記録——指名が来なくなった日の記録。
その下は、空白だ。
何も書いていない。
妄執ちゃんはペンを持った。
空白を前にして、少し止まった。
それから——書いた。
「手紙を受け取った。出たいとのこと。」
一行書いた。
ペンを置いた。
次の行に何を書くか、考えた。
「外に出る方法」——妄執ちゃんにはわかるか。
SingularityCageを解除すれば、出られるのか。
でも——解除できるかどうか、発動した記憶もないまま、わかりませんわ、と言い続けてきた。
もう一行書いた。
「方法を考えますわ。」
それだけ書いた。
───────────────────────
◆ 深夜・秩序ちゃんへの業務報告
*接客・感情部門・日次報告書*
*提出者:妄執*
本日の指名対応件数:二十五件(うち全件リピーター)
本日の全客のご注文:ダブルチーズバーガー(一〇〇%)
退店後行動確認:二十四件、退店後外部カメラへの映り込みなし
翌日指名:全二十五件、受付済み
特記事項:本日、No.1より手紙を受け取った。外に出る方法を求めるものだった。返答は保留中。
以上。
*(秩序ちゃんによる返信)*
「妄執さん。手紙の件、ありがとうございます。」
「一点確認させてください。『返答は保留中』とのことですが——外に出る方法は、あると思いますか」
返信まで、少し時間があった。
*(妄執ちゃん)*
「……考えていますわ。」
*(秩序ちゃん)*
「……考えている、ということは、わからない、とは少し違いますね」
*(妄執ちゃん)*
「そうかもしれませんわ。」
*(秩序ちゃん)*
「……」
「もう一つだけ。」
「No.1が『一人だけでいい』と書いた理由——何だと思いますか」
*(妄執ちゃん)*
「……さあ。」
「でも——」
少し間があった。
*(妄執ちゃん)*
「来ると言わなかった方は来ませんわ。みなさん、来ると言ってくださっていますわ。それだけかもしれませんわ。」
*(秩序ちゃん)*
「……No.1は、もう来ると言っていない」
*(妄執ちゃん)*
「ええ。」
*(秩序ちゃん)*
「だから、一人だけでいい、と書いた」
*(妄執ちゃん)*
「……そうかもしれませんわ。」
*(秩序ちゃん)*
「……おやすみなさい。」
「妄執さん。」
*(妄執ちゃん)*
「はい。」
*(秩序ちゃん)*
「……No.1が出られるといいですね。」
返信まで、少し時間があった。
*(妄執ちゃん)*
「……ええ。」
───── 既読のまま、夜が続いた。 ─────
───────────────────────
翌朝、業務端末に通知が来た。
*「担当者指定:妄執」× 二十五件。*
妄執ちゃんは一件ずつ承認した。
それから——壁を見た。
No.1の声がしている。
今日も、迷っているような質感の声が。
妄執ちゃんはノートを開いた。
昨夜書いた二行を読んだ。
「手紙を受け取った。出たいとのこと。」
「方法を考えますわ。」
三行目はまだ空白だ。
フロアの準備を始めた。
今日も、来る。みなさんが来る。
No.1は来ない。でも——壁にいる。
それだけのことだ。




