第9話「写真を剥がしたら」
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No.441が来るようになって、四日が経った。
毎日来る。毎日ダブルチーズバーガーを食べる。「おいしい」と言う。「また来ます」と言って、南の出口から出る。
外のカメラに映らない。
妄執ちゃんはその事実をノートに記録しない。一行、書かないままにしている。それだけだ。
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真意ちゃんが来たのは、五日目の午前だった。
フロアのオープン前。妄執ちゃんが厨房でパティの状態を確認しているところに、真意ちゃんが来た。
「妄執ちゃん」と真意ちゃんは言った。「一つ、試してみたいことがある」
「どうぞ」
「写真を一枚、剥がしてみたい」
妄執ちゃんが手を止めた。パティをトングで持ったまま、止まった。振り返らなかった。
「……剥がす、とおっしゃいますか」
「剥がしたら何が起きるか確認したい」とルーペを懐から取り出しながら真意ちゃんは言った。「中の人が出てくるのか。あるいは何も起きないのか。それとも——」
「それとも」
「写真が——ただの紙になるのか」
妄執ちゃんはしばらく、パティを見ていた。
それから——「かまいませんわ」と言った。
「ただし」と続けた。「本人に確認してからにしていただけますか」
真意ちゃんが止まった。「本人に」
「声が聞こえますわ。聞けば、答えてくださいますわ」
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真意ちゃんは妄執ちゃんの個室の前に立った。
ドアを開けた。
七百万枚の写真が壁を埋めている。天井まで。鳥籠型ベッドの内側まで。ピンク色のモニターの光が、写真一枚一枚をぼんやりと照らしている。
声がしている。
重なった声だ。言葉になっているかどうか、聞き取れる音量ではない。でも確かに声だ。振動として空気に滲んでいる。
真意ちゃんは壁の前に立った。どの写真にするか、少し考えた。
No.3847の写真を選んだ。左から三列目、上から七枚目。三年以上来ている人だ。
「No.3847さん」と真意ちゃんは言った。
声が少し変わった。壁全体の声が、微細に揺れた。
「写真を一度、壁から外してみてもいいですか」
声がした。
No.3847の写真のあたりから。
小さい声だ。でも方向はわかる。
「……出たくない」
真意ちゃんは少し動けなかった。
「出たくない、ですか」と真意ちゃんは言った。
声がまた聞こえた。
「……ここが好きだから」
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真意ちゃんは写真に手をかけるのをやめた。
部屋を出た。廊下に出て、壁に手をついた。
整理する。
剥がしてほしくない——と言った。
理由は「ここが好きだから」——だった。
自分が写真の中にいることを、知っているのか知らないのか——まだわからない。
でも「出たくない」とは、はっきり言った。
その「出たくない」という感情は——本人のものか。
第六話で明かされたことが頭にある。ダブルチーズバーガーに圧縮された愛の引力が、「また来たい」という感情を作り出す。食べた客の「また来たい」は、本人の感情ではないかもしれない。
では「出たくない」も——
「……どちらか確認できない」と真意ちゃんは独り言を言った。
しばらく廊下に立っていた。
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◆ 秩序ちゃんへの報告
その日の夕方、真意ちゃんは秩序ちゃんに報告した。
「No.3847に聞いた。写真を剥がしていいか、と」
「答えは」と秩序ちゃんが言った。
「出たくない、と」
秩序ちゃんが少しの間、何も言わなかった。
「……幸せだから、ですか」
「ここが好きだから、と」
「同じことかもしれませんね」
「同じかどうかわからない」と真意ちゃんは言った。「でも——問題はそこじゃないかもしれない」
「どこが問題ですか」
「その『出たくない』という感情が——本人のものかどうか」
秩序ちゃんが止まった。
「……バーガーの引力、ですか」
「かもしれない」と真意ちゃんは言った。「食べた時に摂取した引力が、『ここが好き』という感情を作り出しているなら——No.3847が言った『出たくない』は、No.3847の言葉じゃない可能性がある」
廊下が静かだった。
「……確認できますか」と秩序ちゃんが言った。
「できない」と真意ちゃんは言った。「本人にとっては、どちらでも同じだから。引力が作った感情も、本人が感じている感情も——本人の中では区別がつかない」
「つまり」
「聞いても、わからない」
秩序ちゃんは端末を持ったまま、しばらく廊下に立っていた。
「……始末書の件名を」と秩序ちゃんは言いかけて、止まった。
「今日は何も書けそうにありませんわね」と独り言を言った。
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◆ 深夜・妄執ちゃんの個室
真意ちゃんの報告が終わってから、妄執ちゃんは個室に戻った。
鏡の前でリボンを外した。
壁から声がしている。いつもの声だ。今日も来た人たちの声が、混ざっている。
「No.3847」と妄執ちゃんは言った。「今日、真意ちゃんが声をかけましたわ」
声が少し変わった。
「出たくないとおっしゃったそうですわね」
声がした。方向でわかる。左から三列目、上から七枚目。
「……ええ」と言っているように聞こえた。
「そうですか」と妄執ちゃんは言った。「ならよかったですわ」
壁から別の声がした。今日来た誰かの声だ。「また来ます」と言っているように聞こえた。
妄執ちゃんはノートを開いた。第三十七冊目。今日の来店記録を書いた。二十五件。全員、ダブルチーズバーガー。退店後、外のカメラに映らない。
No.441の欄を見た。
来店。ダブルチーズバーガー。退店。
その下に——「外のカメラへの映り込みなし」は書いていない。
一行、空白のまま。
鳥籠型ベッドに入った。
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上を向いた。
天井を埋める写真たちが、ピンク色の光の中で薄く照らされている。
みんないる。
壁を見た。
七百万枚の写真。声がしている。いつもの声だ。
中央の写真を見た。
No.441の写真だ。
声がしている。
今日も声がしている。
ほんの微かに。かすかに。でも確かに——声の質感がある。
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妄執ちゃんは起き上がらなかった。
ベッドの中から、ただ——中央の写真を見た。
声がしている。
それは本当だ。
「……出たくないとは、おっしゃっていませんわね」と妄執ちゃんは言った。
写真は答えない。
「……また来ますと、書いてありましたわ」
写真が、かすかに——脈打っている。
規則正しく。膨らんで、縮んで、また膨らんで。
「……」
妄執ちゃんは目を閉じた。
壁から声がしている。
二十五の声と——一つの声が。
重なって、聞こえている。
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◆ 深夜・秩序ちゃんへの業務報告
*接客・感情部門・日次報告書*
*提出者:妄執*
本日の指名対応件数:二十五件(うち全件リピーター)
本日の全客のご注文:ダブルチーズバーガー(一〇〇%)
退店後行動確認:二十四件、退店後外部カメラへの映り込みなし
翌日指名:全二十五件、受付済み
特記事項:本日、真意ちゃんが個室にて収容者への聞き取りを実施。
No.3847より「出たくない」との回答を確認。
以上。
*(秩序ちゃんによる返信)*
「妄執さん。一点確認させてください。」
「退店後行動確認が二十四件、とあります。二十五件来店されたとのことですが、一件は確認対象外ということでしょうか」
*(妄執ちゃん)*
「No.441については、別途記録しております。」
*(秩序ちゃん)*
「……別途、とは」
*(妄執ちゃん)*
「No.441専用の欄がございますので。」
*(秩序ちゃん)*
「……わかりました。」
「真意さんの報告では、『出たくない』という感情が本人のものかどうか確認できない、とのことでした。」
「妄執さんはどう思いますか」
返信まで、少し時間があった。
*(妄執ちゃん)*
「……みなさん、幸せそうですわ。」
「それで、十分かと思っておりますわ。」
*(秩序ちゃん)*
「……そうですね。」
「おやすみなさい。」
*(妄執ちゃん)*
「おやすみなさいませ。」
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翌朝、業務端末に通知が来た。
*「担当者指定:妄執」× 二十五件。*
全員、また来た。
妄執ちゃんは一件ずつ承認した。
壁を見た。
声がしている。いつもの声だ。
中央の写真を見た。
声がしている。
それだけのことだ。




