第9話「名を知らぬまま」
春祭りの翌朝、デイン村には昨夜の名残がまだあちこちに残っていた。
広場の中央では、あれほど大きく燃えていた焚き火もほとんど灰になり、ところどころから細い煙を上げている。長机には空の皿や木杯が積まれ、家々の間に渡された飾り布も半分ほどがそのままだった。
夜遅くまで騒いでいたせいか、片付けに出てきた村人たちには眠そうな顔も多い。それでも広場では朝から声が飛び交い、机や酒樽、花飾りが次々と運び出されていた。
その頃、赤髪の旅人は宿の二階で旅支度を整えていた。
もともと荷物は多くない。数日分の持ち物を革袋へ戻し、外套を羽織って腰の剣を確かめれば、それで終わりだった。
窓の外では、昨日まで自分も混じっていた村人たちが片付けに追われている。
朝食のあと、少し手を貸そうと宿の主人へ申し出たのだが、「今日はもう結構です」と、きっぱり断られていた。
「まだ随分残っているようだが」
「昨日まで散々手伝ってもらったんです。帰る日の朝まで働かせたら、うちの村が何だと思われるんですか」
「私は気にせんが」
「こっちが気にするんです」
そこへ通りかかった村の男まで、「あんたがいると片付けが早く終わりすぎる」と笑いながら口を挟み、結局、手伝いは諦めるしかなかった。
支度を終えて階段を下りると、帳場の主人が笑顔で待っていた。
「忘れ物はないですか?」
「ああ」
「ならよかった。また近くへ来たら寄ってください。随分変わった客でしたけどね」
「世話になった」
軽く頭を下げて扉を開ける。そして外へ出たところで、男は足を止めた。
宿の前に、大勢の村人が集まっていた。
市場の商人や薬草屋の老婆、昨日一緒に踊っていた若者、荷車の一件で助けた御者、それに何人もの子どもたちまでいる。
その中には、クリスティーンの姿もあった。
男はしばらく彼らを見渡したあと、少し困ったように口を開いた。
「……何事だ?」
「何事って、あんた今日出ていくんだろ?」
「宿の親父から聞いたぞ!」
背後から主人が顔を出す。
「朝飯の時に言ってましたからね」
「言いふらしたのか」
「秘密でもないでしょう」
御者が前へ出てきた。
「もう何日かいればいいのに」
「旅の途中だと言っただろう」
「いやあ、あんたがいてくれたら助かるんだけどな。荷車がまたひっくり返っても安心だし」
「ひっくり返す前提で話すな」
笑いが起こる。
薬草屋の老婆も人垣の向こうから声を上げた。
「次に来た時は、あの青い花のことも教えておくれよ!」
「我よりお前の方が薬草屋だろう」
「だから聞くんじゃないか!」
また笑い声が広がった。
ほんの数日前まで、名前さえ誰も知らなかった旅人を見送るために、これだけの者が集まっている。
そのことを一番不思議に思っているのは、どうやら本人らしい。
「私は大したことをした覚えはないのだが」
「その“大したことない”は、もう誰も信用してませんよ」
主人に言われ、男は納得しかねる顔をした。
そこへクリスティーンが歩いてくる。
「本当に今日行くんですね、昨日はあんなに踊ってたのに」
「それと旅立ちは関係ないだろう」
クリスティーンは笑ったが、いつもより少しだけ寂しそうだった。
「次は、どこへ行くんですか?」
「西の山間部に用がある」
「じゃあ、そのあとって……またこっちへ戻ってくるんですか?」
男はすぐには答えなかった。
もともと戻るつもりはなかった。用を済ませたあとは別の街道へ出る予定で、この村をもう一度通る必要などない。ほんの数日前まで、デイン村は旅の途中で少し立ち寄るだけの場所だった。
宿を取り、見ておきたいものを見て、また旅を続ける。それだけのはずだった。
けれど、クリスティーンは黙って返事を待っている。
気づけば周囲の村人たちまで静かになっていた。
男はそちらへ目を向ける。
「……何故お前たちまで聞いている」
「そりゃ気になるだろ」
「また来るのか?」
「兄ちゃんがいれば片付けも早いし」
「だから仕事をさせるな」
また笑いが起こった。
男はしばらく考えていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……分かった」
クリスティーンが顔を上げる。
「本当ですか?」
「確約はできん。山でどれほど時間を取られるか分からぬからな。だが、長引かなければ来週か再来週頃には、帰りにもう一度ここへ寄ろう」
次の瞬間、あちこちから歓声が上がった。
「何故そこまで喜ぶ」
男は本気で分からないらしい。
クリスティーンは嬉しそうに笑った。
「待ってますね」
「ああ」
「絶対ですよ?」
「確約はできんと言っただろう」
「じゃあ、多分絶対来てください」
「どちらなのだ」
男も最後には呆れたように笑った。やがて荷袋を背負い直し、村の西へ続く道を歩き始める。
「気をつけて!」
「またな!」
そんな声を背に、赤い髪は少しずつ遠ざかっていった。
クリスティーンも村の入口まで皆と一緒についていき、街道が丘の向こうへ曲がって姿が見えなくなるまで、その背中を見送った。
「……行っちゃった」
「また戻ってくるって言ってたじゃない」
隣の女に言われ、クリスティーンも笑って頷いた
ここ数日の出来事が頭から離れなかった。
初めて訪れたはずのデイン村を、どこか昔から知っているように眺めていた。
そして何より、普通の旅人なら一度くらいは訪れる英雄神殿に、ほとんど興味を示さなかった。
初めて顔を見た時から感じていた、あの妙な感覚も残っている。怖いわけではない。嫌な感じがするわけでもない。むしろ一緒にいると、不思議なくらい落ち着く。
それなのに時々、目の前にいる彼が、途方もなく遠いところからやって来た人のように思えるのだ。
「……何なんだろう」
その日の午後、クリスティーンは英雄神殿を訪れた。
目的は参拝ではない。
神殿の奥にある書庫には、古い写本や年代記、各国から寄贈された歴史書が大量に収められている。普段そこを使うのは神官か学者くらいで、クリスティーン自身も子どもの頃に何度か入ったことがあるだけだった。
受付の老神官に事情を話すと、「持ち出さなければ好きに見ていいよ」と、あっさり通してくれた。
書庫には高い棚が何列も並び、革張りの本や紐で綴じられた写本が隙間なく収まっている。
『三英雄年代記』
『古代エアリンデル諸国史』
『黄金の聖女伝』
目についた本を何冊か開いてみたものの、自分でも何を探しているのかはっきりしていない。
しばらく棚の間を歩いているうち、一番奥の下段に分厚い本を見つけた。
色褪せた革表紙の背には、『古代英雄及び諸種族伝承録』と記されている。
「……重っ」
両手で机まで運び、目次を開いた。
ブリシンガー・ヴァルディア。
システィーン・メイルフィ。
バルダー・ガインルフ。
ドゥガル・グリムフォルド。
カリス・ヴァレイン。
子どもの頃から聞き慣れた名前を追っていた指が、一つの項目で止まった。
「……ゼルグ・グラヴェルド」
その名前も知っている。アゼルグラム山脈を守り、英雄たちと共に戦ったとされる古竜。
ところが頁を開いてみると、他の英雄たちと比べて記述は驚くほど少なかった。
理由はすぐに分かった。
神によって古代に創られたとされるブリシンガー・ヴァルディアは、誕生の事情こそ他の者とは異なるが、その起源については伝承が残され、のちに人間として生きた彼が最期を迎えた時期も記録されている。
他の人間の英雄たちにも、おおよその生年と没年があった。だが、この古竜には、そのどちらもなかった。
英雄たちの時代より数千年前から存在したという記録もあれば、それよりさらに古い時代にまで遡る資料もある。
ただ、いくつかの記録に共通する特徴はあった。
金を帯びた赤色の鱗。
空を覆うほどの翼。
人語を解する高い知性。
「赤……」
思わず声に出した。
頁をめくる。やがて目に入った一文に、クリスティーンの指が止まった。
“ゼルグ・グラヴェルドは必要に応じて人の姿を借りたとも伝えられる。人としての姿に関する記録は極めて少ないが、一部の古写本には、赤い髪を持つ大柄な男であったとの記述が残る”
クリスティーンは動かなくなった。
もう一度、同じ文章を読む。
赤い髪、大柄な男、人間離れした力、妙に古い知識。
「いやいや……」
小さく首を振る。
いくら何でも飛躍しすぎている。赤髪の大男など、探せば他にもいるだろう。力の強い人間だっているし、薬草にも建物にも詳しい旅人が絶対にいないとは言えない。
何より、これは二千年近く前の英雄たちと共に戦ったドラゴンである。
もし今考えていることが本当なら、その伝説の古龍が数日前から村の宿で鹿肉の煮込みを食べ、祭りの準備を手伝い、酔った村人に踊りの輪へ押し込まれ、最後には楽師と張り合って広場中を沸かせていたことになる。
「……ないない」
そう呟いた。それなのに、本を閉じる気にはなれなかった。
もう一度、頁の上の名前を見る。
ゼルグ・グラヴェルド。
昨日までなら、遠い昔の物語にしか存在しなかった名前だった。
それが今は、妙に現実味を帯びて見える。
クリスティーンは椅子へ座り直した。
「……もう少しだけ調べよう」
そう言って、次の頁をめくった。




