弟子の決意
執事は、国王の横顔を見つめていた。
先ほどまで穏やかだった表情が、いつの間にか鍛冶場で鉄と向き合う職人の顔へ変わっている。
目だけが、鋭く細められていた。
「何かございましたか」
国王は答えない。
代わりに懐から取り出した真鍮製の古びたルーペを、ほんのわずかに傾けた。
窓から差し込む朝日が釣り針へ流れ込み、その表面を細い光が滑っていく。
ほんの僅かな角度の違いで、見えていたものが消え、消えたものが浮かび上がる。
国王は息を止めたまま、その一瞬を待った。
やがて、針の根元近く。
髪の毛ほどの細さしかない一本の線が、青白い光の中へ浮かび上がる。
それは、消えそうになるほど浅い刻印だった。
長年、海水にさらされ、魚と渡り合い、何度も研ぎ直され、それでもなお消えずに残っている。
人の手で刻まれた、小さな印。
「……見慣れた印だ」
「見慣れた……ですか」
「ああ」
国王は静かにルーペを外し、布で軽く拭いてから懐へしまう。
もう一度、釣り針を掌へ乗せた。
掌へ伝わる重みは僅かしかない。
それでも、指先は確かな記憶を思い出していた。
まるで昔の友人と再会したような、懐かしそうな眼差しが釣り針へ向けられる。
「この癖のある研ぎ」
親指で腹を撫でる。
「この焼き戻し」
折れた断面へ視線を落とす。
「この鋼の粘り」
軽く指先で弾く。
チン……♪
澄んだ音が小さく部屋へ響いた。
国王は微笑む。
「そして、この印」
静かに息を吐く。
「全部同じだ」
執事は首をかしげる。
漁師一家も固唾をのんで見守っていた。
「どなたがお作りになったのでしょう」
国王は少しだけ口元を緩めた。
「俺の師匠だ」
その一言に、部屋の空気が止まる。
「陛下にも……師匠が?」
漁師が思わず声を漏らした。
「そりゃいるさ」
国王は苦笑する。
「最初から王様だったわけじゃない」
「昔は毎日怒鳴られて、火花まみれになりながら鉄を打ってた」
その声には、王としての威厳ではなく、一人の弟子だった頃の懐かしさが滲んでいた。
「鉄は嘘をつかねえ、それが口癖でな」
「一本でも気を抜けば飯抜きだった」
漁師は思わず笑ってしまう。
「それはまた、厳しい師匠ですね」
「厳しい?」
国王は首を横へ振った。
「いや、優しかったよ」
しばらく遠い昔を思い返すように目を細める。
「危ない仕事だけは絶対に弟子へやらせなかった」
「溶けた鉄を運ぶ時も」
「大物を鍛える時も」
「『そこは俺がやる』ってな」
国王は静かに笑う。
「弟子が怪我をすると、本気で怒る人だった」
「怒鳴る相手は怪我をした弟子じゃない」
「鉄だった」
針を懐かしそうに撫でながら。
「『俺の鍛え方が甘かった』って、自分を責める人だったよ」
漁師も、その妻も、子どもたちも言葉を失っていた。
そんな職人が、この一本を打ったのか。
そう思うだけで、折れた釣り針がさらに重みを増したように感じられた。
しばらく静かな時間が流れる。
国王は釣り針を両手で包み込むように持ち上げると、元通り布へ包み、小さな木箱へ戻した。
蓋を閉じる手つきまで丁寧だった。
「大事に保管してくれてありがとう」
「おかげで分かった」
漁師は深く頭を下げる。
「そんな……こちらこそ光栄です」
国王は軽く会釈し、家を後にした。
外へ出ると潮風が頬を撫でる。
港には漁船が整然と並び、朝日を受けた波が静かに岸壁を叩いていた。
カモメが一羽、高く鳴きながら空を横切る。
執事が歩調を合わせる。
「その師匠は、今どちらにおられるのでしょう」
国王は青空を見上げた。
「さあな。便りなんて何年もない」
少し間を置く。
「だが、生きている」
「この釣り針が、その証拠だ」
執事は考え込むように歩きながら口を開く。
「すぐにお呼びいたしましょうか」
国王は吹き出した。
「馬鹿を言うな」
横目で執事を嗜める。
「弟子が先生を呼びつけるなんて、そんな失礼な真似ができるか」
「こちらから会いに行くものだ」
執事は姿勢を正した。
「失礼いたしました」
国王は右手を軽く握る。
掌には、もう釣り針はない。
それでも、あの重みだけは残っていた。
「あの爺さんなら、俺が国王になったと聞いても」
国王の口元が緩む。
「たぶん最初の一言は」
国王は師匠のぶっきらぼうな声色を真似る。
「腕は鈍ってねえだろうな」
執事は思わず吹き出した。
「ずいぶん豪快なお方なのですね」
「豪快なんてもんじゃない!世界一頑固な鍛冶師だ」
国王は笑いながら歩き出す。
その足取りは、城を出た時よりも軽い。
王として歩いているのではない。
一人の弟子として、恩師のもとへ向かう青年のようだった。
「旅支度を頼む。久しぶりに先生の顔を見に行こう」
「かしこまりました」
執事は深く一礼する。
その背後で熊公が満足そうに喉を鳴らした。
「グルル……」
まるで旅立ちを歓迎しているようだった。
熊の顔がついた外套なのに……。
国王は熊公の大きな頭をぽんと叩き、どこまでも青く澄んだ空を見上げる。
「待ってろよ、爺さん。今、弟子が、会いに行く」
潮風が三人の背中を押すように吹き抜けた。
新たな旅が、静かに始まろうとしていた。




