第10話「No.441と、中の人々」
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No.441が来た。今日も来た。
「いらっしゃいませ」と妄執ちゃんは言った。「またお会いしましたわね」
「また来ました」とNo.441は言った。
カウンターに立った。ダブルチーズバーガーを頼んだ。窓際の席に座った。食べた。「おいしい」と言った。
いつもの通りだ。
でも食べ終わった後、No.441はすぐ立ち上がらなかった。
フロアの壁を、見た。
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じっと見た。
七百万枚の写真が壁を埋めている。天井まで。鳥籠型ベッドのある個室ではなく、ここはフロアだ。フロアにも写真がある。壁の隅々まで。
No.441は以前も、この壁を見ていた。三年前、初めて来た時に——写真が一斉に揺れた日に——見た。
今日も、見ていた。
「妄執さん」とNo.441が言った。
「はい」
「壁に声をかけてもいいですか」
妄執ちゃんが少し止まった。
「……どうぞ」
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No.441が席を立った。
フロアの壁に近づいた。
どの写真に声をかけるか、少し迷った様子だった。それから——写真が密集している一角に向かった。来店歴の古い写真が集まっている区画だ。
「こんにちは」とNo.441は言った。
壁から声がした。
重なった声だ。いくつもの声が、微細に振動として返ってきた。
No.441が少し驚いた顔をした。でもすぐに、また声をかけた。
「ここは——楽しいですか」
声がした。方向が定まった。一つの写真のあたりから。
はっきりとした言葉になっていた。
「……楽しい」
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No.441がその写真に向き直った。
「ここに来るのは——好きで来ているんですか」
「……好きだから来てる」
「いつから来ているんですか」
少し間があった。
「……覚えてない。ずっと前から」
「ずっと前から」とNo.441は繰り返した。「それより前のこと、覚えていますか。ここに来る前のこと」
今度は、長い間があった。
「……あまり、覚えてない」
「ここ以外の場所のこと、覚えていますか」
声がした。でも言葉にはならなかった。振動だけが返ってきた。
No.441はしばらく待った。
それから、別の声がした。違う写真のあたりから。一つではなく、少し重なって。
「……あなたのこと、知ってる」
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No.441が止まった。
「私を——知っていますか」
「……うん。ずっと待ってたから」
「待っていた、とは」
「……中央にいたから。声がしなかったから。みんな、気になってた」
No.441は壁の中央を見た。
No.441自身の写真がある。妄執ちゃんが手で撮った写真。後ろ姿の写真。声のしない写真。
「私の写真のことを——ずっと見ていたんですか」
「……うん。妄執ちゃんが毎日、また来てくださいねって言ってたから。みんな聞いてた」
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No.441がカウンターを振り返った。
妄執ちゃんはカウンターに立っていた。
いつも通りの顔で。ただ——今日は少し、視線が違う気がした。
壁ではなく、No.441を見ていた。
「妄執さん」とNo.441は言った。
「はい」
「三年間——毎日、声をかけていたんですか」
「ええ」
「中央の写真に」
「ええ」
「壁の中のみなさんにも、聞こえていたんですね」
妄執ちゃんは少しの間、何も言わなかった。
「……そうかもしれませんわ」とだけ言った。
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No.441がもう一度、壁を向いた。
「教えてください」とNo.441は言った。壁に向かって言った。「みなさんがここにいる理由——自分でわかっていますか。なぜここにいるか」
しばらく、声がしなかった。
それから——声が来た。一つではなかった。いくつかの声が、重なって。
「……居場所だから」
「……ここが好きだから」
「……また来たいから来てる」
「……」
最後の声は、言葉にならなかった。
ただ、振動だけが来た。
何かを言おうとしている振動が。
No.441はそれをしばらく聞いていた。
それから、静かに言った。
「……そうですか」
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◆ 退店後、妄執ちゃんの記録
No.441が「また来ます」と言って、南の出口から出た。
妄執ちゃんはモニターを確認しなかった。
今日は確認しなかった。
ノートを開いた。No.441の欄。来店。ダブルチーズバーガー。退店。それだけ書いた。
その下に、今日だけ、別のことを書いた。
「壁の方々とお話しになっていた。」
一行だけ書いた。
それから——
「みなさん、ずっと中央の写真を見ていたそうですわ。」
もう一行書いた。
ペンを置いた。
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個室に戻った。
壁を見た。
声がしている。いつもの声だ。
中央の写真を見た。
声がしている。今日も声がしている。No.441が来てから、毎日。
妄執ちゃんはしばらく、中央の写真を見た。
「……みなさん、ずっと待っていたそうですわ」と言った。
写真に向かって言った。
「あなたが来るのを」
写真が、かすかに脈打っている。
答えは返ってこない。
でも——声はしている。
小さく、聞き取れるかどうかのぎりぎりの声が。
妄執ちゃんにはその声が、何を言っているかわかる気がした。
「……そうですわね」と妄執ちゃんは言った。「私も、ずっと待っていましたわ」
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◆ 廊下で涅槃ちゃんとすれ違った
「今日のNo.441、壁に話しかけてたね」と涅槃ちゃんが言った。
廊下を歩きながら、ノートを開いたまま言った。
「ええ」
「みんな答えた?」
「答えていましたわ」
「何を話していたか、聞いてた?」
「少し」とだけ妄執ちゃんは言った。
涅槃ちゃんが少し止まった。
「みんな、中央の写真のこと知ってたんだね」
「そうみたいですわ」
「妄執ちゃんが毎日また来てくださいねって言っていたから——その声も、聞こえてたんだね」
「……そうかもしれませんわ」
涅槃ちゃんがノートに何か書いた。歩きながら書いた。
「ねえ妄執ちゃん」
「はい」
「No.441が話しかけた時、最後に——言葉にならない声がしたでしょう。何かを言おうとしていた声」
「ええ」
「あれ、何だったと思う」
妄執ちゃんは少しの間、歩きながら考えた。
「……わかりませんわ」
「わからない?」
「聞き取れませんでしたわ」と妄執ちゃんは言った。「でも——」
「でも」
「声の質感は、わかりますわ」
涅槃ちゃんが少し止まった。「どんな質感だった」
妄執ちゃんは答えなかった。
廊下を歩いていった。
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◆ 深夜・秩序ちゃんへの業務報告
*接客・感情部門・日次報告書*
*提出者:妄執*
本日の指名対応件数:二十五件(うち全件リピーター)
本日の全客のご注文:ダブルチーズバーガー(一〇〇%)
退店後行動確認:二十四件、退店後外部カメラへの映り込みなし
翌日指名:全二十五件、受付済み
特記事項:本日、No.441が退店前にフロアの壁に声をかけ、収容中の方々と会話を行った。収容者側からの応答確認。特段の問題は見受けられなかった。
以上。
*(秩序ちゃんによる返信)*
「妄執さん。確認させてください。」
「収容者からの応答とは——具体的にどのような内容でしたか」
*(妄執ちゃん)*
「ここが好きだ、また来たい、というご発言がございました。」
「それから——No.441のことを、ずっと待っていたとのことでした。」
*(秩序ちゃん)*
「……待っていた、というのは」
*(妄執ちゃん)*
「中央の写真の方が来るのを、皆さんで待っていたそうですわ。」
「私が毎日声をかけていたことも、聞こえていたようですわ。」
*(秩序ちゃん)*
「……妄執さんが毎日かけていた言葉が、写真の中の方々にも届いていた」
*(妄執ちゃん)*
「そのようですわ。」
*(秩序ちゃん)*
「……」
「一点だけ、追加で確認させてください。」
「No.441が、収容中の方々に『なぜここにいるか自分でわかっているか』と聞いた、とのことですが——その問いに対する答えは、どうでしたか」
返信まで、少し時間があった。
*(妄執ちゃん)*
「居場所だから、ここが好きだから、また来たいから——とのことでした。」
「ただ、一人だけ——言葉になりませんでしたわ。」
*(秩序ちゃん)*
「言葉にならなかった、とはどういうことですか」
*(妄執ちゃん)*
「声はしていましたが、言葉にはなりませんでした。何かを言おうとしている振動でしたが、意味は取れませんでしたわ。」
*(秩序ちゃん)*
「……その方が誰か、わかりますか」
*(妄執ちゃん)*
「わかりますわ。」
*(秩序ちゃん)*
「誰ですか」
*(妄執ちゃん)*
「記録を確認してお伝えできますが——今夜は、少し時間をいただけますか。」
*(秩序ちゃん)*
「……わかりました。」
「おやすみなさい。」
*(妄執ちゃん)*
「おやすみなさいませ。」
───── 既読のまま、夜が続いた。 ─────
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翌朝、業務端末に通知が来た。
*「担当者指定:妄執」× 二十五件。*
妄執ちゃんは一件ずつ承認した。
ノートを開いた。
昨夜書いた二行を読んだ。
「壁の方々とお話しになっていた。」
「みなさん、ずっと中央の写真を見ていたそうですわ。」
三行目を書こうとして——止まった。
「言葉にならなかった声」の持ち主が誰か、妄執ちゃんはわかっていた。
方向で、わかった。
声の質感で、わかった。
でも——書かなかった。
ノートを閉じた。
フロアの準備を始めた。
今日も、来る。みなさんが来る。
それだけのことだ。




