第35話 修行−2
「鉄の一粒を、自分の意思で動かせるかどうかだ」
師匠の言葉は短かった。
だが、その声には妙な重みがあった。
まるで、鉄鉱石の一粒に鍛冶師としての何かが凝縮されているとでも言うように。
国王は皿の中の鉄鉱石を見る。
ただの小さな粒にしか見えない。
赤茶けたもの。
黒っぽいもの。
少し光を反射するもの。
どれも鉄になる前の、ただの鉱石だ。
こんな小さなものを箸で移したところで、いったい鍛冶と何の関係があるのか。
正直なところ、まだ分からない。
しかし、師匠が意味もなく修行をさせるとは思えなかった。
弟子だった頃もそうだった。
何の説明もなく、ひたすら同じ動作を繰り返させられたことがある。
その時は意味が分からなかった。
だが、何年も経ってから、その動作が実際の鍛冶で必要になることに気付いた。
だから今回も、きっと何かある。
「なるほど」
国王は小さく頷いた。
そして、箸を握った。
槌を握る時とは違う。
強く握ってはいけない。
指先だけに意識を集中させる。
一粒を挟む。
持ち上げる。
ゆっくりと運ぶ。
空の皿へ――。
つるっ。
カラン。
「……」
国王は無言で落ちた鉄鉱石を見る。
師匠は何も言わない。
サファイアも何も言わない。
ただ、隣から聞こえてくる音だけが妙に耳についた。
カチ。
カチ。
カチ。
サファイアは何事もなかったように、次々と鉄鉱石を移している。
国王は眉間に皺を寄せた。
もう一度。
摘まむ。
持ち上げる。
今度は落とさない。
慎重に運ぶ。
あと少し。
あと少しで皿だ。
その瞬間。
カラン。
「……」
また落ちた。
国王は箸を持ったまま固まった。
鉄鉱石は皿の中を転がり、別の粒にぶつかって止まる。
カチ。
その音を聞いて、サファイアがちらりと国王を見る。
「兄弟子さん」
「何だ」
「箸、苦手なんだね」
「……そうらしいな」
国王は苦笑する。
王として剣を握ったこともある。
鍛冶師として槌も握ってきた。
重い鉄を持ち上げることだってできる。
それなのに、こんな小さな粒一つを運ぶことができない。
なんとも妙な話だった。
「槌は上手なのよね?」
「うるさい」
サファイアは楽しそうに笑う。
「まあ、頑張って」
「言われなくても頑張ってる!」
国王は箸を握り直す。
今度は、少しだけ力を抜いた。
力を入れすぎれば粒が滑る。
弱すぎれば持ち上がらない。
ほんの僅かな力加減。
たったそれだけで結果が変わる。
国王は一度、箸を置いた。
そして自分の手を見る。
槌を握る時には、もっと強く握る。
鉄を打つ時には、腕だけでなく肩、腰、脚まで使う。
だが今必要なのは、その逆だ。
必要以上の力を捨てる。
余計な動きを捨てる。
必要な力だけを残す。
「……」
国王はもう一度箸を持つ。
今度は鉄鉱石へゆっくり近付ける。
挟む。
持ち上げる。
運ぶ。
カチ。
「……お」
今度は成功した。
国王の口元に小さな笑みが浮かぶ。
ほんの一粒。
たった一粒。
それだけなのに、妙な達成感があった。
師匠が小さく頷く。
「そうだ」
「力じゃねえ」
「加減だ」
国王は黙って続ける。
カチ。
カチ。
一粒ずつ。
急がない。
焦らない。
指先へ意識を集中する。
最初よりは明らかに安定してきた。
だが――。
隣を見る。
サファイアはすでにかなりの量を移し終えていた。
その手は止まらない。
カチ。
カチ。
カチ。
国王が一粒を運ぶ間に、サファイアは二粒、三粒と移していく。
国王は思わず苦笑した。
「……やっぱり速いな」
「だから普通だって」
「俺には普通じゃないんだよ」
サファイアは肩をすくめる。
「慣れればできるよ」
「そう簡単に言うな」
「でも、さっきより上手になってる」
国王は少し意外そうにサファイアを見る。
「分かるのか?」
「うん」
「最初は箸の先がガタガタしてた」
「今はちゃんと止まってる」
国王はもう一度、自分の箸を見る。
確かにそうだった。
ほんの少しだが、動きが安定している。
鉄鉱石を挟む瞬間も、先ほどより迷いがない。
師匠が口を開く。
「それでいい」
「上手くなるってのは、いきなり速くなることじゃねえ」
「昨日できなかったことが、今日は少しできる」
「それを積み重ねるだけだ」
国王は黙って聞いていた。
王になってからは、結果を求められることが多かった。
早く決める。
早く動く。
早く成果を出す。
だが、鍛冶の世界では違う。
一打。
また一打。
鉄が熱いうちに打つ。
形を確認する。
また火へ戻す。
そして、また打つ。
急げば失敗する。
焦れば鉄を傷める。
だからこそ、一つ一つの動作を確実に積み重ねる。
国王はその感覚を、久しぶりに思い出していた。
「……なるほど」
今度の呟きには、先ほどとは少し違う実感があった。
サファイアが笑う。
「分かった?」
「ああ」
「でも、まだ負けてるよ」
「……それは言わなくていい」
「ふふっ」
国王は苦笑しながら、再び鉄鉱石へ箸を伸ばした。
カチ。
一粒。
カチ。
もう一粒。
少しずつ、音が増えていく。
しかし、サファイアとの差は縮まらない。
むしろ、サファイアはさらに速度を上げていた。
国王は横目で皿を見る。
自分の皿には、まだ半分ほど。
サファイアの皿は、すでに八割近くまで埋まっている。
「……」
国王の目が細くなる。
こうなると、職人としての意地が出てくる。
「サファイア」
「何?」
「競争じゃないよな?」
「うん」
「……なら、少しゆっくりやらないか?」
「嫌」
「即答か!」
サファイアは笑いながら、また一粒を移す。
カチ。
師匠はそんな二人を見ながら、口元をわずかに緩めていた。
修行とは、ただ技術を教えることではない。
自分から上手くなろうとする気持ちを引き出すこと。
そのためなら、少しくらい競争させるのも悪くない。
国王は知らない。
この一見くだらなく見える箸の修行が、やがて鉄を扱う時の繊細な感覚へ繋がっていくことを。
そして――
この後に待っている修行が、さらに意味不明なものになることも。




