第50話 釣り針
第50話
翌朝。
国王が工房へ入ると、いつもの騒がしさがなかった。
金床の上には何も置かれていない。
鉄下駄もない。
桶もない。
箸もない。
米粒もない。
昨日まで散々やらされていた奇妙な修行道具が、綺麗さっぱり消えていた。
国王は工房の中を見回した。
「……今日は何もないんですね」
「ある」
炉の前に立っていた師匠が答える。
その手には、小さな鉄材が一本あった。
国王はそれを見た瞬間、表情を変えた。
「……それは」
「分かるか?」
「釣り針の材料でしょう」
師匠が頷く。
「ああ」
サファイアも国王の隣へ来る。
「とうとうだね」
「ああ」
国王は鉄材を見る。
これまで何度も修行してきた。
最初は、どれも意味が分からなかった。
鉄下駄を履かされ。
兎跳びをさせられ。
箸で鉄鉱石を一粒ずつ運ばされた。
水を担いで長い石段を何度も往復した。
縫い針を作り、米粒に絵まで描いた。
そのたびに師匠は、ろくに説明しなかった。
ただ、
「やれ」
と言った。
国王は何度も思った。
こんなことが本当に鍛冶の修行になるのか。
だが今なら、少し分かる。
足腰。
重心。
指先。
力加減。
集中力。
身体の使い方。
そして何より、鉄を見て、鉄に合わせて手を動かすこと。
それらすべてが、一本の釣り針を作るために必要だった。
「よし」
国王は拳を握った。
「釣り針に取り掛かるとしよう」
師匠は鼻を鳴らした。
「今まで何を作ってたと思ってやがる」
「修行です」
「そうだ」
「でも、やっと本番ですよね」
「本番だ」
その一言に、国王の背筋が伸びた。
師匠は炉へ炭を入れる。
炎が勢いよく燃え上がった。
「今日は、今までとは違う」
「釣り針は小せえ」
「小さいから簡単だと思ったら大間違いだ」
師匠は鉄材を炉へ入れる。
「細くする」
「強くする」
「粘りを残す」
「そして、魚の口へ入った時に確実に掛かる形にする」
国王は黙って聞いていた。
師匠の目は、いつもの修行の時とは違う。
完全に職人の目だった。
先ほどまでの赤い鼻も。
瓢箪を腰から下げていた姿も。
全部、どこかへ消えている。
今、目の前にいるのは、ただ鉄と向き合う一人の鍛冶師だった。
「先生」
「なんだ」
「今回の釣り針は……」
国王は少し間を置いた。
「フフググ用ですよね」
「ああ」
その名前を聞いた瞬間、国王の中で何かが切り替わった。
フフググ。
忘れるはずがない。
針が折られる……。
鍛えた針が耐えられない。
国王は自分の手を見る。
あの魚を釣り上げるために、師匠を探した。
この村へ来た。
そして修行を始めた。
「……とうとうだな」
国王の口から、自然に言葉が漏れた。
「何が?」
サファイアが顔を覗き込む。
「フフググだ」
「ああ」
「自分で作った針で奴に挑む」
「うん」
サファイアは笑った。
「私の針もあるよ」
「そうだったな」
サファイアは自分が作った釣り針を取り出した。
国王も自分の釣り針を見る。
二本。
ほとんど同じ大きさ。
だが、細かく見ると僅かに違う。
国王の針は、わずかに力強い形。
サファイアの針は、細く、無駄がない。
「どっちが強いかな」
サファイアが言う。
「試せば分かる」
国王は答える。
「……負けないよ」
「俺も負けない」
師匠が二人の針を見る。
「両方持って行け」
「両方?」
国王が聞き返した。
「ああ」
「二本とも試すんですか?」
「当然だ」
師匠は釣り針を並べる。
「実際に魚を掛けてみなきゃ分からねえ」
「針は針だ」
「魚を釣るために作ったなら、魚を相手にして初めて完成だ」
国王は頷く。
「分かりました」
サファイアも頷いた。
「私も持って行く」
「そうだな」
師匠は二本の針を小さな箱へ収めた。
その箱を見ながら、国王は少しだけ笑った。
たった二本。
しかし、その中には自分たちが積み重ねてきたものが詰まっている。
失敗。
修行。
師匠の教え。
そして、自分たちの手。
「……」
国王は箱を見つめる。
不思議な気分だった。
以前なら、フフググとの再戦を考えただけで緊張していた。
今も怖い。
だが、それ以上に確かめたい。
自分がどこまで成長したのか。
師匠から何を受け取ったのか。
そして――。
この針が、本当にあの魚へ通用するのか。
「明日ですか?」
国王が聞く。
「ああ」
「早いですね」
「鉄は待ってくれねえ」
「魚も待ってくれませんよ」
「だから急ぐ」
国王は苦笑した。
「相変わらずですね」
「何がだ?」
「説明が少ないところです」
「必要なことは言ってる」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ、明日はどうすれば?」
「釣れ」
「……」
「それだけだ」
サファイアが吹き出す。
「あはは」
「笑うな」
「だって、おじいちゃんらしいんだもん」
師匠も笑った。
「余計なことを考えるな」
「魚を見ろ」
「竿を見ろ」
「針を信じろ」
そして最後に、国王を見る。
「自分の身体を信じろ」
国王は静かに頷いた。
「はい」
その声には、もう迷いがなかった。
炉の中で、鉄が赤く燃えている。
師匠は最後の仕上げへ取り掛かった。
国王とサファイアも、それぞれの針を磨き始める。
小さな鉄。
ほんの数センチにも満たない。
それでも、二人は一切手を抜かなかった。
先端を整える。
返しを確認する。
糸を結ぶ部分を整える。
僅かな歪みを修正する。
最後に指先で触れ、感触を確かめるる。
「……」
国王は自分の針を見た。
完成した。
そう思った。
だが、不思議と不安はなかった。
完璧だとは思わない。
まだ師匠には及ばない。
サファイアにも負けるかもしれない。
それでも――。
今の自分にできるものを作った。
「できました」
国王が言う。
「私も」
サファイアも針を差し出す。
師匠は二本を受け取った。
光にかざす。
角度を変える。
先端を見る。
返しを見る。
そして、ほんの少しだけ笑った。
「悪くねえ」
それだけだった。
だが国王には、それで十分だった。
「ありがとうございます」
サファイアも嬉しそうに笑う。
「じゃあ、明日だね」
「ああ」
国王は頷く。
明日、フフググと向き合う。
今度は違う。
ただ釣るだけではない。
この村で学んだすべてを、自分の手で確かめる。
国王は拳を握った。
「……とうとうだな」
今度は、はっきりと。
決意を新たにするように呟いた。
サファイアが隣に立つ。
「絶対、釣ろうね」
「ああ」
「二人で」
「ああ」
国王は笑った。
そして二人は、明日のために工房を後にした。
その背中を、師匠は黙って見送る。
熊五郎も少し離れた場所から二人を見ていた。
やがて熊五郎が、人差し指を鼻筋へ添える。
「……なるほど」
師匠が振り返る。
「何がなるほどだ?」
「いえ」
熊五郎は眼鏡を押し上げる。
「明日は、面白くなりそうでございます」
師匠は鼻で笑った。
「そうだな」
工房の炉の中で、最後の火が静かに揺れていた。




