第34話 修行−1
サファイアは、その言葉を聞いて笑った。
「じゃあ、明日から教えてあげようか?」
「遠慮しておく」
「どうして?」
「お前に教わると、余計に兎になれなくなりそうだからな」
「ひどい!」
サファイアは頬を膨らませる。
その顔には、怒っているというより、からかわれたことへの不満がありありと浮かんでいた。
国王はそんなサファイアを見て、思わず笑う。
ほんの少し前まで、二人は勝負をしていた。
王と鍛冶師の孫。
年齢も立場も違う。
それでも、こうして並んで笑っていると、不思議と昔から知っている仲間のような気がしてくる。
師匠は二人のやり取りをしばらく眺めていた。
そして、鼻で小さく笑う。
「くだらねえ話は終わりだ」
「次へ行くぞ」
「まだあるのか……」
国王は空を仰いだ。
朝から鉄下駄。
その次に兎跳び。
身体はすでに十分すぎるほど疲れている。
脚は重い。
肩も張っている。
普段なら、とっくに休憩を入れているところだった。
しかし、師匠には休ませるという考えがないらしい。
サファイアはむしろ楽しそうだった。
「次は何?」
「秘密だ」
「えー」
「行けば分かる」
師匠はそれだけ言うと、さっさと歩き出した。
国王とサファイアも、その後を追う。
工房へ戻るのかと思った。
しかし、師匠が向かったのは工房の裏手にある、小さな作業場だった。
そこは普段あまり使われていない場所らしい。
屋根は簡素なものだが、雨風を防ぐには十分だった。
朝の光が差し込み、作業台の上を照らしている。
そこには、簡素な机が二つ並べられていた。
机の上には、それぞれ一枚の皿。
一方には、細かな鉄鉱石の粒が山のように入っている。
もう一方は空っぽだ。
そして、その横には箸が一本ずつ置かれている。
国王は足を止めた。
「……箸?」
「そうだ」
「何をするんです?」
「鉄を移せ」
「鉄?」
「鉄鉱石だ」
師匠は皿を指差す。
「こいつを、向こうの皿へ移せ」
「……これで?」
国王は箸を持ち上げる。
細く、頼りない。
槌を握ってきた手には、あまりにも繊細な道具だった。
「箸で?」
「箸でだ」
師匠は、それ以上説明しない。
国王はしばらく箸を見つめた。
何か深い意味があるのだろう。
そう思うしかない。
これまでの修行を考えれば、意味もなくこんなことをさせる師匠ではない。
……たぶん。
サファイアは何の疑問も持たず、椅子へ腰を下ろした。
「始めていい?」
「構わん」
サファイアは箸を握る。
その持ち方にも迷いがない。
鉄鉱石の粒を一つ摘まむ。
カチ。
空の皿へ落とす。
もう一つ。
カチ。
さらに一つ。
カチ。
一定のリズムが続く。
鉄鉱石は小さい。
指先ほどのものもあれば、それよりさらに小さなものもある。
形も一定ではない。
丸いもの。
尖ったもの。
平たいもの。
中には、箸の先から逃げるように転がるものまである。
それをサファイアは、まるで何度も繰り返してきた作業のように、正確につまみ上げていく。
摘まむ。
運ぶ。
落とす。
また摘まむ。
動きに無駄がない。
国王は感心した。
「器用だな」
「これくらい普通だよ」
サファイアは手を止めない。
カチ。
カチ。
カチ。
その音が、妙に心地よく作業場へ響く。
国王は改めて鉄鉱石の粒を見た。
これを箸で一つずつ移す。
ただそれだけのこと。
なのに、見ていると妙に難しそうに感じる。
師匠は二人を見ながら、静かに口を開いた。
「鍛冶師は腕だけじゃねえ」
国王は師匠を見る。
「目だ」
「指先だ」
「力加減だ」
師匠は鉄鉱石の粒を一つ拾い上げる。
指先で軽く転がす。
「鉄の一粒を、自分の意思で動かせるかどうかだ」
妙に意味ありげな説明だった。
国王は皿の中の鉄鉱石を見る。
ただの小さな粒にしか見えない。
だが、師匠が言うのなら、きっと何か意味があるのだろう。
鉄は大きな塊だけではない。
鉱石から始まり、溶かし、鍛え、削り、形を整える。
その一つ一つの工程を、自分の手で制御する。
鍛冶師とは、力を振るう職人ではない。
力を必要な場所へ、必要なだけ伝える職人なのだ。
国王はそんなことを考えながら、もう一度サファイアの手元を見る。
カチ。
また一粒。
カチ。
さらに一粒。
サファイアは楽しそうに作業を続けている。
国王は小さく息を吐いた。
「なるほど……」
そして、自分の前に置かれた箸へ手を伸ばした。
槌を握る時とは違う。
いつものように力を込めてはいけない。
もっと繊細に。
もっと正確に。
そう自分へ言い聞かせながら、最初の一粒へ箸を伸ばした。




