修行−6
国王は歯を食いしばった。
そして、もう一度足を踏み出す。
カッ。
カッ。
カッ。
その後ろ姿を見ながら、師匠は腕を組んでいた。
赤い鼻。
腰には瓢箪。
そして、どこか満足そうな笑み。
「まだまだだな」
誰にも聞こえない声で、師匠は呟く。
国王はまだ知らない。
これらの修行が、
すべて鍛冶師としての身体を作るためのものだということを。
鉄を打つ時に必要な足腰。
槌を正確に振るための重心。
鉄鉱石を扱うための指先。
そして、重い鉄を運び、長時間立ち続けるための持久力。
どれも、一朝一夕で身につくものではない。
だから師匠は、鉄を打たせるだけではなく、
身体そのものを鍛えている。
何度も歩かせる。
何度も持たせる。
何度も失敗させる。
そして、身体が自然に正しい動きを覚えるまで繰り返させる。
師匠は何も説明しない。
ただ、やらせる。
理屈を教えるより先に、身体へ覚え込ませる。
『身体で覚えろ』
それが、昔から変わらない師匠の教えだった。
水瓶の水が、少しずつ増えていく。
だが、国王の腕はすでに限界へ近付いていた。
天秤棒が肩へ食い込み、桶を持つ手が痺れている。
指先には力が入りにくくなってきた。
脚も重い。
それでも、歩みを止めることはできない。
一段。
また一段。
石段を登るたびに、身体の重心がわずかに揺れる。
そのたびに桶の水が、
「ちゃぷん」
と音を立てた。
国王はその音を聞くたび、眉をひそめる。
水が揺れる。
つまり、身体も揺れている。
「……くそ」
国王は歯を食いしばる。
水をこぼせば、その分だけやり直しになる。
ただ上まで運べばいいわけではない。
一定の姿勢を保つ。
一定の歩幅で進む。
肩の力を抜く。
そして、水を揺らさない。
単純に見えて、やってみれば難しい。
鉄を打つ時とは違う。
だが、身体の使い方という意味では、確かに共通している。
力任せに動けば、身体はすぐに疲れる。
必要なところだけに力を入れ、それ以外は力を抜く。
その感覚を、身体で覚える。
サファイアはすでに一往復を終え、二度目の水を運んでいた。
「兄弟子さん」
「なに?」
「肩、大丈夫?」
「大丈夫だ」
「顔が大丈夫じゃないよ」
「……うるさい」
サファイアは笑う。
しかし、その目には少しだけ心配する色も浮かんでいた。
「無理すると水、全部こぼれるよ」
「分かってる」
「じゃあ、もう少しゆっくり」
「でも遅れるだろ」
「誰と競争してるの?」
「……」
国王は答えられなかった。
確かに、誰かに競争しろと言われたわけではない。
師匠はただ、水瓶を一杯にしろと言っただけだ。
それなのに、自分からサファイアの背中を追いかけている。
国王は小さく息を吐いた。
そして、歩幅を少し狭くした。
一歩。
二歩。
三歩。
さっきより水が揺れない。
「……なるほど」
思わず呟く。
歩幅を狭くする。
身体の上下動を抑える。
足を置く位置を意識する。
それだけで、桶の水面が明らかに安定した。
師匠は階段の下から国王を見上げていた。
「気付いたか」
「はい」
「力を抜いた方が、揺れない」
「そうだ」
師匠は腕を組む。
「鉄を持つ時も同じだ」
「力を入れりゃいいってもんじゃねえ」
「身体が固けりゃ、鉄の動きも殺す」
「柔らかく使え」
国王は頷いた。
言葉は簡単だった。
しかし、その意味は深い。
鉄を扱う時も、力を入れるだけでは駄目なのだ。
槌を振り下ろす瞬間には力が必要になる。
だが、振り上げる時まで力を入れ続けていれば、すぐに腕が疲れる。
腰を固めすぎてもいけない。
脚を踏ん張りすぎてもいけない。
身体全体を連動させ、その瞬間に必要な力だけを使う。
国王は、ようやく師匠が何を教えようとしているのか分かり始めていた。
少しずつ歩調が安定する。
水の揺れが小さくなっていく。
肩へ食い込んでいた天秤棒も、先ほどほど苦しくなくなってきた。
身体が重さに慣れたのではない。
重さを受け止める身体の使い方が変わったのだ。
やがて、石段の頂上が見えてきた。
「……もう少し」
国王は自分へ言い聞かせる。
一歩。
また一歩。
最後の数段を登り切る。
ようやく頂上へ到着した。
国王はその場で大きく息を吐いた。
「ふぅ……」
肩を回す。
腕を伸ばす。
そして桶を水瓶へ傾ける。
ざあっ。
水が瓶の中へ流れ込む。
水面が大きく揺れ、しばらくして静かになる。
国王は水瓶を覗き込んだ。
確かに水は増えている。
だが、まだまだ底が見えている。
「……」
国王は嫌な予感がした。
「一回目、終わり」
そう言って肩を回す。
師匠は首を振った。
「違う」
「……え?」
「まだ終わっとらん」
国王は水瓶を見る。
そして師匠を見る。
「いや、これ……」
師匠は平然としている。
「水瓶を一杯にしろと言っただろう」
「……」
国王は言葉を失った。
サファイアは当然のように空になった桶を持ち上げる。
「じゃあ、次行こう」
「お前は平気なのか?」
「うん」
「……」
国王は空を見上げた。
まだ朝だった。
そして――
今日一日が、まだ始まったばかりだということに気付いた。




