修行−7
水の揺れが小さくなっていく。
最初は歩くたびに大きく揺れていた水面が、
今では小さな波紋を作る程度になっている。
国王自身も、その変化に気付いていた。
足を高く上げない。
歩幅を一定にする。
肩を上下させない。
そして、天秤棒を担いでいることを意識しすぎない。
身体を固めるのではなく、重さを受け流す。
そうすると、不思議なほど歩きやすくなった。
やがて頂上へ到着した。
国王は息を整えながら、桶を水瓶へ傾ける。
ざあっ。
水が瓶の中へ流れ込む。
水面が大きく揺れ、やがて静かになる。
「ふぅ……」
国王は肩を回した。
腕を伸ばす。
首を左右へ動かす。
肩に食い込んでいた天秤棒の跡が痛い。
「一回目、終わり」
国王はようやく一息つけると思った。
しかし――。
師匠は首を振る。
「違う」
「え?」
「まだ一杯じゃねえ」
国王は水瓶を見る。
確かに、まだ半分ほどしか入っていない。
底の方には、最初に入れた水が静かに揺れている。
「……これを何往復?」
「一杯になるまでだ」
「……」
国王は無言になった。
師匠は何でもないことのように言っている。
まるで、それが当たり前であるかのように。
サファイアが隣で笑っている。
「頑張って、王様」
「お前は何往復したんだ?」
「まだ三回」
「三回……」
「あと何回かは分からないけど」
「……」
国王は遠くを見る。
サファイアは笑っている。
師匠は腕を組んでいる。
熊公はなぜか頷いている。
誰も助けてくれそうにない。
国王は小さくため息をついた。
そして、空になった桶を持ち直す。
「よし」
再び階段を下りる。
水を汲む。
また登る。
水瓶へ注ぐ。
そして、また下りる。
また水を汲む。
また登る。
……同じ動作の繰り返しだった。
最初は苦痛だった。
一往復するだけでも脚が重くなる。
二往復目には肩が痛み始める。
三往復目になると、腕に力が入りにくくなってくる。
それでも止まらない。
水瓶を一杯にしなければ終わらない。
国王は黙々と階段を往復した。
足を置く。
身体を運ぶ。
水の揺れを感じる。
余計な力を抜く。
最初は頭で考えながら動いていた。
だが、何度も繰り返しているうちに、それが少しずつ変わっていった。
足を置く場所。
歩幅。
呼吸。
肩の位置。
天秤棒を支える角度。
水を揺らさない身体の使い方。
それらを一つ一つ考えていたはずなのに、
いつの間にか考えなくなっていた。
身体が勝手に調整する。
水が傾けば、腰が動く。
桶が揺れれば、肩がそれを受ける。
足場が少し変われば、膝が自然に対応する。
頭で命令するより先に、身体が動く。
それは、鉄を打つ時の感覚に似ていた。
何度も槌を振ってきた身体は、
鉄を打つ瞬間に余計な動きをしない。
どこへ打つかを目で確認し、必要な力だけを使う。
それと同じように、水を運ぶ身体も少しずつ変わっていく。
師匠は何も言わない。
ただ見ている。
時々、国王が水をこぼすと、眉をひそめる。
しかし、助けようとはしない。
サファイアが先に登っていっても、国王を待つことはない。
それでも、時々振り返る。
そして、国王がちゃんと登っていることを確認すると、また前を向く。
何往復したのか。
国王自身にも分からなくなっていた。
ただ、水瓶の水が少しずつ増えている。
それだけが分かる。
そして――。
最後の一杯。
国王は石段を登った。
身体は限界に近かった。
肩は痛い。
腕は痺れている。
脚は鉛のように重い。
それでも、一歩ずつ進む。
カッ。
カッ。
カッ。
頂上へ着く。
国王は桶を持ち上げた。
そして、水瓶へ傾ける。
”ざああ”
最後の水が流れ込む。
水面が大きく揺れる。
そして、静かになる。
国王は水瓶を覗き込んだ。
満杯だった。
ようやく終わった。
国王はその場へ座り込みそうになる。
「……終わった」
「ああ」
「今度こそ?」
「今度こそだ」
国王は安堵した。
肩の力が抜ける。
その場に倒れ込んでしまいそうになる。
しかし師匠は、そんな国王を見ながら平然と続けた。
「いいだろう。明日は倍だ」
「…………」
国王はゆっくり顔を上げた。
「先生」
「なんだ」
「冗談ですよね?」
「何がだ?」
「倍って」
「倍だ」
「……」
国王は師匠の顔を見る。
冗談を言っている顔ではない。
完全に本気だった。
サファイアが横で笑いをこらえている。
肩が小刻みに震えている。
「おい……笑ってるだろ」
「笑ってないよ」
「笑ってるじゃないか」
「だって……」
サファイアは堪えきれず吹き出した。
「あはは!」
国王はため息をついた。
「昔より酷くなってません?」
「お前が王様になったからだ」
「どういう理屈です?」
「王は普通の鍛冶師より鍛えねえとな」
「それ、完全に師匠の気分ですよね」
「気分じゃねえ」
師匠は真顔で答える。
「鍛錬だ」
「そこだけは真面目なんですね……」
国王が苦笑すると、サファイアが横から口を挟んだ。
「でも、おじいちゃんの修行って、変なのばっかりだよ」
「箸とか」
「水運びとか」
「鉄下駄とか」
「兎跳びとか」
国王は指を折りながら数える。
「ああ、確かにな」
思い返してみれば、まともな鍛錬の方が少ない。
普通に槌を振る。
普通に鉄を熱する。
普通に金床で鍛える。
そういった鍛冶師らしい修行をする前に、
なぜか身体ばかり鍛えさせられている。
師匠は鼻を鳴らした。
「全部必要だ」
「本当に?」
「ああ」
「箸も?」
「ああ」
「兎跳びも?」
「ああ」
「鉄下駄も?」
「ああ」
「水運びも?」
「ああ」
国王は師匠を見る。
「……全部ですか」
「全部だ」
師匠は一歩前へ出た。
そして、国王の肩を軽く叩く。
「鉄は重い」
「熱い」
「硬い」
「思い通りには動かねえ」
「だから、鉄を動かせる身体を作る」
国王は黙って聞いていた。
「身体ができてなきゃ、どんなに槌の振り方を覚えても続かねえ」
「一発打てても駄目だ」
「百発、千発と打てなきゃ職人にはなれねえ」
師匠の言葉は、いつになく真剣だった。
国王は自分の手を見る。
王として剣を握った手。
そして今、鍛冶師として槌を握ろうとしている手。
「……分かりました」
国王は立ち上がった。
「明日もやります」
師匠は満足そうに笑う。
「そうしろ」
サファイアも笑った。
「じゃあ、明日は倍だね」
「お前は嬉しそうだな」
「うん!」
「……俺は嬉しくない」
夕暮れの石段に、二人の声が響く。
その下で、師匠の腰の瓢箪が揺れた。
ちゃぷん。
国王はその音を聞いて、ふと振り返る。
「……先生」
「なんだ?」
「やっぱり、その中身……」
「水だ」
「まだ聞いてません」
「なら聞くな」
「……」
国王は苦笑した。
そして、師匠の赤い鼻を見た。
「その鼻も?」
「気分だ」
「でしょうね」
サファイアの笑い声が、再び石段に響いた。




