修行−5
熊公だけが、いつものように人差し指を鼻筋へ添える。
「なるほど」
「何がなるほどなんだよ!」
国王のツッコミが石段へ響き渡った。
熊公は悪びれる様子もなく、もっともらしく頷いている。
「いえ、修行の意味が、少し分かったような気がいたしまして」
「お前まで分かったのかよ!」
「はい」
「俺はまだよく分かってないぞ!」
熊公は首を傾げた。
「陛下は水を運んでいるだけでは?」
「それは見れば分かる!」
「では、問題ないかと」
「問題あるんだよ!」
そのやり取りを聞きながら、師匠は気にする様子もなく、瓢箪を腰で揺らす。
ちゃぷん。
中で水が揺れる音がした。
国王は眉をひそめる。
そして、改めて師匠を見る。
赤い鼻。
腰にぶら下がった瓢箪。
どう見ても、何かがおかしい。
「中身、何です?」
「水だ」
「……」
「酒じゃねえぞ」
「聞いてません」
「ならいい」
師匠は満足そうに頷いた。
国王は何とも言えない顔になる。
どう考えても、師匠自身が一番怪しい。
その時、先を歩いていたサファイアが振り返った。
「おじいちゃん」
「なんだ?」
「その鼻、どうしたの?」
「気分だ」
「また?」
「ああ、気分なんだから仕方ねえ」
サファイアは呆れたように笑う。
「もう何でも気分じゃん」
「職人は気分も大事だ」
「絶対違うと思うぞ」
国王は思わず笑ってしまった。
赤い鼻。
瓢箪。
水を担いで階段を登る修行。
そして、それを下から見守る師匠。
やっぱり妙に既視感がある。
国王は一瞬、頭の中に浮かびかけた何かを追いかけようとした。
だが、掴めない。
そもそも、この世界にはテレビもない。
ラジ……電波もない。
おら、こんなこと知らないだ。
(頭の中のノイズが)
おっと、誤字かもしれないが気にしない。
ならば、この光景を知っているはずがない。
知っているとすれば、それは記憶違いか、
ただの気のせいだ。
国王は首を振った。
「……まあ、いいか」
そう呟き、再び天秤棒を担ぎ直す。
肩へ重みが乗る。
水が揺れる。
ちゃぷん。
肩が痛む。
脚が重い。
それでも前へ進む。
カッ。
カッ。
カッ。
一歩ごとに石段を踏む感触が足の裏へ返ってくる。
国王は呼吸を整えながら、一定の歩幅を守る。
急げば水が揺れる。
身体を大きく動かせば、桶が傾く。
だから、余計な力を使わない。
一歩。
また一歩。
それだけを繰り返す。
先を歩くサファイアが、振り返った。
「ねえ、兄弟子さん、遅いよ!」
「分かってる!」
「ほらあ!水、こぼれてる!」
「うるさい!」
「それもう、半分くらいしか残ってないよ!」
「なにっ!」
国王は慌てて桶を見る。
確かに水面がかなり下がっている。
「ちょっ、お前、先に言え!」
「今言ったよ」
「もっと早く!」
「だって、兄弟子さんが聞かなかったから」
「……」
国王は言い返せない。
国王の意識は牛を飼う妄想に駆られていたからだ。
サファイアは笑いながら、また前を向く。
「頑張って!」
「くそ……」
国王は歯を食いしばった。
水をこぼすまいと身体を安定させる。
その瞬間、師匠の声が飛んできた。
「急ぐな!」
「はい!」
「だが、止まるな!」
「はい!」
「水を見ろ!」
「はい!」
「足元を見るな!」
「……はい!」
国王は前を見る。
石段の先。
水瓶。
そこだけを見据える。
足元は見ない。
身体の感覚だけで、一段ずつ登る。
すると、不思議と身体が軽くなった。
目で足場を確認しなくても、足が自然に次の段を探してくれる。
槌を振る時と同じだ。
何度も繰り返した動作は、頭で考えるより先に身体が動く。
国王は少しだけ笑った。
「……なるほど」
今度は、先ほどとは違う意味での呟きだった。
師匠は下から聞いている。
しかし、何も言わない。
ただ、腕を組んだまま、静かに国王を見ている。
やがて国王は、ようやく石段の中ほどまで登ってきた。
肩は痛い。
腕も重い。
脚は疲れている。
それでも、先ほどより身体の動きは安定している。
水の揺れも小さくなった。
ちゃぷん。
ちゃちゃちゃ。
最初の頃のような大きな揺れではない。
まるで桶の中の水まで、国王の歩みに慣れてきたようだった。
その後ろ姿を見ながら、師匠は腕を組んでいた。
赤い鼻。
腰には瓢箪。
そして、どこか満足そうな笑み。
「まだまだだな」
小さく呟く。
だが、その声には僅かな嬉しさが混じっていた。
弟子はまだ未熟だ。
まだ身体に使い方が鈍い。
まだ水をこぼす。
足運びも甘い。
それでも――。
少しずつ、昔の感覚を取り戻している。
師匠はそれを見逃さなかった。
国王は知らない。
自分が一歩進むたびに、
師匠が昔の弟子の姿を重ねて見ていることを。
ただ今は、目の前の水瓶だけを見ていた。
頂上は、まだ遠い。
それでも、国王は歩き続ける。
カッ。
カッ。
カッ。
そして、その足音は少しずつ、鍛冶師の足音へ変わっていった。




